2月16日説教「神の家におられた少年イエス」

2020年2月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:サムエル記上3章1~9節

    ルカによる福音書2章39~52節

説教題:「神の家におられた少年イエス」

 主イエスが公の宣教活動を始められたのは、ルカによる福音書3章23節によれば、およそ30歳の時でした。主イエスが誕生されてから30歳になられるまでのことについては、聖書はほんのわずかしか伝えていません。マタイ福音書2章には、誕生されてすぐにエジプトに逃れ、その後ヘロデ大王が死んだのちにエジプトから戻られ、ガリラヤ地方のナザレという町に住まれたと書かれています。わたしたちが続けて読んでいるルカ福音書では、2章21節に生まれて8日目の割礼と命名の儀式、それから40日過ぎてからのエルサレム神殿での清めの儀式と初子奉献の儀式について書かれ、きょうの41節以下では、12歳の少年イエスが過越祭にエルサレムに上られた時のことがやや詳しく描かれています。実は、これが30歳になられるまでの主イエスの幼年時代、青年時代について語られている唯一の記録であり、もちろんルカ福音書にしか記されていません。聖書は主イエスが子どものころをどんなふうに過ごされたのか、どのような青年時代を送られたのかについては、ほとんど興味を示していないように思われます。

 では、なぜそうなのか、その理由は何か。また、ここに12歳の少年イエスについてだけ書かれているいるのはなぜか、これにはどういう意図があり、聖書はここでわたしたちに何を語ろうとしているのか。このようは問いかけを持ちながら、読んでいきたいと思います。

 まず、一つの疑問ですが、聖書はなぜ30歳になるまでの主イエスについてほとんど語っていないのかということです。その理由はおおよそ見当がつくでしょう。主イエスのご生涯にとって重要なことは神の国の福音を宣べ伝えることであり、神の国が近づいたしるしとして病める人を癒し、弟子たちに教え、神の国の説教をすること、そして最後には、わたしたちの罪を贖い、わたしたちを罪の奴隷から救い出すために十字架で死なれ、三日目によみがえられることであって、福音書はそのことを中心に語っているのですから、その公のご生涯が始まるまでのことについては省略してもよいと考えられます。

 この点において、福音書は主イエスのご生涯を一人の人物の伝記という形態で描かれてはいますが、他の偉大な人物の伝記とは根本的に違っていると言えます。一般の伝記であれば、その人が子どものころから驚くほどの能力を発揮していたとか、苦学して、やがて立派な人物に成長したとか、その人の成長記録が語られますが、主イエスの場合はそうではありません。主イエスは少しずつ成長して神のみ子になられたのではありません。一生懸命に努力してメシア・キリストになられたのでもありません。わたしたちがすでにルカ福音書から学んできたように、主イエスは聖霊によって身ごもられた聖なる神のみ子として誕生され、その誕生の時から、神がこの世にお遣わしになられたメシア・キリスト・全人類の救い主であられました。

 では、主イエスにとって、30歳になって公のご生涯を始められるまでの期間は何の意味もなく、誕生されて一気に30歳になられてもよかったということになるのでしょうか。いや、そうではありません。主イエスは、ある時に突然に天から舞い降りてきた神ではありません。主イエスはわたしたち人間と同じように、母の胎から生まれ、乳児、幼児の時があり、両親の愛に包まれて成長し、少年、青年時代があり、両親に仕え、家のために働くという、すべての人間と同じ道を歩まれました。主イエスはまことの人間であられました。そのようにして、神のみ子はわたしたち人間のただ中においでくださり、わたしたち人間と同じ歩みをされ、わたしたち人間の歩みのすべてに伴ってくださり、わたしたち罪の中にある人間と連帯してくださったのです。

 そのことから、41節以下のきょうのみ言葉の意味を考えていかなければなりません。すなわち、12歳の主イエスはまことの神であられ、また同時に、まことの人間であられるということです。主イエスはまことの神であられ、わたしたちすべての人間のメシア・キリスト・救い主であられると同時に、まことの人間として、わたしたち人間の罪の世界に入って来られ、罪びとの一人となられたという、その両方のお姿を、わたしたちはここで読み取らなければならないということです。そのことをまず確認しておきましょう。12歳の主イエスの道はすでに、ご受難と十字架の死へと向かっているのです。

 そして、ここでもう一つ重要なことは、12歳の主イエスの記録を取り囲むようにして、40節と52節のみ言葉が語られているということです。【40節】。【52節】。この二つの節のみ言葉が、12歳になられるまでの主イエスの幼少年期の歩みと、12歳以後の主イエスの青年期の歩みのすべてを語っていると言ってよいでしょう。

 この二つの節に共通している一つのことは、体の成長と知恵の強調です。体の成長は、主イエスが人の子として、わたしたち人間と全く同じ成長過程をたどったことを言い表しています。知恵とは、聖書においては、神のみ心を尋ね求めることを言います。学問的能力とか知能指数のことではありません。旧約聖書に、「神を恐れることは知恵の初めである」(箴言1章7節他参照)と繰り返して教えられているように、天におられる主なる神の存在を知り、その神のみ前では朽ち果て、滅び去るほかない小さな、弱い存在である自らを悟り、神のみ心を尋ね求め、それに従って生きること、それが人間の本当の知恵です。主イエスのご生涯は、誕生から十字架の死に至るまで、神の知恵に生きる歩みであったと言えます。

 もう一つ強調されていることは、神の恵みと愛です。人間イエスが成長される過程で、神の恵みと愛が最も重要であったということは言うまでもないことです。もちろん、両親であるヨセフとマリアの愛や配慮、家族とか地域社会の協力なども必要です。でも、それらのすべてが備わっていたとしても、神の恵みと愛がなければ、主イエスの歩みは祝福されません。わたしたち一人一人にとっても、またわたしたちの子どもにとってもそれは同じです。主イエスの誕生から十字架の死に至るまで、父なる神の恵みと愛は少しも欠けることはありませんでした。

 では次に、41節以下について学んでいきましょう。過越祭は神の民イスラエル誕生を祝う祭りであり、ユダヤ人最大の祭りでした。紀元前13世紀ころ、エジプトで長い間奴隷の民であったイスラエルが神の強いみ手によって解放されたことを祝い、感謝する祭りです。ユダヤ人の成人男子は過越祭には必ずエルサレムの神殿で礼拝することが旧約聖書の律法で定められていました。過越祭に続いて7日間は種入れぬパンの祭りがあり、ほとんどのユダヤ人は一週間をエルサレムで過ごすのが習慣でした。主イエスの両親は地域の仲間と連れ立って、ガリラヤのナザレからエルサレムまでの100キロ余りの道のりを、おそらくは3、4日かけて、過越祭を祝うために出かけていきました。

 42節に、「イエスが12歳になったとき」とあります。当時のユダヤ人社会では宗教上13歳から成人の仲間入りをし、律法を守る義務が課せられました。12歳は親の監督の下に置かれる最後の年です。ですから、41節では両親が主語になっています。また、この個所全体でも、両親が主イエスの監督者であることが強調されています。ヨセフとマリアは律法に従い、長男である主イエスの信仰の訓練を忠実に果たし、来年からの独り立ちに備えているのです。主イエスは忠実な信仰の家庭で育てられていたことが分かります。ガラテヤの信徒への手紙4章4節以下にこのように書かれています。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」。このみ言葉こそが、きょうの個所のメッセージを聞き取るための鍵になります。12歳の主イエスはここでイスラエルの律法の下に置かれ、両親の監督の下に置かれ、そのもとで信仰の教育をお受けになっておられるのですが、しかし、主イエスはこの時にすでに神のみ子として、律法からも両親からも自由であられたということが、ここで暗示されているのです。そのことについてさらに理解を深めていきましょう。

 祭りが終わって一行が帰路に着いた時、主イエスが仲間からはぐれ、迷子になっておられることが分かり、両親は心配しながらエルサレムに引き返します。すると、両親は神殿におられた少年イエスを見つけます。【46~49節】。主イエスは両親の心配をよそに、エルサレム神殿の中で、大人の教師たちと対等に神や聖書に関して議論しておられました。主イエスは両親が心配したように、迷子になっておられたのではありません。三日以上の間、両親から引き離された子どものように、寂しさと不安の中で、道をさまよっておられたのでもありません。主イエスはいわば、ご自分の意志で、ご自身が神の契約の民イスラエルの一人として、その契約の民の礼拝の中心であり、神の家である神殿におられたのです。それは主イエスご自身の意志であり、また父なる神のみ心だったのです。

 それにしても、主イエスの賢さはどこから由来しているのでしょうか。当時のイスラエル宗教の指導者である祭司や律法学者は、だれか有名な教師の下で学び、専門的な教育を受けていましたが、12歳の少年イエスがそのような教育を受けておられたということは考えられません。では、どこからその知恵を得たのでしょうか。40節と52節で言われていたように、主イエスは神のみ子として、神の恵みと愛に育てられ、いわば直接に父なる神からその知恵を与えられていたと言うべきでしょう。けれどもより重要なことは、主イエスはその賢さや知恵をご自分のためには少しもお用いにならなかったということです。

 母マリアは「なぜこんなことをしてくれたのか」と主イエスに問い詰めます。親の庇護から離れて勝手な行動をしている子どもを叱っているように思われます。子どもに対して、親に服従する義務を求めるのは、親として当然のことです。しかし、主イエスのお答えは、逆に親を非難しているかのようです。主イエスはご自身が天の父なる神の子どもであり、その父なる神に対して服従の義務を果たす方が、肉にある地上の親に対する服従の義務よりもより大きく、優先すべきであると言われたのです。母マリアは地上の肉にある親と子の関係のことを考えていました。しかし、主イエスは天の父なる神との霊にある親と子の関係を主張しておられます。地上にある親が持つ権威は、天の父なる神の権威の前に服従しなければなりません。

 49節で、「当たり前だということ」と訳されているギリシャ語は、他の個所では「必ず」とか「べきである」と訳されています。この言葉は、神の強い意志、神の永遠のご計画を表しています。この言葉は、福音書の後半で、主イエスの受難予告の中で頻繁に用いられます。12歳の少年イエスが父なる神の家であり、父なる神を礼拝し、神と生ける出会いをする場である神殿におられたことが、神の強い意志であり永遠のご計画でした。そしてまた、主イエスがわたしたち罪びとを救うためにご受難の道を歩まれ、ついには十字架でご自身の命を贖いの供え物としておささげくださることも、神の強い意志であり、神の永遠の救いのご計画であったのです。12歳の少年イエスは、まことの神として、また同時にまことの人間として、その道を進まれました。

(執り成しの祈り)

〇父なる神よ、あなたの永遠の救いのご計画の中に、わたしたち一人一人をもお

招きくださいますことを感謝いたします。この道を従順に歩ませてください。

〇主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられ、まことの救いと命とが、すべての悲しんでいる人たちや暗闇をさまよっている人たち、餓え乾いている人たち、孤独な人たち一人一人に与えられますように。

〇全世界のすべての民族、地域に主イエス・キリストにある和解と平和をお与えください。

 主のみ名によって祈ります。アーメン。

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