11月17日 説教「愛とへりくだった心をもって」

2019年11月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記24章17~22節

    フィリピの信徒への手紙2章1~11節

説教題:「愛とへりくだった心をもって」

 フィリピの信徒への手紙2章の冒頭で、パウロは教会の一致を強く勧めています。【1~2節】。ここでは、「同じ思い」「同じ愛」「心を合わせ」「思いを一つに」という、同じような意味を持つ言葉を4つも重ねながら、教会が一つの群れとして一致するように勧められています。すでに、1章27節でも、「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っている」と書かれていました。ここでは、教会の外の敵対する勢力、たとえば迫害とか異教的な教えや異端的な教理との戦いにおいて、教会が自分たちの身を固めるための一致の勧めでした。

 福音に敵対するこの世の不信仰な世界からの攻撃に対して、たじろぐことなく、福音に固く立って、福音の信仰のために一致して戦い続けるなら、神は必ずや教会に救いと勝利とを与えてくださるでしょう。けれども、主イエスがマタイ福音書12章25節で言われたように、「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない」でしょう。主イエスはさらに18章19~20節でこのように言われました。【19~20節】(33ページ)。たとえ教会が二人、三人の小さな、弱い群れであっても、主イエス・キリストのみ名によって集められているならば、その群れの中心には罪と死とに勝利された主イエス・キリストがおられ、主ご自身がその信仰の戦いを導いてくださるでしょう。それゆえに、教会はどのような凶暴な敵を前にしても、困難に直面しても、恐れることなく、たじろぐことなく、一致して戦うことができるのです。

 きょうの2章では、どちらかと言えば、教会内部における一致、キリスト者たちの信仰生活における一致のことが勧められています。そして、注目すべきは、教会の外からの敵に対する戦いのために一致せよという1章27節の勧めよりも、教会内部の信仰生活において一致せよという2章2節の勧めの方が、より力を込めて言われているということです。外からの敵に対抗するために一致が必要であるだけでなく、それ以上に、教会が主キリストの教会として生き続けていくためには内部における一致が大切であるということです。

 パウロがここで、フィリピ教会に一致を強く勧めていることには、それなりの理由があったと思われます。4章2節には、教会の二人の婦人の間で何らかの争いがあったらしいということが推測されます。けれども、パウロはそこで詳しい事情には立ち入らずに、何よりもまず主にあって一致するように、和解するようにと勧めています。2章の勧めがこのようなフィリピ教会内部の事情に関連しているのかもしれません。しかし、それだけではありません。というのは、パウロは4章でも2章でも、彼女たちの争いの具体的な内容には一切触れておらず、教会内に分裂があったから、それを解決するためにここで一致を勧めているというのでは必ずしもありません。それよりも重要なことは、一致することが教会の本質そのものであるからです。教会はいつでも、どのようなときでも、絶えず、一つの群れとして一致してあるべきなのです。

パウロは他の手紙においても、しばしば教会の一致の重要性を強調しています。その理由は、単に教会が一致協力して内外の課題に取り組むようにということを勧めているのではなく、教会の一致と教会が一つであることは、教会の本質そのものだからです。教会は一人の主イエス・キリストの体であり、一つの霊、聖霊によって導かれ、一人の父なる神を礼拝している群れだからです。共に神の命のみ言葉を聞き、共に主イエス・キリストの救いの恵みにあずかり、共に来るべき神の国を待ち望んでいる一つの群れだからです。ここに、揺るがない教会の一致があるのです。

単に、教会の内部の分裂を解決するためだけの一致ではなく、何かの事業をやり遂げるための一致とか、一つの理想に向かって足並みをそろえるような一致なのではありません。教会の一致は、それらの人間が造りだす一致とは全く質を異にしています。たとえば、国家や社会がある政策を実行するために国民・住民に求める一致があります。企業や団体が自分たちの利益を追求するために必要な一致があります。その場合には、多少個人の考えや権利を抑えて、全員が同じ方向を向くことが求められます。時として、強制的な力によって縛りつける一致もあるでしょうし、人間の努力である程度の一致を造り出すこともできるでしょう。

しかし、教会の一致は人間が造りだす一致ではありませんし、人間が造り出すことができる一致よりも、はるかに固く、深い一致です。この一致は、一つの目的が実現すればそれで解消されてしまう一致ではありませんし、あるいは、個人の存在や権利を無視する全体主義でもありません。むしろ、信仰による一致は個人を一人の自由な人間とします。全体の中に埋没して自己を失っている人を見いだし、また群れから離れて一人孤独の中をさまよっていた人を群れの一人として見いだします。信仰は一人の人間として、しかも、神のみ前に立たされている一人の人間として見いだされる経験だと言ってよいでしょう。そして、信仰者の群れは、共に、神によって見いだされた一人一人の人間として、お互いをもそのような一人の人間として見いだすことによって一致するのです。お互いの顔を見れば、一致するような共通点は全くないようであっても、またそれぞれに個性があり、違った賜物を持っていても、だれもがみなかつては失われていた人たちであり、今は神によって見いだされている人たちであることを知っている、そういう人たちの群れとして一致するのです。唯一の神、ただお一人の救い主イエス・キリストから与えられている一致、それゆえに堅固で永遠的な一致、これが教会の一致なのです。

パウロはそのような一致を強調するために、1節で「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、……の心があるなら」と言って、勧めの言葉を語ります。ここには、後の教会の中で形成されていく重要なキリスト教教理である三位一体論の芽がすでに見えています。主キリストの励ましと愛の慰め、聖霊なる神の交わり、そして父なる神の慈しみと憐れみが言及されています。コリントの信徒への手紙二Ⅰ3章13節の、礼拝の終わりの祝福と派遣の言葉と似ています。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にあるように」。この三位一体なる神こそが、教会のすべての一致の源であり、土台であり、目標なのです。

では、このようにして三位一体なる神から与えられた一致が、教会の中でどのようにして具体化されていくのか、「愛」と「へりくだり」という二つを取り上げてみたいと思います。

「愛しなさい」という勧めは聖書の至る所にあります。愛のある生活、他者、隣人を愛する生活は、キリスト者の最も基本的なものと言えます。ここでは特に「同じ愛」と言われています。一人一人にそれぞれの愛の形があり、愛し方も違っているかもしれません。けれども、愛の源は一つです。1節で「キリストによる励まし、愛の慰め」と言われていたように、主キリストの十字架の愛がキリスト者のすべての愛の源泉です。「同じ愛」とは、わたしたちのさまざまな愛を超えて、それらの愛を一つに結びつける愛であり、それは主キリストの十字架によって与えられた神の愛です。また、「同じ愛」とは神の愛によって愛されているキリスト者が互いに愛し合う相互の愛でもあります。さらに、「同じ愛」とは、愛することによってお互いの違いをも超えて信仰者の群れを一つに結び合わせる愛でもあります。

愛は一人だけでは完成しません。神の愛がわたしたち罪びとを尋ね求めるように、愛は愛する他者を求め、見いだします。他者を愛し、また自分も愛されていることを知ることによって、愛は成長します。一方がより多く愛して、他方はより小さな愛で満足しているということもありません。愛は互いの愛を成長させ、純化させ、聖なるものとさせ、主キリストによる神の愛を証しします。

しかし、愛もまた人間を傲慢にしたり、卑屈にすることがあり得ます。否むしろ、愛という甘美な言葉にこそ、最も危険なとげが隠されていることもあります。それゆえに、「同じ愛」を持つ人は、多く愛するほどに、自分が神から与えられている愛の大きさを知り、多く愛されていることを知るほどに、多く愛するようにされます。そしてまた、その人はどんなに小さな、ささやかな愛をも喜んで受け入れ、それのみか、憎しみをも受け入れるのです。

わたしたちはここで主イエスのみ言葉を思い起こすべきでしょう。主イエスは福音書の中で「あなたの敵を愛しなさい」とお命じになりました。このみ言葉は、単に敵からの憎しみや怒りを我慢しなさいと命じているのではなく、また敵に対するあなたの憎しみや怒りを抑えなさいと命じているのでもなく、敵に対するあなたの怒りや憎しみを愛に変えなさいという命令であり、またそれによって、敵からの怒りや憎しみも愛に変わるであろうという約束でもあるのです。あなたを憎んでいた敵が、あなたの愛によって、罪びとに対する神の愛を知るようにされ、神の愛こそがすべての人間の憎しみや怒りに勝利し、人間を分断しているすべての憎しみや怒りを愛に変える力があることを悟るようにされるのです。「同じ愛」とは、憎しみをも愛に変える愛のことです。

【3~4節】。「へりくだる」、つまり謙遜についての勧めも聖書には数多くあります。愛が積極的に隣人を尋ね求め、見いだしていく行為であるように、謙遜もまた聖書では、自分を低くして他者を立て、自分自身の都合を差し置いても隣人のために配慮するという、積極的な行為です。そうではない間違った謙遜もあります。日本では、謙遜は一つの美徳とたたえられることがあります。何ごとも出しゃばらずに、自分には能力あると思ってもそれをあえて出さずに、相手には腰を低くして控えめな態度で臨む。そうすることで、自分を相手よりも優位な立場に置く。それが、美徳であると言われます。

しかし、聖書が言うへりくだり、謙遜はそうではありません。へりくだりは、単に自分を一時的に小さく低く見せるのではなく、徹底して他者に仕え、自らを徹底して貧しくし、無にして、自分のすべてを他者に与える奉仕の生き方のことです。それは、次回6節以下のみ言葉で学ぶように、主イエスご自身の十字架の死に至る道によって示され、開かれた道です。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」と書かれています。へりくだりは、いかなる意味でも、いかなる場合でも、決して自分の利益を第一にするのではなく、他者のためになることをひたすら求めます。自分を飾ったり大きく見せるためではなく、また自分の喜びとか満足とかを求めるのではなく、ひたすらに他者の喜びのために、他者を高めるために、他者の幸いを願って、自らをささげ尽くすのです。

最後にもう一度次のことを確認しておきましょう。「同じ愛を抱き」「へりくだる」というキリスト者の生き方は、主イエス・キリストによってわたしたちのために開かれ、備えられている道です。わたしたちは貧しく弱い罪びとですが、今や主イエス・キリストによって罪ゆるされ、主イエス・キリストによって開かれたこの道へと招かれているのです。

(祈り)

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