2月2日(日)説教「主キリストの福音に仕える同労者」

2020年2月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    フィリピの信徒への手紙2章19~30節

説教題:「主キリストの福音に仕える同労者」

 きょうの礼拝で朗読されたフィリピの信徒への手紙2章19節以下には二人の人物のことが書かれています。一人はテモテ、もう一人はエパフロディト、この二人は獄中のパウロの世話をしていました。当時は、犯罪人として投獄されても、最終の判決が下されるまでは、比較的自由な生活をゆるされていました。食物の差し入れや、その他生活に必要な物を支援してもらうこと、また面会や手紙を書くことだけでなく、投獄されている建物の中にいる他の囚人や兵隊たちに福音を語ることもゆるされていたということがこの手紙の1章12節以下などからも推測できます。使徒言行録28章23節以下には、ローマに護送されたパウロが自分の宿舎で定期的に人を集めて集会をしていたことが書かれています。パウロは主キリストの福音をのべ伝える宣教者として何度も迫害を受け、捕らえられ、鎖につながれましたが、囚人に与えられていた権利を最大限に用い、判決が下されるまでのあらゆる機会を活用して、福音宣教のために仕えました。神のみ言葉は、この世のどのような鎖によっても決してつながれていないということを証ししました。

 パウロはまた、獄中にあっても、福音宣教のための良き同労者である弟子を与えられていました。その二人がテモテとエパフロディトです。テモテについては、22節でパウロは「息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」と言い、エパフロディトについては25節で「わたしの兄弟、協力者、戦友である」と言っています。共に神のみ言葉に仕える同労者の交わりを、この世のどのような鎖も鉄格子も引き裂くことは決してできないということを、ここでも言わなければなりません。

テモテとエパフロディトは獄中にあるパウロと共に神のみ言葉に仕え、主キリストの福音宣教のために働きました。パウロと彼ら2人の関係を友情と呼ぶにしろ、師弟愛、あるいは同労者と呼ぶにしろ、彼らを固く結びつけているのは主キリストの福音以外ではありません。彼らは共に主キリストの福音のために働く同労者として、固く結びあっています。もし、わたしたち人間をこの地上で固く結びつけるものがあるとするならば、それを友情とか愛、あるいは交わりと呼ぶとすれば、それはどこから、どのようにして与えられるのでしょうか。現在社会の中で、人が孤立し、個人主義的になり、だれもが自分のことを考えるのに精いっぱいであるような人間たちを、それでもなお、お互いを認め合い、他の人のために仕えることを喜びとし、他の人の弱さや痛み、重荷を自らに担っていき、使徒パウロと共に「おお、わが愛する兄弟姉妹よ、親愛なるわが同志よ。同労者よ」と呼び合うことができるとすれば、それはどこから、どのようにして与えられるのでしょうか。わたしたちはその答えを、きょうのみ言葉に見いだすことができるのです。それは、わたしたちが共に主キリストの福音ために働き、そのために共に汗を流し、時に労苦や試練をも共にする時にこそ、そこに真実の兄弟愛と言うべきものが、主にある交わりが、この世のどのような鎖や鉄格子によっても決して引き裂かれることがない信仰共同体の交わりが与えられるのです。

では、19節から読んでいきましょう。【19節】。テモテは1章1節で、この手紙の共同発信人としてその名が挙げられていました。使徒言行録16章には、パウロがキリスト者になって間もない若いテモテを連れてマケドニア州のフィリピ伝道に出かけたことが書かれています。それ以来、テモテはパウロの最も強力な同労者として共に福音宣教に仕えました。この時にも、投獄されていたパウロの近くでパウロをサポートしていたようです。そのテモテをフィリピ教会に遣わす予定であるとパウロは言います。テモテ派遣の目的は、「わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいから」と彼は言います。この19節は口語訳聖書では「あなたがたの様子を知って、わたしもまた力づけられたいからである」となっていて、この方が正確です。つまり、ここには「あなたがたも、そしてわたしも共に」という意味が込められているのです。フィリピ教会の人々は獄中にいるパウロのことが気がかりです。しかし、テモテが教会に遣わされて、パウロの現況を伝え、獄中にあっても主キリストの福音が力強く証しされていることを彼らが知って、彼らは大いに力づけられるでしょう。それとともに、テモテが再びパウロのもとへと遣わされて、フィリピ教会が迫害の中でも福音の信仰のために心を合わせて戦っていることを伝えられ、パウロもまた力づけられ、励まされることになるでしょう。パウロとフィリピ教会とは、派遣されたテモテによって、互いに固く結ばれ、共に主にある勇気と希望とを分かち合うことができるのです。「主イエスによって希望しています」とパウロが書いているのはそのことを含んでいるのです。主イエスがパウロとフィリピ教会、そして派遣されるテモテの3者を固く結びつけているのです。

ここでもう一つ注目したいことは、「遣わす」と訳されている言葉です。実は、きょうの個所には同じギリシャ語が4回用いられています。翻訳はそれぞれ違っていますが、テモテに関しては、19節「遣わす」のほかに、23節「送る」、エパフロディトに関しては、25節「帰す」、28節「送る」。パウロはテモテに対してもエパフロディトに対しても、意識的に同じ言葉を用いていると推測されます。この言葉には、パウロのいわば教会論的な、あるいは宣教論的な考えが反映されていると考えられます。すなわち、テモテとエパフロディトが遣わされるのは、単にパウロの個人的な使い走りのためとか、パウロとフィリピ教会の便宜を図るためとかではなく、共に主キリストの教会を建てるための、また主キリストの福音を宣教するための、主キリストによって遣わされ、派遣された使徒としての働きをパウロはここで二人の弟子に見ているのです。19節の「主イエスによって希望しています」という言葉の中にはその意味も含まれています。

20~22節にはテモテのことが紹介されています。【20~22節】。これはフィリピ教会へのテモテの推薦状と言ってよいでしょう。ここには4つのことが語られています。第一には、テモテがフィリピ教会のことをだれよりも親身になって心にかけている。だから、あなたがたのところに派遣され、わたしパウロとあなたがたとの思いを一つに結びつけるのに最も適任であるということです。テモテはパウロと共にフィリピ教会を建てるために一緒に働きました。そのことをも彼らは知っています。教会設立当初のころに共に福音宣教のために熱心に仕えたことを思い起こさせるというねらいがパウロにはあったのかもしれません。

第二には、テモテは自分のことを求めず、主キリストのことを第一に考えているということです。どんなに能力があり技術が優れている人であっても、自分を第一に考え、主キリストのこと、教会のことを二の次に考える人は、本当の意味で主キリストに仕えていることにはならず、真実に教会を建てるために働くこともできません。テモテは自分のことは求めず、主キリストのことを第一に考え、それによって自我から解放され、自由と喜びとをもって主と隣人とに仕えていく人とされています。

第三に、テモテが確かな人であることをフィリピ教会の人たちもよく知っているということです。「確かな人」というギリシャ語の意味ははっきりしません。口語訳聖書では「練達した人」と訳されていました。おそらく、多くの試練や迫害を経験し、それでもなお忍耐強く、福音のために戦いぬき、それによっていよいよ信仰を確かにすることを言い表していると考えられます。

第四は、パウロと共に福音に仕えてきた同労者であるということです。パウロとテモテは年齢から言っても、また信仰の経歴から言っても父と子どもの関係でしたが、主キリストの福音に仕えることにおいては共に主キリストの僕(しもべ)であり、福音宣教の同労者です。教会に所属する一人一人も、互いに様々な違いがあり、賜物の違いがあるにしても、みな共に福音のために仕える同労者なのです。

以上のことを挙げて、パウロは弟子のテモテをフィリピ教会に推薦しています。それらは、テモテが何か優れたものを持っていたからとか、彼自身の能力とか知識とかを挙げているのではありません。むしろ、彼が自分が持っているものをすべて捨て去り、彼自身を主キリストに明け渡し、主キリストの福音によってのみ生きることに他なりません。わたしたち信仰者が主キリストから神の国への推薦状をいただくことができるとすれば、それはおそらく同じような内容になるのでしょう。主イエスは福音書の中で、「だれでも幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない。自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従う人こそ神の国にふさわしい」と言われました(マルコによる福音書10章15節、同8章34節以下参照)。

23、24節ではパウロ自身の今後の計画のことが簡単に述べられています。間もなく彼には最終判決が下さるでしょう。その判決結果を携えてテモテがフィリピ教会に派遣されることになるでしょう。その判決が死刑になるか、それとも無罪解放となるかは全く予想が立ちません。2章16、17節では死刑を覚悟していたように感じられましたが、24節では解放されて、フィリピ教会を訪れることができるであろうとの希望が語られています。いずれにせよ、パウロの将来のすべては主によって定められているゆえに、彼はその道を確信をもって進んでいくことができます。

25節からはエパフロディトについて書かれています。彼は獄中のパウロへの援助物資を携えてフィリピ教会から派遣されました(そのことについては4章18節に書かれています)が、途中で重い病気になり、パウロへのサポートが十分にできずに、また望郷の念をつのらせ、重度のホームシックにかかっていたようです。しかも、彼が病気になり、パウロに対する支援の務めを十分に果たすことができなかったことがフィリピ教会に伝わり、非難を受けていたと思われます。このことがさらにエパフロディトを苦しめていました。

けれども、パウロはそのようなエパフロディトを擁護し、否、擁護するだけでなく、彼もまた主キリストの福音のために仕える同労者であることを強調するのです。先にも触れましたが、25節と28節で、「エパフロディトをフィリピ教会に派遣する」という言葉を2度用いています。彼が用済みになり、役に立たなくなったから送り返すというのではありません。彼もまた主キリストの福音に仕える使徒として、主キリストから派遣されているのです。

25節では彼のことを、「わたしの兄弟、協力者、戦友である」と言い、また「あなたがたの使者、わたしの奉仕者」とも言っています。27節では、「実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました」と言っています。さらに30節でも、「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」とまで言うのです。エパフロディトは彼の弱さと病気とをもって、彼の死の危険をもってまで、主キリストの福音に仕えたのです。彼はその弱さと無力とによってこそ、最もよく主キリストのために仕えたのです。それゆえに、29節でパウロは「彼のような人こそが敬われなければならないと」と言うのです。主キリストのために仕えることにおいては、どのような弱さも欠けも破れも、すべてが主のみ心にかなって用いられるのです。主キリストの福音のために共に仕える同労者は何と幸いなことでしょう。

(祈り)

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