8月18日(日)説教「主イエス誕生の予告」

2019年8月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記18章1~15節

    ルカによる福音書1章26~38節

説教題:「主イエス誕生の予告」

 ルカによる福音書1章には、洗礼者ヨハネの誕生予告に続いて、26節からは主イエスの誕生予告が描かれています。順序はヨハネの誕生予告が先にありますが、そのあとに続く主イエスの誕生予告を語ることがルカ福音書の中心的な目的であることは言うまでもありません。ヨハネは主イエスの先駆者として、いわば露払いの役割を果たします。誕生物語においてそうであるだけでなく、ヨハネの生涯全体が彼の後においでになる来るべきメシア・救い主なる主イエス・キリストのために道を整え、最も近いところで主イエスの到来を預言し、最も近いところで来たり給うた主イエスを指し示し、証しする務めを持っています。

 ヨハネの誕生予告と主イエスの誕生予告は互いに関連しあっており、また共通点が多くあります。きょうはその点に注目しながら主イエスの誕生予告のみ言葉を学んでいきます。

 26節に「六か月目に」とあります。ヨハネ誕生予告があってから6か月後ということです。ヨハネの父ザカリアがエルサレム神殿でヨハネ誕生を告げる天使ガブリエルの約束のみ言葉を聞き、妻エリサベトが身ごもってから6カ月が過ぎて、マリアに主イエスの誕生が告げられたということですから、ヨハネは主イエスよりも半年早く生まれたということになります。

 ヨハネ誕生を告げるみ言葉を語ったのは19節によれば天使ガブリエルでしたが、主イエスの誕生予告を告げるのも天使ガブリエルです。ガブリエルは6人の天使長の一人で、最も重要な神のみ言葉を告げる天使と考えられています。ヨハネ誕生予告も主イエス誕生予告も、いずれもそれをお語りになったのは神です。神がみ言葉をお語りになるとき、そこに奇跡が起こります。新しい命が誕生します。神がザカリアに「あなたの妻エリザベトは男の子を産む」とお語りになると、長い間子どもがいなかった年老いた夫婦に神の奇跡によって子どもが与えられます。神がマリアに「あなたは身ごもって男の子を産む」とお語りになると、まだ結婚していないおとめに神の奇跡によって子どもが与えられます。

 神の奇跡によって子どもが授けられるという例は、旧約聖書の中にいくつかあります。アブラハムとサラの子イサクの誕生がそうでした。創世記18章でわたしたちが聞いたように、百歳のアブラハムと90歳のサラに神の奇跡によって子どもが授けられるという約束が告げられました。14節に書かれているように、主なる神に不可能なことはありません。神は無から有を呼び出だし、死から命を生み出し、不可能を可能にします。また、イサクとリベカの子どもヤコブの誕生の場合もそうでした。預言者サムエルの誕生も神の奇跡でした。そして、洗礼者ヨハネと主イエスの誕生へと続きます。聖書に記されたこれらの神の奇跡による誕生は、わたしたちに何を語っているのでしょうか。

 第一には、人間の命はすべて神から与えられたものであるということを、これらの特別な例によって聖書は明らかにしているのです。人間の一つ一つの命の誕生はみな神の奇跡なのです。

 第二には、神の奇跡によって誕生したこれらの人物は、聖書において神からの特別な使命が与えられ、その生涯を神に仕えて歩むようにされるということです。その誕生が神によって与えられたように、その生涯も神のためにあるということを、聖書はこれらの人物たちによって強調しているのです。そして、そのようにして歩む人生にこそ、神の豊かな祝福があり、神の救いのみわざのために仕えるという大きな実りが与えられるのです。

 以上のことは、イサクから洗礼者ヨハネに至る誕生と次の主イエスの誕生にも共通していますが、しかし、主イエスの誕生の場合には決定的な違いがあることを見逃すことはできません。イサクからヨハネに至る神の奇跡による誕生は、彼らの両親が年老いていたり、人間的な可能性からみれば子どもが授かることが全く考えられなかったにもかかわらず、神の奇跡によって、神からの一方的な恵みと憐れみによって、新しい命が与えられたのですが、それでもそこには人間的な営みがまだ残っていました。

ところが、主イエスの誕生の場合にはそうではありません。ルカ福音書1章27節には「いいなずけであるおとめマリア」と書かれています。また35節では「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と書かれています。主イエス誕生の奇跡は、百パーセント神の奇跡であり、人間的な営みが全くない、百パーセント聖霊なる神のお働き、そのみ力による誕生なのです。

イサクからヨハネに至る神の奇跡による誕生は、最終的にはこの主イエスの最も偉大な神の奇跡による誕生を預言し、指し示していると言えます。また、主イエスの奇跡による誕生によって完成しているとも言えます。神の奇跡によってその命を与えられた彼らが、その全生涯を神にささげて生きたように、否それ以上に、主イエスは父なる神から与えられたその命とご生涯を、神の救いのみわざのために、わたしたち罪びとを罪から救うために、ご自身の尊い命を十字架にささげつくされたのです。それによって、全人類のための救いを完成されたのです。

わたしたちが『使徒信条』の中で、「主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリアから生まれ」と告白している意味がそこにあります。主イエスが聖霊によって、神の奇跡によって誕生されたということと、主イエスの十字架の死による救いの完成とは密接に結びついています。

では、主イエスの奇跡による誕生の予告について、さらに詳しく読んでいくことにしましょう。26節に「天使ガブリエルがナザレというガリラヤの町に神から遣わされた」と書かれています。主イエスの両親となるヨセフとマリアはこの町の出身でした。ガリラヤ地方はイスラエルの首都エルサレムから北へ100キロ以上も離れており、紀元前8世紀ころからたびたびアッシリア軍によって侵略され、外国人が多く移り住むようになったために、イザヤ書8章23節などでは、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれて、ユダヤ人からは軽蔑されていました。同じ神に選ばれた民でありながらも、見捨てられていたガリラヤの小さな町ナザレ、そして、その町に住む貧しいおとめマリアと大工の家に生まれたヨセフが、神のみ子、救い主イエス・キリストの両親となるように選ばれたのです。

ここには、神の不思議な選びがあります。神は小さなもの、貧しいもの、見捨てられているものをお選びになります。それによって、神の選びの偉大さ、豊かさ、そこに示されている神の大きな恵みと憐れみとをお示しになるためです。また、それによってイザヤ書9章に預言されているみ言葉が成就するためです。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(1節)。主イエスは、罪という闇に覆われていたこの世界を照らすために、そしてすべての人を照らすまことの光として、この世においでくださいました。

27節に「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめマリア」と書かれています。主イエスはダビデの子孫としてお生まれになったということはマタイ福音書でも、またパウロ書簡でも同じように証しされています。これは、主イエスが旧約聖書で預言され、イスラエルの民が待ち望んでいた神の約束のメシア・キリスト・救い主であるということ、またいわゆる「ダビデ契約」を神がこれによって成就されたということを示しています。

神は全世界の民の中からまずイスラエルをお選びになり、この民によって救いのみわざを始められました。紀元前10世紀の偉大な王であったダビデに神はこのように約束されました。「わたしはあなたの身から出る子孫に後を継がせ、その王国を永遠に建てるであろう」。これが、サムエル記下7章に書かれているいわゆる「ダビデ契約」です。けれども、イスラエルは神に背き、神との契約を守らなかったために、その王国は滅び、民は異郷の地に散らされ、「ダビデ契約」も忘れ去られてしまったかに見えました。ところが、今や、切り倒され、枯れかけた木の根から若枝が芽生えるようにして、ダビデの遠い子孫であるヨセフの子として、神が約束されていた永遠のみ国の王として、神のみ子なる主イエスの誕生予告が告げられるのです。神の約束のみ言葉は決して忘れ去られることはありません。神は必ずや、その約束を成就されます。27節の「ダビデ家のヨセフ」という言葉には、そのことが暗示されています。

洗礼者ヨハネの家系との関連を見てみましょう。父ザカリアはエルサレム神殿で仕える祭司の家系でした。祭司は、神と民との間に立ち、罪ある民を主なる神のみ前に導く、いわば仲保者としての務めを託されていました。ザカリアが天使ガブリエルによって「あなたの家に子どもが与えられる」との約束のみ言葉を聞いたのは、まさに彼が祭司の務めをしていた時でした。ザカリアは天使が語る神の約束を信じられなかったために、20節によれば、口がきけなくなり、神と民との仲保者としても務めを果たすことができなくされました。

そのことは何を語っているでしょうか。祭司の務めを果たすことができなかったヨハネの父ザカリア、しかしそのことは、ヨハネの後においでになる主イエスによってこそ、旧約聖書時代の祭司の務めが完全に果たされるようになるということを、あらかじめ暗示しているのです。主イエスこそが、神と全人類との間に立たれ、ご自身が十字架で流された尊い血によって、全人類の罪を洗い清め、すべての人が神のみ前に進み出ることができるようにするために、神と人との間に立たれる唯一の、完全な仲保者となられたのです。主イエスはまことの大祭司として、動物の血ではなく、ご自身の血を、すべての人の罪を永遠にあがなう清い血としてささげてくださったのです。主イエスはまことの祭司であれら、また永遠の王として神の国を支配され、さらに、ご自身が神のみ言葉そのものであられる真の預言者です。これが主キリストの3職、祭司、王、預言者職です。

28節で天使ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」とマリアに語りかけます。マリアはこの言葉に戸惑います。マリアの何が恵まれているというのか。マリアに何かすぐれた才能とか社会的な地位とか業績があったというのか。いやマリアに限らずとも、神から「あなたは恵まれている」と呼びかけられるならば、だれであれ戸惑い、恐れざるを得ません。わたしたちはみな神の恵みをいただくにふさわしくない、罪にけがれた者、不従順な者であるにすぎないからです。むしろ、神の裁きを受けて滅びざるを得ない者だからです。そうであるにもかかわらず、ここでマリアが「恵まれた人」と呼びかけられているのはなぜでしょうか。

その答えの一つはすでに28節の中に書かれています。すなわち、「主があなたと共におられる」からです。さらに、具体的には30、31節に書かれています。【30~31節】。マリアが祝福され、恵まれた人であるのは、彼女の胎内に宿った新しい命によるのだということがここからわかります。彼女が主イエスの母として選ばれたことにすべての祝福と恵みの源があるということです。彼女自身はまだそのことに気づいてはいませんが、彼女が祝福されているのは彼女の胎の実が祝福されているからです。彼女が主イエスの母として選ばれたから、ただそのことのゆえに彼女は恵まれた人であり、神に祝福された人なのです。

もしわたしたちが「わたしは恵まれた人である」とか「あなたは恵まれた人である」ということができるとすれば、それはどのような人のことなのかということを考えさせられます。大きな家に住み、高価な衣装を身にまとい、豪華な食卓を囲んでいる人のことでしょうか。立派な業績を上げ、社会地位があり、人々から称賛されている人のことでしょうか。必ずしもそうではありません。もちろんそういうこともすべては神の恵みであるのですが、しかしほとんどの人はそのことに気づかず、感謝もしません。本当に恵まれた人とは、神に顧みられている人、神がこんなわたしをもみ心にとめていてくださる、わたしと共にいてくださる、そして主イエスの救いにあずからせてくださっているということを知っている人、そのことを感謝している人、そういう人こそが恵まれた人、神に祝福された人なのです。

(祈り)

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