2月23日 説教「主キリストを信じる信仰による義を与えられて」

2020年2月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:エレミヤ書1章4~10節

    フィリピの信徒への手紙3章1~11節

説教題:「主キリストを信じる信仰による義を与えられて」

 「喜びの書簡」と言われているフィリピの信徒への手紙3章1節で、わたしたちは何度目かの「喜びなさい」という勧めを聞きます。「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい」。すでに、2章18節で、「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と勧められていました。このあとでは、4章4節で、「主において常に喜びなさい」と勧められています。勧められていると言いましたが、文法的には命令形です。喜ぶことが命じられています。

使徒パウロがここで「喜べ」と命じているのは、その人の性格が楽観的で、いつも人生を陽気に楽しんでいれるからとか、その人の状況が喜ばしいからとか、その人が他の人に比べて喜ばしい環境にあるからとか、そのような理由によるのではありません。たとえ今、あなたが悲しみや苦しみのただ中にあろうとも、恐れや不安があなたを覆っていようとも、それでもなおもあなたに命じる、「あなたは喜べ、喜んでよい、喜ぶことがゆるされている」という、喜びへの招きをパウロはここで語っているのです。

 それはどのような喜びでしょうか。「主において」がキーワードです。主イエス・キリストにある喜びです。主イエス・キリストにつながれているとき、主キルストとの交わりの中で、主キリストから与えられる喜びです。わたしたちはその喜びの内容をいくつもの表現で言い表すことができるでしょう。主キリストによって罪から救われている喜び。主キリストによって愛され、見いだされている喜び。主キリストによって神の子たちとされ、神の国の民の一人とされている喜び。主キリストによって生きる目標と希望とを与えられている喜び。主キリストによって、朽ち果てる命ではなく、枯れることもしぼむこともない永遠の命を約束されている喜び。それゆえに、貧しく弱く迷いやすいわたしが、神と隣人とに喜んで仕えていくことがゆるされている喜び。

それは何という、豊かな、大きな、深く、そして高価で尊く、永遠の喜びであることでしょうか。この世でわたしたちが経験するどんな喜びよりもはるかに高い天からくる喜び、この世の憂いや悲しみ、不安や恐れのすべてを追い払い、それらに勝利する喜び、唯一無比なる喜び、そのような喜びへとパウロはわたしたちを招いているのです。彼はこのあとで、彼自身が主キリストによって与えられたこの大きな喜びのゆえに、他のすべてのものを喜んで投げ捨てたということを語るのを、わたしたちは聞くことになります。そこで再びこの喜びについて考えることにしましょう。

2節から急に語調が変化します。【2節】。ここでまず問題となるのは、1節の後半の「同じことをもう一度書きますが……」はどの内容のことを言っているのかということです。「喜びなさい」ということを何度言っても、それは煩わしいことだとは言えないので、その内容は2節以下を指していると考えられます。「同じこと」が2節以下で語られているフィリピ教会の間違った信仰理解に対する警告を指しているとすれば、同じような内容がこの手紙には見当たりませんので、パウロはすぐ前にもフィリピ教会にあてて別の手紙を何度か書いており、その中で間違った信仰理解について注意するようにとすでに警告していたということになります。

パウロの宣教によって建てられ、またパウロと最も良い関係にあって、獄中のパウロのために祈り、支援物資を贈っていたフィリピ教会でしたが、教会の内外からの攻撃にさらされており、試練の中で厳しい信仰の戦いをしていたという現実を、わたしたちはここで知らされるのです。

パウロがここで「あの犬ども。よこしまな働き手たち」という、多少荒々しい言葉を用いて批判しているフィリピ教会の指導者たちはどのような間違った信仰理解をしていたのでしょうか。彼らは「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」と言われています。つまり、彼らは割礼の儀式を重んじ、割礼を誇っている人たちでした。割礼はイスラエルの民ユダヤ人が神に選ばれた民であることをしるしづける儀式でした。創世記17章で神はアブラハムにお命じになりました。「イスラエルの家に生まれた男子はみな生後8日目に、男子の性器の皮の一部を切り取りなさい。これがわたしとイスラエルの民との間の永遠の契約のしるしとなる」と。

主イエスご自身も生まれて8日目に割礼を受けられたということを、わたしたちはルカによる福音書2章21節で聞きました。主イエスはイスラエルの律法の下にお生まれになり、契約の民の一人として生きられ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されました。それによって、律法の支配下にあったイスラエルの民を律法の奴隷から自由にしてくださいました。そして、イスラエルの民と異邦人である全世界のすべての人たちが、律法によらず、ただ主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって救われる道を切り開いてくださったのです。

したがって、主イエス・キリストの福音を信じる信仰者にとっては、もはや律法は救いのためには役立たず、それゆえにまた、割礼も救いのためには何の役にも立ちません。すでに割礼を受けていたユダヤ人にとっては、それは単なる切り傷に過ぎないとパウロが言うのはそのためです。ユダヤ人はもはや割礼によって救われるのではなく、だれも割礼を誇ることはできません。そうであるのに、フィリピ教会の一部の指導者たちは自分たちの割礼を誇り、それだけでなく、ユダヤ人以外の異邦人からキリスト者になった人たちにも割礼を強要し、主キリストの福音を信じるだけでは足りず、割礼を受けなければ完全な救いを得られないと教え、教会に混乱を招いていたのです。彼らをユダヤ主義的・律法主義的キリスト者と名づけることができるでしょう。

しかし、パウロはそのようなユダヤ主義的・律法主義的キリスト者には断固として反対しています。それは、結局は主イエス・キリストによる救いの恵みを半減させる、否それどころか、主キリストの福音を否定し、それと対立するものだからです。それは、人間を誇り、肉を誇ることだからです。人間の肉はみな罪にけがれており、やがて朽ち果てるものに過ぎません。それは決して人間を救うことはできません。そのような教えは主キリストの教会を分裂させ、ついには破壊するほかありません。

そこで、パウロは3節でこのようにいます。【3節】。旧約聖書時代の古い肉による割礼はもはや必要なくなりました。なぜならば、主イエス・キリストによって新しい霊による割礼が与えられたからです。主キリストを信じる信仰によって、ユダヤ人だけでなく、すべての人が神の民とされる新しい契約が結ばれたからです。キリスト者は主キリストによって結ばれた新しい契約に基づいて、エルサレムの神殿でささげられていた肉による礼拝ではなく、主キリストの教会でささげられる霊による礼拝に連なっています。それゆえに、キリスト者はもはや肉に頼ることも肉を誇ることも必要ありません。キリスト者はただ主イエス・キリストだけを頼みとし、主イエス・キリストだけを誇ります。

次に、4節からパウロは彼自身のことを語りだします。【4~6節】。パウロは生まれながらのユダヤ人でした。しかも、高度の宗教教育を受け、旧約聖書の律法を専門に学ぶファリサイ派に属し、律法の一つ一つを忠実に行うように心がけ、それゆえに、信仰によって救われると教えて律法を軽んじているように思われたキリスト者と教会とを激しく迫害していました。この点において、彼は肉にあるユダヤ人として誇るべき多くのものを持っていました。

けれども、パウロは自らの肉を誇るために自分自身について語ったのでは全くありませんでした。そうではなく、反対に、それらのすべてを投げ捨てるために、それらのすべてよりもはるかに勝った大きな恵み、絶大なる価値を見いだしたことを語るのです。【7~11節】。

パウロはここで、彼が主イエス・キリストと出会ったことによって与えられた大きな変化、、大いなる価値の転換、大逆転について、非常に印象的に、彼の全存在をかけて、語っています。ある人はこう言います。「パウロにとって、プラスであったものがゼロになったというのではなく、プラス自体がマイナスに変わったのだ」と。パウロ自身の言葉では、「有利であったもの」が「損失」となったのです。かつては誇りであったものが、今では塵あくたになったのです。主イエス・キリストと出会い、主キリストの福音を信じた信仰者は、それまでの人生観が少し変わったとか、今まで気づかなかったことが気づくようになったとか、少し明るい性格になり、気分が楽になったというだけではなく、それまでの自分とは全く違った新しい人として再創造されるのであり、それまで大事だと思っていたものすべてがもはや悪臭を放つ塵あくたになり、それまでに誇っていたもの、楽しみにしていたもののすべてが、むしろわたしを罪に誘うものであり、忌み嫌うべきものであり、わたしをまことの命へではなく、むしろ滅びへと導くものであったのだということを知らされるのです。8節のみ言葉によれば、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」が、このような大転換をキリスト者に与えるのです。

ここで、「わたしの主キリスト・イエス」という言葉について掘り下げてみましょう。ここには、「イエスはキリスト・救い主であり、わたしの主である」という短い信仰告白があります。この信仰告白はわたしたちの信仰の基本であり、中心です。わたしの罪のために十字架にかかり、死んで、三日目に復活された主イエスこそが、この方のみが、わたしの唯一の主であり、救い主である。この主以外にわたしの主はいない。わたしはわたしの主ではない。ほかのだれかがわたしの主ではない。ほかの何かがわたしの主ではない。わたしが生きる時にも、死ぬ時にも、主イエス・キリストがわたしの唯一の主として、わたしを導き、治め、わたしに必要な一切のものを備えてくださる。ここにこそ、わたしの最高の喜びがあるという信仰告白があるのです。

この喜びこそが、1節でパウロが語っていた「主において喜びなさい」と命じていた喜びです。自分の肉を誇ったり、自分が持っているものを喜んだり、あるいはこの世にあるものに喜びや楽しみを求めたりするのではなく、否むしろ、それらのすべてを投げ捨て、憎み、忌み嫌い、ただ「主にある喜び」だけをわが喜びとする。それほどに、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」をパウロはここで語っているのです。

9節では、「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」と言われています。これが、宗教改革者たちが強調した「信仰義認」の教えです。パウロがローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙で詳しく語るキリスト教信仰の中心です。「律法から生じる自分の義ではなく」という個所は、律法によって自分の義を得ることができるかのように誤解される恐れがありますが、より正確には、「わたしは律法による義を持っていない」と、はっきりと否定されている文章です。だれも、律法を行うことによっては神のみ心を完全に満足させることはできません。なぜなら、人間はみな生まれながらに罪に傾いており、神から離れており、神のみ心に背いているからです。

けれども、「信仰に基づいて神から与えられる義」は、文字どおり、それは神から与えられる義であり、すべて信じる信仰者に無償で神から提供される賜物としての義であり、主キリストを信じる信仰者は一方的な神の恵みによって、神との正しい関係へと導き入れられ、神との霊による豊かな交わりへと招き入れられ、救いと平安を与えられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、何一つあなたのみ心に適うことができない弱い、罪多いわたしをも、主キリストのゆえに義と認めてくださり、救いと平安をお与えくださいます幸いを、心から感謝いたします。わたしが生涯、あなたから与えられている救いの恵みを喜び、あなたのご栄光をほめたたえる者とされますように。

〇主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられ、まことの救いと命とが、すべての悲しんでいる人たちや暗闇をさまよっている人たち、餓え乾いている人たち、孤独な人たち一人一人に与えられますように。

〇全世界のすべての民族、地域に主イエス・キリストにある和解と平和をお与えください。

 主のみ名によって祈ります。アーメン。

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