11月10日 説教「わたしは道であり、真理であり、命である―主キリスト」

2019年11月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編90編1~12節

    ヨハネによる福音書14章1~7節

説教題:「わたしは道であり、真理であり、命である―主キリスト」

 教会の古くからの伝統によると、11月1日は「諸聖人の日」と呼ばれ、カトリック教会で聖人とされた人たちや殉教した人たちを記念する日とされていました。それにならって、プロテスタント教会でも、11月の初めの主日に逝去者、あるいは召天者記念礼拝をささげるようになりました。信仰をもって地上の歩みを終えた教会員やその家族を覚えて記念礼拝をささげるということは、彼らの信仰と地上の歩みをお導きくださった主なる神を礼拝するということに他なりません。それと共に、今地上の歩みを続けているわたしたち一人一人をも神がすべての必要なものをもって、終わりの日まで導いておられるということを覚え、感謝する礼拝でもあります。

 きょうの秋田教会逝去者記念礼拝では、ヨハネによる福音書14章1~7節のみ言葉をご一緒に聞きましょう。前の13章から、主イエスの受難週の木曜日のことが書かれています。つまり、主イエスが十字架につけられる前日のことです。夕食の時(これは、共観福音書では、いわゆる最後の晩餐ですが)、主イエスは席から立ち上がって、12弟子一人一人の足を洗われました。主イエスのこの行為は、翌日の十字架の死の意味をあらかじめ予告しています。すなわち、主イエスはわたしたちすべての罪びとたちの僕として、奴隷が主人に仕えるようにわたしたちのためにお仕えになられ、最後にはご自身の命をおささげくださるほどにお仕えになられ、それによってわたしたちの罪を洗い清めてくださったのです。わたしたちは主イエスの十字架の死によって罪をゆるされている人たちとして、この礼拝に集められているのです。

 そのあとで主イエスは言われました。「わたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と。主イエスによって罪ゆるされているわたしたちは、罪ゆるされ救われている人たちの共同体を形成するために、互いに仕え合い、愛し合う共同体の一人一人として、この教会に集められているのです。だれもが、自分自身のためだけに生きるのではなく、むしろ、主イエスがわたしたちの足を洗われたように、お互いに仕え合い、喜んで他者のために仕えていく新しい愛の共同体を形成するのです。主イエスは13章34、35節で次のように言われました。【34~35節】(196ページ)。

 きょうの礼拝で朗読された14章からは、同じ木曜日の夕食の席で語られた主イエスの長い説教が17章の終わりまで続いています。一般に、主イエスの告別説教と言われています。説教が終わった翌日、金曜日に主イエスは裁判にかけられ、十字架刑を言い渡され、十字架上で息を引き取られることになります。

 主イエスは最後の夕食の時に、すでにご自身の死を予期しておられ、後に残される弟子たちのことを思って、彼らを励ましておられます。1節でこのように言われます。【1節】。尊敬する師であり、自分たちを導く主である方の死に直面して、弟子たちは恐れ、不安になり、失望するに違いありません。リーダーを失って、自分たちだけがこの世に取り残され、今なお罪と悪がはびこっているこの世での信仰の戦いを続けていかなければならない弟子たちを、主イエスは励まし、勇気づけ、なおも希望を失わずに前進していくために、力強い約束を与えておられます。

 【2~3節】。主イエスは弟子たちをお見捨てになるのではありません。主イエスの十字架の死によって、主イエスと弟子たちの関係が断ち切られてしまうのではありません。十字架の死は、主イエスと弟子たちとが永遠に共にいることの始まりとなるのだと主イエスは言われます。主イエスはここですでに、十字架の死のあとに続く復活と昇天を予告しておられます。金曜日に十字架上で死なれた主イエスは三日目の日曜日の朝に、死の墓から復活され、罪と死とに勝利されて、そののち天の父なる神のみもとへと凱旋帰国されるのです。

 主イエスが復活して天に昇られることは、主イエスご自身の罪と死に対する勝利のしるしであるだけでなく、主イエスを信じる弟子たちとわたしたちの罪と死に対する勝利の約束でもあるのです。主イエスが天に昇られるのは、わたしたちが永遠に住む場所を用意するためなのだと言われています。したがって、主イエスの十字架の死は弟子たちとわたしたちを見捨てることになることではなく、また、それによって主イエスと信仰者たちとを切り離すことになるのでもなく、むしろ、主イエスと信仰者たちが永遠に天の住まいで共にいることの約束であり、その始まりなのだというのです。

 これはどういう意味でしょうか。いつ、どのようにしてそのことが実現するのでしょうか。理解のポイントになるのが、3節の「戻って来て」という言葉が何を意味するかです。これには、3つの理解が可能ですが、いずれの理解であっても、キリスト教信仰が目指している目標は一致していますので、その共通点を考えながらみていきたいと思います。

 一つの理解は、主イエスの再臨の時、主イエスが再び地上に降りてこられ、わたしたちの救いを完成される終末のときを指しているという理解です。そのときには、信仰者はすべて墓から復活させられ、主イエスによって天へと引き上げられ、天にある神の国で永遠に主イエスと共にあって父なる神を礼拝する一つの民となるということが、テサロニケの信徒への手紙一4章15節以下等で教えられています。【15~17節】(378ページ)。

 二つめの理解は、信仰者の死のときを指しているという理解です。信仰者が地上の歩みを終えた時、主イエスが彼らを天の父なる神のみもとへと招き入れてくださることがここで約束されていると考えられます。信仰によって神と固く結ばれている信仰者は、死によっても神から引き離されることはありません。神は彼らを永遠にご自身のものとして守られ、支配しておられるゆえに、神との永遠の交わりは死によっても決して断ち切られることはないのです。

 16世紀の宗教改革者たちは、すでに天に召された信仰者たちを「勝利の教会」と呼び、地上で今なお信仰の戦いを続けている信仰者たちを「戦闘の教会」と呼び、それらはお一人の神によって集められている、一つの主イエス・キリストの教会なのだと理解しました。讃美歌29番の頌栄では、「天の民も、地にあるものも、父・子・聖霊なる神をたたえよ」と歌っています。すでに天に召された信仰者たち、わたしたちの教会の先輩たちも、主イエスによって天にある「勝利の教会」に招き入れられているのです。地上にあって今なお信仰の戦いを続けているわたしたちは、彼ら「勝利の教会」に移された信仰の先輩たちと共に、主なる神によって一つに結ばれ、一人の神を礼拝しているのです。

 三つめは、15節以下で語られる聖霊の派遣を指しているという理解です。16節ではこのように約束されています。【16~17節a】。また【26節】。そして【28節】。天に帰られた主イエスは、天から別の弁護者、助け主である聖霊をお遣わしになり、その聖霊なる神のお働きによって、地上に再び戻って来られるというのです。主イエスは弟子たちを、またわたしたち信仰者を地上に孤児としてお見捨てになることは決してありません。聖霊なる神として、教会を通して、永遠にわたしたちと共にいてくださり、わたしたちの信仰の戦いを共に戦ってくださり、弱く迷いやすいわたしたちの地上の歩みを守り導いてくださり、終わりの日に救いが完成されるときまでわたしたちと共にいてくださるのです。

 以上の三つの理解は、主イエスが戻って来られるときはいつかという時期においては異なっていますが、天に昇られた主イエスが弟子たちと、またわたしたちと永遠に共にいてくださり、わたしたちの信仰を導き、完成させてくださるということにおいては一致しています。

 主イエスは金曜日の午後に十字架で死なれ、三日目の日曜日の朝に復活され、40日目に天に昇られ、それから10日後のペンテコステのときに弟子たちに聖霊が注がれ、エルサレムに最初の教会が誕生しました。それ以来、聖霊なる神は教会を通して常に信仰者の救いのために働いておられます。信仰者の死のときにも、聖霊なる神はその人から離れず、主イエスが先だって昇って行かれた天に、主イエスが備えてくださった永遠の住まいへと引き上げてくださいます。そこで、永遠に主と共にあって、父なる神を礼拝する一つの民とされるのです。

 主イエスは告別説教の中でこの約束を弟子たちとわたしたちにお与えになられた後で、6節でこのように言われます。【6節】。今やわたしたちは主イエスのこのみ言葉をよく理解することができます。わたしたち罪びとのために苦難を受けられ、十字架で死なれた主イエス、そして三日目に復活され、天に昇られた主イエスによってこそ、わたしたちは父なる神のみもとへと至ることができるのだということを、正しく知ることができます。

 「わたしは……である」という言い方はヨハネ福音書に特徴的な主イエスのみ言葉です。6章35節では、「わたしが命のパンである」と言われました。10章11節では、「わたしは良い羊飼いである」と言われました。15章1節では、「わたしはまことのぶどうの木である」と言われました。他にもいくつかあります。この言い方では、「わたし」という言葉が強調されています。つまり、「わたしこそが、わたしだけが」という意味です。

 わたしたちは主イエス以外に、わたしをまことの命へと導く命のパンを求める必要はないし、求めるべきではありません。わたしの人生を導く羊飼いを、主イエス以外に求める必要はないし、求めるべきではありません。まことのぶどうの木である主イエスにつながっているならば、わたしたちには豊かな実りが約束されています。わたしたちのためにご自身の命をささげて死んでくださったまことの羊飼いであられる主イエスこそが、また復活されて、罪と死とに勝利された主イエスこそが、わたしたちに新しい命を与え、まことの救いの道へと導いてくださるからです。

 主イエスは「わたしは道である」と言われました。この道は父なる神に至る道です。神と人とをつなぐ道はそれまでは閉ざされていました。人間の罪が神を遠ざけていたからです。主イエスは神と人との仲保者となってくださり、わたしたち人間の罪をゆるし、わたしたちと神との交わりを回復してくださいました。主イエスは人間が神に至る道を、ご自身の死をもって開いてくださいました。それだけでなく、主イエスはわたしたちが神に至る道そのものでもあられます。聖霊によって、わたしたちを天の父なる神のもとへと引き上げてくださいます。わたしたちが地上の歩みを終えて死ぬときにも、主イエスはわたしの道であり続けてくださいます。

 主イエスはまた「わたしは真理である」と言われました。真理とは神の真理のことです。主イエスは神の真理をわたしたちに教えられただけでなく、主イエスこそが神の真理そのものであられました。主イエスが歩まれた十字架への道が、そのまま神の真理でした。神はご自身の独り子を十字架の死に引き渡されるほどに、わたしたち罪びとを愛されました。ここにこそ、神の真理があり、神の愛があります。

 このようにして、道であり、真理であり、命であられる主イエス・キリストが、天におられ、わたしたちのために天の場所を用意して待っておられるのですから、わたしたちは地上にあって、さまざまな試練や厳しい信仰の戦いを経験しなければならないのですが、しかし、最後の勝利を約束されている人たちとして、かしらを挙げ、前の方に全身を向け、目標を目指して走り続けるのです。

 主イエスはまた「わたしは命である」と言われました。命とは、この世に誕生してやがて死んでいくしかない命のことではありません。復活の命のことであり、死から始まり復活に至る命のことです。主イエスご自身が復活され、まことの命に生きておられると同時に、信じる人々に朽ちることのない永遠の命をお与えくださる救い主であられます。

(祈り)

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