1月12日説教 「共に喜び合う礼拝者の群れ」

2020年1月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編126編1~6節

    フィリピの信徒への手紙2章12~18節

説教題:「共に喜び合う礼拝者の群れ」

 フィリピの信徒への手紙には二つの別名が付けられています。一つは「獄中書簡」、もう一つは「喜びの書簡」です。パウロはこの手紙を獄中から書いています。使徒言行録の記録によれば、パウロはローマ、エフェソ、カイサリアの町々で何度も投獄されましたから、そのいずれかの町と思われます。主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたために、ユダヤ人とローマ帝国から迫害を受け、捕らえられましたが、しかし、神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはないという事実を証明するためにも、パウロは獄中から諸教会に何通もの手紙を書きました。他に獄中書簡と言われているのはエフェソの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙です。

もう一つの名前「喜びの書簡」は、この手紙には「喜ぶ、喜び」という言葉が十数回も用いられ、全体としても喜びに満ち溢れた手紙だからです。獄中書簡でありながらも、しかし喜びに満ち溢れているという、不思議ともいえるこの二つのつながりが、この手紙の大きな特徴です。そして、今日の個所でも、その相反する二つが実際に固く結ばれていることをわたしたちは読むことができます。【17~18節】。

獄中のパウロはここで、やがて裁判の判決が下り、自分が死刑になることを予感しているように思われます。「わたしの血が注がれる」とは彼の殉教の死を意味していると推測できます。パウロはフィリピ教会の礼拝の祭壇に自分の血が注がれ、彼らと一緒に礼拝することを喜んでいます。この個所を正しく理解するためには、旧約聖書時代の礼拝の習慣と、その礼拝が主イエス・キリストによって完全に成就されたということを知る必要があります。

旧約聖書時代のイスラエルでは、エルサレムの神殿で毎日動物の血を犠牲としてささげる礼拝が行われていました。それは、動物の血が人間の罪をあがなうと考えられていたからです。人間はみな神に対して罪を犯しており、神から死の判決を受けなればなりません。けれども、憐れみ深い神は人間の命の代わりに動物の血を犠牲としてささげることで、人間の罪をゆるすと言われました。ただし、動物の血は人間の罪をあがなうには不十分で、一時的な効力しかありませんから、エルサレムの神殿では祭司が毎日繰り返して牛や羊の血を犠牲としてささげなければなりませんでした。これが旧約聖書時代のイスラエルの礼拝でした。

ところが、神はご自身のみ子、主イエス・キリストの聖なる、汚れなく、尊い十字架の血によって、全人類の罪を、完全に、永遠にあがなってくださり、すべての人の罪をおゆるしくださいました。そのことが、6節以下で語られていました。まことの神であられ、まことの人間となられ、十字架の死に至るまで父なる神に服従を貫かれた主イエス・キリストによって、神の義の要求が完全に満たされ、また同時に人間の罪をあがなうための完全な犠牲がささげられたのです。したがって、主イエス・キリストを信じるフィリピ教会の礼拝では、もはや動物の犠牲がささげられる必要はありません。罪ゆるされた教会員が救われた感謝のささげものとして自らの体全体を神にささげて礼拝するのです。これが、新約聖書時代に属するわたしたちの礼拝です。ローマの信徒への手紙12章1節にこのように書かれているとおりです。【1節】(291ページ)。

パウロは今日の個所で、主イエスによって完成されたこのような礼拝を背景にして語っています。パウロはここで礼拝を司る祭司の務めを果たしながら、また同時に祭司がささげるささげものという二役を演じているように思われます。

彼は礼拝を司る祭司として、「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に」、わたし自身の血をも一緒にささげると言っています。もちろん、フィリピの教会員がささげるいけにえであれ、パウロがささげる血であれ、それが人間の罪をあがなうのでは全くなく、それらは主イエス・キリストによって完全にあがなわれ、罪をゆるされていることに対する感謝のささげものであるのですが、パウロはここでお互いに遠く離れており、一方は獄につながれている彼とフィリピ教会とが今一つの神礼拝の群れとなって、共に感謝のささげものを携えて神を礼拝しているのです。だから、共に喜んでいるのです。主イエス・キリストの十字架の血によって完成された礼拝に共に参加できる喜びを味わっているのです。これこそが、わたしたちキリスト者に与えられている最高の喜びなのです。詩編126編の詩人は、バビロンの捕囚の地から帰還した民が再建された神殿で礼拝をささげる喜びを歌っています。わたしたちの礼拝にはこのような喜びが満ち溢れているのです。

 パウロが感謝のささげものとして携えているのが殉教の血であるのに対して、フィリピ教会が携えている感謝のいけにえとは何でしょうか。「信仰に基づいてあなたがたがいけにえをささげ」とは、12節から語ってきたフィリピ教会の従順な信仰を指していると考えられます。【12節】。

 パウロはフィリピ教会に変わらない信仰の従順を勧めています。従順とは、パウロに対する従順ではもちろんなく、教会の頭であられる主イエス・キリストに対する従順です。パウロがフィリピの町で主キリストの福音を宣教したとき、彼らは従順な信仰をもってパウロと共に教会建設のために仕えました。その時と同じように、パウロがその地を去って今は獄の中にいるとしても、同じように従順な信仰をもって主キリストに仕え、教会建設のために仕えなさいと勧めています。そして、あなたがたのその従順な信仰を礼拝の際にわたしが祭司となって神にさげましょうとパウロは言っているのです。

 フィリピ教会のそのような従順な信仰は、実は主イエスご自身の従順によって与えられものであるということを、わたしたちは前回学びました。6節以下に書いてあるとおりです。主イエス・キリストが神のみ子であられたにもかかわらず、人の子となられ、しかも罪の人間たちのために僕(しもべ)のようにお仕えになられ、十字架の死に至るまで父なる神に従順であられました。それによって、罪と死とに勝利されて、わたしたちの救いを成し遂げてくださったのです。主イエスの十字架を信じる信仰によって罪ゆるされているキリスト者は、自己中心的で自分だけを喜ばせようとする生き方から解放されて、神に喜んで仕え、従順に神のみ言葉に聞き従っていく新しい人に造り変えられるのです。そして、新しくされたわたし自身とわたしの信仰の従順を、礼拝の際に神におささげすることができるのです。主イエスが従順の道をわたしたちのために開かれ、またその道へとわたしたちを招いておられるのです。

 パウロはさらに従順であるとはどういうことかを語ります。それは、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めること」です。「自分の救いの達成のために努めなさい」と言われると、わたしたち少し違和感を覚えます。と言うのは、救いはただ主イエス・キリストから一方的に与えられるものですから、わたしたち人間の側からの努力は必要ないと考えられるからです。それはそのとおりです。そうであるのに、パウロがここであえて「自分の救いの達成のために務めなさい」と命じているのはなぜかを考えてみなければなりません。その際重要なポイントは、「恐れおののきつつ」という言葉と一緒に考えるということです。神に対する恐れの中で、救いの達成に努め、従順を貫きとおすということが勧められているのです。そこから考えると、「救いの達成に努める」とは、自分がいよいよ救いを必要としている罪びとであることを自覚し、神のみ前に罪を悔い改め、ひたすらに主イエス・キリストの救いを願い求め、主イエスの救いの恵みなしには自分は生きることができないということを知るということにほかならないということが分かります。救いは徹底して神のみわざであり、主イエス・キリストからのみくるということを固く信じて、疑わず、つぶやかず、信仰の道を前進していくことです。13節に、【13節】と書かれてあるとおりです。神は必ずや信じる者たちを終わりの日に神の国へと招き入れてくださり、救いを完成させてくださり、永遠の命を与えてくださるからです。

 14節からは、主なる神への従順を貫きとおし、自分の救いの達成に努めている信仰者の姿が、清く、輝かしい姿として描かれています。【14~16節】。これは何と美しく、力強く、輝きに満ちたみ言葉でしょうか。これがわたしたちキリスト者に約束されている姿なのです。わたしのみすぼらしい、破れだらけで、つまずきの多い歩みがこのような輝かしいものに変えられていくのです。

信仰者には多くの誘惑や試練があります。時に、厳しい信仰の戦いを迫られます。けれども、それらの試練の中で、信仰が鍛えられ、試練から希望と喜びへと変えられます。なぜならば、信仰の道を導かれるのが主なる神であり、信仰の導き手が主イエス・キリストであるからです。

 信仰者が住んでいる現実の世界、この世は、いつの時代も、「よこしまで曲がった時代」です。神なき世界、神に背いている世界です。今なお、罪と悪とがはびこっている世界です。けれども、キリスト者は知っています。主イエス・キリストの十字架によって、罪と悪の牙はすでに折られており、死のとげはすでに抜き取られているということを。罪と死と滅びに勝利された主イエス・キリストがわたしたちのための勝利者として天に座しておられることを。それゆえに、わたしたちはどのような邪悪な時代であろうとも、その時代から逃れるのではなく、しかし決してその時代の一人となるのではなく、その時代の中にあって、「地の塩、世の光」としての使命を果たしつつ、主キリストを指し示す証し人として、それゆえに暗い世界に輝く星として、歩んでいくことができるのです。

 16節に、「命の言葉をしっかり保つでしょう」とあります。わたしたちの本当の命は神のみ言葉の中にあります。信仰者にそのような生き方を可能にするのは神の命のみ言葉です。神のみ言葉はわたしたちが生きるために必要なのはパンだけではなく、朽ちることのない神の命のみ言葉であり、神の導き、神の愛であることを教えます。神のみ言葉は暗闇が支配する世界の中でわたしが歩むべき道を照らす光であり、道しるべです。神のみ言葉は誘惑や迷いが多いわたしの歩みを支え、導く真理であり、力です。神のみ言葉はわたしの傲慢や欲望を打ち砕く鉄槌であり、あるいはわたしが絶望し、嘆き悲しむときの希望の光です。この神のみ言葉に固くしがみつくことによって、わたしたちはどのような時にも、神に対する恐れを持ちつつ、従順を貫きとおし、また共に信仰の従順をささげながら、共に喜びをもって主を礼拝する群れとして成長していくのです。

(祈り)

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