10月20日(日)説教「福音の信仰のための戦い」

2019年10月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編24篇1~10節

    フィリピの信徒への手紙1章27~30節

説教題:「福音の信仰のための戦い」

 フィリピの信徒への手紙1章27節で、パウロはフィリピ教会の信徒たちに対する勧めの言葉を語ります。【27節a】。12~26節では、パウロは自分の身に起こったことについて語ってきましたが、ここからはフィリピ教会に対して語りかけます。パウロ自身のこととフィリピ教会のこと、この両者に共通しているもの、この両者を固く結びつけているもの、それは主キリストであり、主キリストの福音です。

パウロは主キリストの福音を宣べ伝えたために、迫害を受け、捕らえられ、今は獄の中に縛られています。しかし、パウロはこの迫害と試練のときを喜んでいます。なぜならば、彼が受けた迫害と試練を通して、主キリストの福音がより前進することとなったからです。神のみ言葉はこの世のどのような鎖によっても決してつながれてはいないということが、不思議な仕方で証しされたからです。パウロはいつでも、どのような状況の中でも、自分を主キリストの福音との関連の中で見ています。自分の楽しみとか、自分の人生の計画の実行とか、自分の名誉や満足のためではなく、主キリストの福音がどうであるのか、自分が主キリストの福音のためにどう仕えたかという視点で自分を見ています。

フィリピ教会もまたそうあるべきです。主キリストの福音にふさわしく生きるべきです。もちろん、投獄されているパウロのことが心配です。教会の外からの攻撃や内からの誘惑にどう備えるかということも大きな課題です。教会員一人一人の日常の生活の中でも、多くの労苦があります。しかし、そうであっても、「あなたがたはひたすらキリストの福音にふさわしく生活を送りなさい」とパウロは勧めているのです。「わたしがそうであるように、あなたがたも、そしてすべてのキリスト者はそのようでありなさい。なぜなら、わたしたちが今あるのは主キリストの福音によるのであり、これからのちにも主キリストの福音によってあり続けるのだから」。パウロはすべてのキリスト者の生と死、生きることと死ぬこととを、主キリストの福音とのつながりの中で見ているのです。それがキリスト者の生と死の原点なのです。

「ひたすらに」とは、「ただこのこと一つだけに集中して」という意味です。他にも、多くの課題やなすべきことがあるかもしれないが、何よりもまず、このことを第一として考えなさい。それは、主キリストの福音にふさわしく生きることだとパウロは言います。主キリストの福音とのつながりの中でわたしの生と死を考える、これがキリスト者の生と死の原点である。それと同様に、主キリストの福音にふさわしく生きる、これがわたしたちキリスト者の生活原理であると言ってよいでしょう。ほかにどのような人生の課題があろうとも、今取り組まなければならない仕事や解決しなければならない問題があろうとも、それらを第一にするのではなく、主キリストの福音にふさわしく生きることを中心に据えて、その中心から他のもろもろの課題を考えていく、それがキリスト者の生活原理なのです。

他の書簡では別の表現も用いられています。テサロニケの信徒への手紙一2章12節では、「神の御心にそって歩む」、コロサイの信徒への手紙1章10節では、「主に従って歩む」、エフェソの信徒への手紙4章1節では、「神の招きにふさわしく歩む」とも言われています。いずれにしても、自分の価値判断とか、だれかが立てた基準とか、この世の価値基準に従って生きるのではなく、神のみ心、主キリストの福音を基準にして生きる、生活する、またそれを中心にして他のすべての課題を考える、それがわたしたちキリスト者の生活原理です。

主イエスは金持ちで立派な行いを誇っていた人に、「あなたに欠けているものが一つある。行って、あなたの持ち物をすべて売り払い、貧しい人たちに施しなさい。そして、わたしに従ってきなさい」とお命じになりました(マルコ福音書10章17節以下参照)。また、ルカ福音書10章42節では、せわしく立ち働いていて心を乱していたマルタに、「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われました。主イエスのみ言葉を聞くことに集中することこそが、他の何にもまして重要なのです。そこから、すべてが始まるのです。

では、フィリピの信徒への手紙の中で「主キリストの福音にふさわしい生活を送る」とは具体的にどのような生き方なのかを考えてみましょう。「生活を送る」という言葉は「市民生活をする」という意味であり、3章20節ではこの言葉の名詞形が「本国」と訳されています。これは「国籍」という意味です。パウロはこの言葉を用いることによって、天に本国があり、神の国に市民権を持つキリスト者が、神の国の市民にふさわしい生活をするようにということを暗示しているように思われます。わたしたちキリスト者は今はこの世に住み、この国の国民として、この町の市民として生活していますが、主キリストの十字架の福音によって、この罪の世から贖いだされ、神の国に属する者とされました。わたしたちの本来の国籍は天にあります。それゆえに、地上の過ぎ去りゆくものを追い求めず、朽ち果てるべきこの世の宝に目を奪われず、心と目を天に向け、来るべき神の国の到来を待ち望みつつ、永遠なるものを追い求めて生きるようにと招かれているのです。

天に国籍を持つキリスト者は「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」と27、28節に続けて書かれています。ここでは、主キリストの共同体である教会のことが言われています。主キリストの福音を信じて救われている共同体である教会は、一つの霊、聖霊によって固く立つことができます。使徒言行録2章に書かれているように、最初の教会は聖霊の降臨によって建てられました。教会は絶えず注がれる聖霊によって立ち続けます。自分たちの足で立つのではなく、立つことができるのでもありません。教会に集められている人の数とか経済力とかによって立つのでもありません。聖霊なる神が弱く貧しい一人一人をお用いになられ、その信仰を養ってくださり、その交わりを強めてくださり、一つのみ言葉のもとに、一つの信仰告白のもとに集めてくださることによって、教会はいつの時代にも、どのような試練のときにも、固く立つことができるのです。聖霊は教会の一致を与える神であり、また教会の足を固くする神であられます。

さらに、聖霊なる神は教会の民を福音の信仰のための共同の戦いへと赴かせると言われています。聖霊は信仰の戦いを導く神であられます。エフェソの信徒への手紙6章17節では、「霊の剣、すなわち神の言葉」と書かれています。聖霊は神のみ言葉と共に働き、敵を打ち破り、悪を打ち負かし、罪を滅ぼします。教会の民は聖霊なる神と共に、神のみ言葉を携えてこの世での信仰の戦いに出陣するのです。

ここには、天に国籍を持つ神の民である教会のこの世における戦いの姿勢が強調されています。教会はその信仰を教会内部にだけ閉じ込めておくことはできません。なぜなら、教会を生かし、教会を強めてくださる聖霊なる神と神のみ言葉が鋭い剣として罪のこの世を切り裂き、新しくされた命を創造し、神の義と神の国を建設してくださることを、教会は知っているからです。教会は自らの中に安住していることはできません。「聖霊の剣である神のみ言葉」を携えて、この世での信仰の戦いへと赴くようにと召されています。

宗教改革者カルヴァンは地上の教会を「戦闘の教会、戦い続けている教会」と呼び、天に召された信仰者の群れを「勝利の教会、戦いを終えて勝利を手にしている教会」と呼びました。主イエス・キリストご自身がその地上での全ご生涯が罪との戦いであり、十字架のご受難に向かう戦いであったように、キリスト者も地上にあっては主キリストにある信仰の戦いを続けるのです。そして、主イエスの戦いが復活と昇天の勝利であったように、キリスト者にも最後の勝利が約束されているのであり、地上の信仰の戦いを終えて天に召された信仰者たちはその勝利へとすでに招き入れられているのです。

パウロはそのことを28節の後半でこのように言っています。「このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです」。教会の民がこの世の反対者からどのような脅しや攻撃を受けようとも、決してたじろがず、後退せず、恥じることなく、主キリストの福音の信仰に固く立ち続けているならば、神はそのような教会の民に勝利を約束していてくださいます。その勝利を信じて信仰の戦いを続けるならば、それは敵対者たちにとっては敗北であり、滅びのしるしとなります。それは神ご自身がなさるみわざです。

29~30節では、キリスト者の信仰の戦いのさらに積極的な意味が語られます。【29~30節】。信仰の戦いは反対者たちからの攻撃に対して立ち向かうという、外からの必要に迫られて、いわば、いやいやながらも避けられないでしなければならない戦いなのではなく、キリスト者の信仰の戦いは主キリストを信じることに当然に伴っている戦いであり、いやそれのみか、それは神から与えられた恵みと言うべき戦いなのだとパウロは言うのです。それだけではありません。この戦いは主キリストのために苦しむ戦いなのです。もっと明確に言うならば、主イエス・キリストご自身の苦しみに共にあずかること、主キリストのご受難の歩みを共にすることなのです。

今パウロが福音宣教のために迫害を受け、捕らえられ、獄につながれているように、またフィリピの町で最初に福音を宣べ伝えたときに、パウロとシラスが投獄されて鞭打たれたように(使徒言行録16章16節以下)、信仰の戦いは苦難と試練の連続です。フィリピ教会はそのようなパウロの信仰の戦いを実際に見、今またそのことを聞き、そしてパウロのためにあつい祈りをささげ、支援物資を送り、また教会の外部と内部からの反対者たちと信仰の戦いをすることによって、フィリピ教会はパウロと同じ戦いをしているのだとパウロは言っています。パウロもフィリピ教会も共に主キリストご自身の苦難と戦いにあずかっているのです。ここに、キリスト者の豊かな交わりと一致があり、光栄があり、誇りがあり、豊かな恵みがあるのです。

聖書には、信仰による苦難は信仰者にとっては神から与えられた大きな恵みであると言われている箇所が数多くあります。ペトロの手紙一2章19節以下を読んでみましょう。【19~21節】(431ページ)。また、4章12節以下をも読んでみましょう。【12~14節】(433ページ)。使徒言行録14章22節には、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」というパウロの言葉があります。

キリスト者にとって、信仰の戦いは、それは多くの場合苦しみや痛みを伴うものではあるけれども、しかしそれはわたしたちの信仰の道にとって決して損失とか禍とかではなく、むしろそれは神からの恵みの賜物なのです。わたしたちを神の国へとお導きになる神の恵みなのです。わたしたちは主キリストを信じる信仰を恵みとして神から賜ったように、主キリストのための苦難をも恵みの賜物として神から与えられているのです。

(祈り)

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