7月14日「良いわざを始め、完成される神」

2019年7月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編98編1~9節

    フィリピの信徒への手紙1章3~11節

説 教:「良いわざを始め、完成される神」

 フィリピの信徒への手紙には二つの別名が付けられているということを、前にお話ししました。「獄中書簡」と「喜びの書簡」という名前です。本来一緒になるはずがないこの二つの名前がこの書簡につけられているのはなぜか、その秘密、その真理を探っていくことが、この手紙を読む際の一つの楽しみでもあります。きょうの礼拝で朗読された箇所に、すぐにも喜びという言葉が出てきます。そして、その喜びとはいかなるものであるのか、獄に捕らえられているパウロが、それにもかかわらず喜びと感謝に満たされているのはなぜなのかが、この最初の個所で明らかになります。

 【3~4節】。この手紙には「喜び」とか「喜びなさい」という言葉が10数回用いられていますが、その最初が4節の「喜びをもって」、次が18節の「わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」、ここには続けて2度出てきます。この手紙の差出人である使徒パウロは今獄につながれています。7節にそれが暗示されていますし、12節以下でははっきりと彼が今監禁されていることが語られています。それなのに、彼は喜んでいます。なぜでしょうか。獄に捕らえられ、しかも自らが犯した何らかの犯罪とか過ちとかによってではなく、主イエス・キリストの福音を語ったがゆえにユダヤ人やギリシャ人から迫害を受けて、獄の中で鎖につながれ、自由を束縛され、もしかしたら死の判決を下されるかもしれないという不安や恐れ、孤独と絶望に閉ざされてしまいかねないような困難な状況の中で、しかもなおパウロは喜びに満たされている、神に感謝している、それはなぜなのか、わたしたちはぜひともその秘密を知りたいと願わずにおれません。

 もう一度、3節の終わりの個所を読んでみましょう。「いつも喜びをもって祈っています」。パウロの喜びは、まず第一に、祈りと結びついているということが分かります。パウロは獄中で神に祈っています。喜びと感謝をもって祈っています。祈りは、獄中のパウロをすべての束縛や不安、恐れから自由にし、解き放ちます。ここに、パウロの特別な喜びの隠された秘密、その理由があります。パウロにとって祈りは、それはわたしたちすべてのキリスト者にとっての祈りとも共通することですが、神を信じる人の祈りは、祈りの相手である神のみ力が働くときです。祈るわたしには全く力なく、可能性はなく、希望もないにもかかわらず、そうであるからこそわたしたちは神に祈るのですが、わたしたちの祈りによって主なる全能の神が立ち上がってくださり、お働きになってくださる、神のみ心が実現されていく、それが祈りです。たとえ今パウロが獄につながれ、太い鉄格子で囲まれていようとも、たとえだれかが、あるいはこの世のどのような権力が彼を抑圧しようとしても、パウロは祈りによって自由になっています。彼はどのような状況の中でも祈ることができます。祈りは彼を自由にし、彼を縛り付けているすべての束縛を断ち切り、鉄格子を打ち破り、不安や恐れを投げ捨て、そして、彼にこの世ならぬ喜びを感謝を与えているのです。

 したがって、ここからわかる第二の点は、パウロがフィリピ書でしばしば語る喜びとは、天の父なる神から与えられる喜びであるということです。この世で、パウロが努力して手に入れることができた喜びではなく、この世のだれかが、何かが彼に与えることができる喜びでもなく、むしろ、そのようなこの世の喜びがすべて失われてしまったのちにも、天の父なる神から与えられる喜び、祈りによって、全能の神から与えられる喜びなのだということです。この世でわたしたちが手にすることができる喜びといったものは、別の喜びによっておおわれてしまったり、あすになれば憂いに変わってしまったりするほかありません。もちろん、そのような喜びも天からの喜びの反映であり、神はそのような喜びをもわたしたちにお与えくださるでしょう。でも、天からの本当の喜び、どのような状況でも決して変わらず、失われることもない永遠の喜びは、この世のあらゆる束縛をも打ち破り、すべての不安や恐れからわたしたちを解放する喜びなのです。この世にある他のすべての喜びは、この天からの、神からの喜びの反映なのであり、繁栄でなければなりません。

 次に注目すべき点は、3節で「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し」と言っていることです。パウロの感謝はまず神に向けられています。彼がこの手紙を書く主な目的は、フィリピ教会が獄中のパウロに援助の手を差し伸べたことに対するお礼を伝えるということにありました。パウロはもちろんそのことへの感謝を忘れているわけではないでしょうが、しかしパウロはそれについては手紙の終わりの個所で、4章10節以下で具体的に語ります。手紙の冒頭では、何よりもまず神に対する感謝を語っています。神こそがすべての感謝の源だからです。

 もう一つ、この3節で特徴的なことは、パウロはここで「わたしの神」と言っていることです。新約聖書でも旧約聖書でも、神を「わたしの神」と言い表す例はごくわずかしかありません。多くは、「わたしたちの神」「イスラエルの神」と言います。それは、天におられる神の尊厳や偉大さを強調していたからです。そのために、「わたしの神」と親しげに言い表すことを避けていたからです。しかし、パウロはここで大胆にも「わたしの神」と言っています。神との親密な関係を大胆に表現しています。それはおそらく、パウロが今置かれている状況と深く関連していると思われます。パウロは今、ローマかエフェソか、あるいは他の町で獄に捕らえられ、信仰の兄弟姉妹たちから隔離され、一人でやがて下されるであろう死の判決を待っています。けれども、パウロは決して一人ではありません。孤独ではありません。主なる神が、彼と共にいてくださいます。このような困難な状況の中でこそ、パウロは神の存在を身近に感じています。パウロが獄にとらわれている時にも、神はパウロの神であることをやめません。いや、たとえ彼に死の判決が下され、彼が死に赴かなければならなくなるとしても、その時にも神はパウロの神であり続けます。神はどのような時でも、「わたしの神」として、わたしの傍らにいてくださる、わたしと共にいてくださるということを、パウロは強く信じているのです。

 パウロの喜びをさらに探っていきましょう。【5節】。ここでは、パウロの喜びと感謝の源となっていることが何であるのかが、よりはっきりと書かれています。それは、フィリピの教会が主キリストの福音にあずかっているからです。「最初の日から」とは、パウロが第2回世界伝道旅行の途中に、小アジアからヨーロッパに渡って最初にフィリピの地で福音を宣べ伝えた時からということで、それは紀元48年か49年ころと思われますが、それ以来、パウロが今手紙を書いているこの時までずっと、フィリピ教会で主キリストの福音の説教がなされ、聞かれ、信じられてきた、フィリピの教会の人たちは主キリストの福音によって生き続けてきたという事実、そのことをパウロは感謝し、喜んでいるのです。

 なぜならば、主イエス・キリストの十字架の福音は、それを聞き、信じる人を、罪から救い、死と滅びの道から命と希望の道へと導くからです。パウロはローマの信徒への手紙1章16節でこう言います。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。また、コリントの信徒への手紙一1章18節以下では次のように語ります。【18~25節】(300ページ)。主イエス・キリストの十字架の福音はわたしたちを罪と死と滅びから救い、罪ゆるされた人としての新しい人間を創造し、わたしたち一人一人を来るべき神の国の民として導くのです。これこそが、天から、神から与えられた、永遠の喜びであり、この世のすべての鎖や壁を打ち砕き、悲しみや憂いや、不安や恐れからわたしを解放する神の力なのです。パウロはフィリピ教会がこの福音を宣教し、聞き、信じていることを、何にもまして喜んでいる、神に感謝しているということを、手紙の冒頭で語っているのです。

 この喜びはフィリピ教会に与えられている喜びであり、パウロの喜びでもあります。様々な困難や迫害に苦しめられているフィリピ教会、そして今迫害のために獄に捕らわれの身となっているパウロ、その両者がこの天からの、神からの喜びによって固く結ばれているのです。その喜びはまた、今日聖書のみ言葉を読むわたしたち一人一人の礼拝者に与えられている喜びでもあります。主キリストの福音から与えられるこの罪のゆるしの喜び、救われた喜び、自由と解放の喜び、この喜びが全世界の教会の民を一つに結合しています。

 【6節】。ここでは、パウロの喜びと感謝がさらに広げられています。主キリストの福音によって与えられる喜びは、場所や地域や国を超えて、あるいはそれぞれの状況の違いを超えて、すべて福音を信じる人々を一つにする、それだけでなく、時をも超えて過去から現在へ、そして未来へ、終わりの日に至るまで、広がっていく様子を、わたしたちはここに見ることができるのです。

 「あなたがたの中で善い業を始められた方」とは神のことです。フィリピの町に最初に福音を宣べ伝え、教会の基礎を築いたのはパウロですが、またそこに集まり信仰の群れを形成したのはフィリピの人たちですが、彼らをお用いになって教会建設のわざを始められたのは、主なる神ご自身です。神はご自身が始められた救いのみわざを、途中で放棄されることはありませんし、何らかの障害によってとん挫することもありません。神がなさるみわざは必ずや成し遂げられ、完成へと至ります。詩編98編の詩人はこのように歌います。【1~3節】(935ページ)。また、イザヤ書55章8節以下にはこのように書かれています。【8~11節】(1153ページ)。

 それゆえに、パウロの喜びと感謝は時をも超えていきます。「キリスト・イエスの日」とは、世の終わりの日、終末の時、神の国が完成される日のことです。10節や2章16節では「キリストの日」と言われています。主イエス・キリストが再びこの地に下ってこられ、地にあるすべてをお裁きになり、この古い世界を終わらせ、信じる人々を天にある神の国へと引き上げてくださる日のことです。パウロの目は、過去から現在へ、そして終わりの日へと向けられています。それは、主なる神が天地創造の初めからイスラエルの選びの歴史を貫き、主イエス・キリストの十字架と復活によって成就してくださった救いの歴史を、終わりの日に完成させてくださることを固く信じているからです。

 これがパウロの終末信仰です。この終末信仰こそが、パウロの喜びと感謝の根拠です。いかなる現実によっても左右されず、むしろ現実を打ち破り、変革し、新しい道を切り開いていく力と可能性とを持った喜びです。フィリピの使徒への手紙はその喜びに満ちています。それゆえに、「獄中書簡」でありながら「喜びの書簡」と呼ばれるのです。わたしたちにもこの喜びが与えられています。

(祈り)

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