6月23日(日)説教「洗礼者ヨハネ誕生の予告」

2019年6月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教6月23日(日)

聖 書:マラキ書3章1~5節

    ルカによる福音書1章5~25節

説教題:「洗礼者ヨハネ誕生の予告」

 ルカによる福音書は、主イエスの誕生に先立って、主イエスのために道を整える務めを果たす洗礼者ヨハネの誕生について記しています。ヨハネの父となるザカリアは祭司の務めについていました。祭司は、エルサレム神殿での礼拝の中で、神とイスラエルの民との仲立ちをします。ある日、彼が属していたアビヤ組が神殿での礼拝当番に当たり、彼が代表して神殿の聖所に入り、祭壇に香をたくことになりました。【8~10節】。

 香をたくのは、香の煙と香りが天に昇っていくように、礼拝者たちの祈りが一つに集められて天におられる神に届けられるということを象徴的に表していました。イスラエルの民を代表して神のみ前に立ち、神殿で香をたき、神に祈りをささげ、そして神からの祝福と救いの恵みを民に語り伝えるという祭司の務めは、大変重要で、光栄ある務めであり、ザカリアにその務めが当たったことは、最高に名誉ある、幸いなことでした。それは、単なる偶然ではありません。神の永遠のご計画でした。神がイスラエルの民のために、また全世界のすべての人々のために、そしてわたしたちのために計画しておられた救いのみわざが、この時から具体的に開始され、成就されていくことになるのです。ルカ福音書の最初に書かれているこのエルサレム神殿での出来事は、まさに神の救いの出来事が成就する初めなのです。

 では、次に【11~13節】。「主の天使」とは、み使いとも言われますが、聖書では神ご自身のことです。神は天にいます聖なる方ですから、地にある、罪にけがれた人間の目でそのお姿を直接見ることはできませんし、人間の耳で直接そのお声を聞くことはできませんので、何か他の媒介を用いて神が人間に働きかける際に、天使とかみ使いとかの姿になります。

 「ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」と12節に書かれています。神が人間に出会われるとき、み言葉をお語りになるときに、人間は驚き、恐れるほかありません。地に住み、罪のゆえに滅びるほかない人間が、天におられる聖なる神と出会うとき、わたしたちは自らの滅びと死を自覚せざるを得ません。預言者イザヤは神殿で神と出会ったとき、「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」と叫んだことが、イザヤ書6章に書かれています。他にも、聖書の至る所に、神と出会うときの人間の恐れについて書かれています。わたしたちがクリスマスの時期に読むよく知られたみ言葉もそうです。2章9節以下がそうです。【9~11節】(103ページ)。

 神と出会うときのこの恐れは、いわば「聖なる恐れ」です。本当に恐れがいのある恐れです。神こそが、わたしたちが恐れるべき唯一のお方だからです。そして、神を恐れる人は他のいかなるものをも恐れる必要はありません。なぜならば、神は、ご自身を恐れる人に対して、「恐れるな」とお命じになるからです。最初にクリスマスのおとずれを聞いた羊飼いたちがそうであったように、またザカリアがそうであるように。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と続けて13節に書かれてあるように。

 神が、ご自身を恐れる人に対して、「恐れるな」とお命じになるとき、それはわたしたちの恐れを禁じるだけではありません。神は、恐れを喜びに変えてくださいます。「恐れることはない。ザカリア……ヨハネと名付けなさい」(13節)。神はご自身を恐れる人のためにみ心を行ってくださいます。その祈りをお聞きくださいます。

 ところで、ザカリアが神に祈っていたということ、またその祈りの内容について、聖書は具体的に記していません。彼が何を祈っていたのか、彼のどのような祈りが今神によって聞かれたのか、わたしたちは二つの内容を考えることができると思います。一つは、ザカリアの家に子どもが与えられるようにとの祈りです。ザカリアとエリサベトは長い間その祈りを熱心に続けてきたと思われます。7節からそのことが予想できます。しかし今、彼ら夫婦に、人間的な可能性が全く失われたときになって、神の奇跡によって、彼ら老夫婦に子どもが与えられようとしているのです。

 もう一つの祈りは、ザカリアは祭司として、神とイスラエルの民に仕えることがその務めでしたから、彼はイスラエルの長い苦難の歴史を顧みながら、神の民イスラエルが慰められる時が来るように、イスラエルに救いの恵みが与えられるように祈っていたことも確かです。イスラエルは紀元前6世紀から、バビロニア帝国、ペルシャ帝国の支配下にあり、この時にはローマ帝国に支配されていました。神の民に信仰の自由、礼拝の自由が与えられ、神の栄光が全世界に輝き渡る時が来るようにとの祈りは、信仰深いすべてのユダヤ人の祈りでもあったのです。しかし今、その祈りが聞かれ、イスラエルと全世界の救いが成就する時が来ようとしているのです。

 ザカリアの第一の祈りが聞かれたのか、それとも第二の祈りか、ということを考えていると、実はこの二つの祈りは一つであるということに気づかされます。14節に、【14節】と書かれてあるとおりです。長く子どもがいなかったこの夫婦に男の子が与えられ、その子の誕生がその家庭に喜びと楽しみをもたらすだけでなく、多くの人もまたその子の誕生を喜ぶというのです。神はザカリアとエリサベトに与えられるヨハネという人物をとおして、彼をお用いになって、イスラエルと全世界の救いのみわざの成就を今具体的に開始されようとしておられるのです。イスラエルの民全体のための祈りが、一つの家庭のための個人的な祈りが聞かれるというかたちで成就し、また一つの家庭のための個人的な祈りが、民全体のための祈りとして聞かれ、成就するという、不思議な仕方で、今や神はザカリアの祈りにお応えになるのです。このようにして、神はわたしたちの祈りよりはるかに勝った大きな恵みをもって、わたしたちの祈りに応えてくださるのです。

 ヨハネという名は、「神は恵み深い」という意味を持っています。ユダヤ人にはごく一般的な名前です。主イエスの12弟子の中にもガリラヤ湖の漁師でヨハネという名の人がいます。ヨハネ福音書やヨハネ書簡、ヨハネの黙示録を書いたのも、すべて同じ人かどうかは分かりませんが、ヨハネです。生まれた子どもに名前を付けるのは父親の務めでした。親はその子が、神は恵み深い方であることを信じて歩んでほしい、また神の恵みをいっぱいに受けて成長してほしいと願いながら、わが子をヨハネと名づけました。

 ところが、この場合にはそうではありません。まだその子が生まれる前から名前が決められており、しかも父ザカリアが名づけるのではなく、神ご自身が名づけ親になられたのです。ここには、親の願いに先立って、神ご自身の強い意志、み心、神のご計画があるのです。神は、ヨハネという神の奇跡によって誕生した人間をとおして、彼をお用いになって、実際に神が恵み深くあることをお示しになり、事実イスラエルと全世界に大きな救いの恵みをお与えになるのです。

 主イエスの場合にも、やがてわたしたちが学ぶように、マリアの胎内からお生まれになる前に、神によってそのお名前が決められていたということが31節に書かれています。イエス、ヘブル語ではヨシュア、すなわち「神は救いである」という意味を持つこの神のみ子によって、神は実際にご自身の救いのみわざを、旧約聖書の時代から預言されていた神の永遠の救いのみわざを、成就されたのです。

 ではここで、ヨハネ誕生の奇跡について考えてみましょう。7節に書かれていたように、ザカリアとエリサベトには子どもがなく、しかも二人ともすでに年老いていました。人間的には、あるいは医学的・科学的には子どもが与えられる可能性は全くありませんでした。人間の側からの可能性がすべて消失してしまったときに、神から与えられる奇跡によって、この老夫婦に子どもが与えられます。このような奇跡による子どもの誕生物語は、旧約聖書の中にもいくつかの例があります。その最初は、創世記に書かれているアブラハムとサラの子、イサクの誕生です。アブラハムの妻サラも子どもができない体質であったと書かれています。にもかかわらず、神はアブラハムが75歳の時、「あなたから生まれる子孫は空の星の数ほどになる。あなたの子孫は大きな国民となり、神の祝福を受け継ぐであろう」との約束をお与えになりました。その神の初めの約束から25年が過ぎて、アブラハムが100歳になり、人間的には子どもが授かる可能性は全くなくなってから、子どもイサクが神の奇跡によって生まれました。イサクと妻リベカから生まれたヤコブの場合もそうでした。サムエル記に記されている祭司で預言者のサムエルの誕生もそうでした。

 このように、神の奇跡によって生まれた子どもは、その誕生が100パーセント神の恵みであり、神の奇跡の力によるように、その子の生涯もまた100パーセント神の恵みによって生き、神のみ力によって歩むようになるのであり、その人の存在と命、その生涯と働きのすべてが神のためのものとなり、神にささげられたものとなるのです。

 ヨハネの場合もそうです。15節以下に書かれているとおりです。【15~17節】。このみ言葉の内容については次回詳しく学ぶこととしますが、15節のはじめに「彼は主の御前に偉大な人になり」とあり、また17節の終わりに「準備のできた民を主のために用意する」と書かれているように、洗礼者ヨハネは徹底してその生涯を来るべき神のメシア・救い主であられる主イエス・キリストのみ前に生きるのであり、主イエス・キリストのために生きるのであり、主イエス・キリストに彼のすべてをささげて生きるのです。それが、神の奇跡によって誕生したヨハネの生涯なのです。

 この点においても、先駆者ヨハネは来るべきメシア・救い主、主イエス・キリストの誕生とそのご生涯、そして死を指し示しています。ヨハネとイエスという名前の命名に関して、それが両者ともに本人の誕生前に神ご自身によって決められていたという類似だけでなく、両者の誕生においても、神の奇跡によるという類似があることに気づかされます。主イエスはヨセフとマリアがまだ一緒になる前に、人間の営みなしに、神の聖霊によって、おとめマリアの胎内に宿られました。これこそが純粋に100パーセント神の恵みによって、神の奇跡による誕生でした。それゆえにまた、主イエスのご生涯はすべて父なる神のための歩みであり、神にすべてをささげつくすご生涯であり、そして事実、主イエスは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、従順に父なる神に服従され、その命を神におささげになられました。それによって、全人類を罪から贖い、わたしたち一人一人の救いを成就してくださったのです。

 最後に、もう一度14節のみ言葉に注目したいと思います。【14節】。ヨハネの誕生がザカリアの喜び、楽しみとなり、それだけでなく多くの人たちにも喜びをもたらすと言われているこの喜びは、実はあのクリスマスの時の大きな喜び、「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と2章10節で言われている主イエス誕生の喜びの反映であるということに気づかされます。その喜びがヨセフとマリアという小さな家庭の喜びであるだけでなく、イスラエルの民に与えられる喜びであるだけでなく、全世界のすべての人々の喜びとなり、その喜びによって結び合わされた教会の群れを形成していくのです。わたしたちの教会もまた、先駆者・洗礼者ヨハネ誕生の喜びにあずかり、それ以上に、彼の後においでになるメシア・救い主・主イエス・キリスト誕生の喜びにあずかる者たちとして、ここに喜びの群れを形成しているのです。

(祈り)

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