2月9日説教「罪人を探し求める神」

2020年2月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記3章8~19節

    ローマの信徒への手紙10章5~13節

説教題:「罪びとを探し求める神」

 神によって最初に創造された人間、アダムとエバは、神に禁じられていた善悪の知識の木からその実を取って食べ、神の戒めを破って罪を犯しました。これが、人間の最初の罪、原罪であり、アダム以後のすべての人間はこのアダムの罪に連なっており、人はみな生まれながらにして罪に支配されている罪びとである、これが、聖書が語る人間の罪、キリスト教教理で原罪(オリジナル・シン)と言われる教えです。この原罪について、使徒パウロはローマの信徒への手紙5章12節でこのように言っています。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」。そして、テモテへの手紙一1章15節では、「わたしは、その罪びとの中で最たる者です」と告白しています。この罪の認識と告白から、キリスト教信仰は始まると言ってよいでしょう。わたしたちは創世記3章のみ言葉から、人間の罪とは何かを正しく理解し、またその罪に対して神はどうなさったかを深く聞いて、救いの恵みにあずかる者になりたいと願います。

 蛇の誘惑によって、神に禁じられていた木から取って食べたアダムとエバは、蛇が言ったように、彼らの目が開け、神のように善悪を知るものとなったでしょうか。いや、そうはなりませんでした。彼らは神にはなりませんでした。神になるどころか、後で分かるように、神から遠ざかり、神を失った罪びととなるほかありませんでした。彼らの目が開け、彼らが見たのは自分たちの裸の姿であり、彼らが知ったことは自分たちが裸の恥をさらしていることだったということが7節に書かれています。神の戒めに背き、罪を犯した人間はこのようにならざるを得ません。

 ここで少し寄り道ですが、善悪を知る木とは、具体的に何であったのかについて、キリスト教の伝統ではリンゴの木とされていますが、聖書にはその名は書かれていません。ではなぜ中東地域ではあまりなじみのないリンゴと言われるようになったのかは、おそらくラテン語で悪という言葉はmalusであり、リンゴはmalumで、両者の発音が近いということから、malus悪からmalumリンゴが連想されたのであろうと推測されています。

 本題に戻って、自分たちが裸であることを知ったアダムとエバはいちじくの葉で裸を隠そうとします。人間が自分の罪の姿を何かで覆い隠そうとする、それは人間の本能と言ってよいかもしれません。でも、彼らはそれにとどまりません。裸の一部を隠そうとしただけでなく、自分の姿全体を、自分の存在そのものを神の前から隠そうとしたことが8節に書かれています。

 【8節】。神の戒めを破り、罪を犯したアダムとエバは、神が近づいてこられることを知った時、神の顔を避けて木の間に身を隠しました。神の存在を知った時、罪の人間は神から遠ざかろうとします。ここには、罪の本質が現れているように思われます。つまり、罪は神のみ前であらわになり、意識され、表面化するということです。蛇の誘惑によって禁じられていた木の実を食べた時点では、まだ罪は表に現れてはおらず、彼ら自身も自分の罪に気づいていなかったようです。しかし、神が近づいてこられ、神の存在を知った時に、彼らははっきりと自らの罪に気づかされます。自分たちが神の戒めに背いた罪びとであるということ、それゆえに神から身を隠し、神から遠ざかって生きなければならなくなったこと、もはや神と共に生きることができなくなったこと、そのことに気づかされたのです。罪はそのようにして次の段階に進みます。人間が自ら意識して、神から離れ、神を嫌い、神を拒絶するようになっていくのです。

 アダムとエバはエデンの園で造り主であられる神と共に生き、神から託された園を管理し、耕す務めを果たしながら、共にふさわしい助け手として、共に神に仕える連帯的人間として生きる時に、彼らの生活はエデンの園の名にふさわしく、つまり、喜びの園で喜びに満たされた生活となるはずでした。しかし今や、彼らはもはや神と共に生きる者たちではなくなりました。彼らから喜びは失われ、恥と恐れと不安が彼らを支配するようになりました。そしてまた、園を管理する務めを託されていた彼らは、園の木によって自分たちの身を隠してもらわなければならないという、みじめな立場に転落していることに気づかされます。もっとも、彼ら自身はそのことに気づいてはいないのですが。

 アダムとエバが神の接近を知って、神の存在を身近に感じた時に、自分たちの罪を自覚し、神から身を隠そうとしたということは、わたしたちが自分の罪を認識する際にも同じことが当てはまります。神がわたしの方に近づいてこられ、神のみ顔の前に立たされる時に、つまりわたしが神と出会う時に、本当の意味で自分の罪を知らされるのです。別の側面から言えば、神の存在を知らない人は自らの罪を知ることもありません。罪とは何かをどれほど深く学び研究しても、神との真実の出会いがなければ、本当の意味で罪を知ることも自覚することもできません。わたしが神と真実の出会いをする時に、わたしの罪がどのようなものであるのかを知らされます。しかし、もちろんその時には、わたしに罪を自覚させる神は、同時にわたしの罪をおゆるしになる神であることをも、わたしは知らされるのですが。

 続いて9、10節にはこのように書かれています。【9~10節】。9節の原典ヘブライ語を直訳するとこうなります。「そして、主なる神はアダムに呼びかけた。そして彼は(つまり神は)言った、あなたはどこにいるのか」。ここには「呼びかける」、あるいは「名前を呼ぶ」という言葉と「言う」という言葉とが重ねて用いられています。ここでは、神から身を隠し、神から逃れようとする罪びとアダムを、その罪の暗黒の中から呼び出そうとされる、神の呼びかけの強いみ声が響いているのです。「あなたはどこにいるのか」、これが、罪びとアダムに対して神が語りかけられた最初の言葉であるということを、わたしたちは印象深く心に留めたいと思います。なぜならば、「この木から取って食べたら必ず死ぬ」(2章17節)」と言われた神の戒めを破ったアダムに語られるべき言葉は、「お前は死ぬべきだ、お前に死を宣告する」となるはずだったからです。しかし、神が語られたみ言葉はそうではありませんでした。「アダムよ、お前はどこにいるのか」と呼びかけ、罪の中に身を隠そうとするアダムをご自身のみ前に呼び寄せる、招きのみ言葉だったのです。わたしたちはここに、罪びとに対する神の深いみ心を見るのです。

 その第一は、神は、戒めを破って罪を犯した人間アダムをそのまま見て見ぬふりをなさらないということです。神はいつも人間をみ心にとめておられます。神は人間無しで、ただ神だけであろうとはなさいません。神は人間が何をなそうが、どこへ行こうが、気に留めないような方ではありません。人間に無関心ではおられません。人間のすべての行動、人間の心の中のすべてをも見ておられます。人間が罪を犯すなら、その罪に見過ごしにはなさいません。罪の中にいる人間をも決して見過ごしになさいません。

 第二に、神は人間に自らの罪の姿を自覚させます。「アダムよ、お前はどこにいるのか」という神の呼びかけは、人間が今いる罪の存在を気づかせます。神の戒めに背いて罪を犯したために、神のみ顔をまともに見ることができず、神の前から身を隠さなければならなくなった自分たちの現実の姿を自覚させるのです。かつては、エデンの園で神と共に生きることを喜びとし、共に神に仕えることによって喜びを分かち合っていた連帯的人間であった自分たちが、罪に落ちた今は、神から遠ざかり、神を恐れなければならなくなった、その大きな変化、その大きな転落を自覚させるのです。罪とは神の恵みから落ちることです。神の恵みに気づかず、その恵みを投げ捨て、神の恵みに感謝をしない、神の恵みに応えない、それが罪なのです。

 第三に、「アダムよ、お前はどこにいるのか」という神の呼びかけは、罪を犯したアダムとエバにとっては、神の裁きのみ言葉となります。彼らは神の裁きを恐れなければなりません。だれも神の裁きから逃れうる人はいません。神のみ前で罪を問われない人間は一人もいません。神は人間の罪を裁かれる義なる神であられます。神は人間の罪を裁かれる義なる神であることによって、なおも罪びとである人間と関係を持ち続けられるのです。

 そして、第四に、「アダムよ、お前はどこにいるのか」と言われる神の呼びかけの最も重要な意味をわたしたちは聞き取らなければなりません。「これを食べたら必ずお前は死ぬ」という神の戒めを破った人間アダムに語られるべき言葉は、「死」以外ではないということをわたしたちは前にも確認しましたが、神はその裁きを直ちに実行なさいません。神はなお少しの猶予の時間を人間にお与えになります。「アダムよ、お前はどこにいるのか」という神の呼びかけは、人間に罪を自覚させるみ言葉であり、また神の裁きのみ言葉であると同時に、罪の人間が悔い改めて、神に立ち帰る機会を備えるみ言葉でもあるのです。悔い改めへの神の招きのみ言葉なのです。

 神は罪びとをなおも呼び求めておられます。探し求めておられます。人間が罪の中で滅びていくのを神は望んでおられません。悔い改めと救いへと招いておられるのです。そのような神の救いへの招きのみ言葉、救いへの招きの場面を、わたしたちは旧約聖書と新約聖書のすべてのページに限りなく見いだすことができるでしょう。聖書全編は、罪びとを探し求め、救いへとお招きになる神の招きのみ言葉にあふれています。

 わたしたちはその場面をいくつも挙げることができるでしょう。創世記22章1節で、神はアブラハムの名を呼ばれました。「アブラハムよ」。彼は「はい、ここにおります」と答え、独り子イサクを燔祭の犠牲として神にささげるためにモリヤの地に旅立ちました。彼は神の呼びかけに従順に応答し、服従し、彼の独り子をすら惜しまず神にささげたゆえに、神に祝福された信仰者となりました。出エジプト記3章4節で、神は「モーセよ、モーセよ」と呼ばれました。モーセは「はい、ここにいます」と答え、イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出される神の偉大はみわざのために仕えました。サムエル記上3章10節で、神は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれました。サムエルは「僕(しもべ)は聞きます。主よ、お話しください」と答えました。そして、イザヤ書6章では、神は「わたしは誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろう」と問われました。その時イザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と応答しました。

 新約聖書では罪びとを探し求められる神の大きな愛はいよいよ増し加わります。主イエスは、100匹の羊のうちの迷い出た1匹を見つけるまで熱心に探し歩く羊飼いのたとえをお話になりました。家出をし、放蕩に身を持ち崩した息子を長く帰りを待ち望む父親と、その息子が帰ってきたときの父親の大きな喜びお語りになりました。罪びとが一人でも悔い改めて立ち返るなら、天に大きな喜びがあるであろうと言われました。

 罪の中に失われていた人間を見いだすために、神は今もなおみ子主イエス・キリストによって、わたしたち一人一人を呼び出だしてくださいます。わたしたちを罪から救い、新しい神のための働きとして召すために、わたしたちに呼びかけてくださいます。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、わたしたちを呼び求めるあなたのみ声をさやかに聞き取ることができる信仰の耳をわたしたちにお与えください。

〇主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられ、まことの救いと命とが、すべての悲しんでいる人たちや暗闇をさまよっている人たち、餓え乾いている人たち、孤独な人たち一人一人に与えられますように。

〇全世界のすべての民族、地域に主イエス・キリストにある和解と平和をお与えください。

 主のみ名によって祈ります。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA