4月19日説教「わたしたちの本国は天にある」

2020年4月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記12章1~9節

    フィリピの信徒への手紙3章17~21節

説教題:「わたしたちの本国は天にある」

 フィリピの信徒への手紙3章17節で、この手紙の著者である使徒パウロは次のように勧めています。【17節】。「自分に倣う者になりなさい」というこの勧めは、いかにも傲慢で、大胆であるように思われます。わたしたちの多くは、「わたしのようになってください」とか「わたしを模範にしてください」と、だれかに勧めるにはあまりにも多くの欠点や未熟さを持っていることを知っています。むしろ、「この点はわたしの真似をしないでください、わたしのようにはならないでください」と言わなければならないことを知っています。でも、パウロはよっぽど自信家で、あるいは立派な人間だと自負して、「みな、わたしに倣え」と言っているのでしょうか。いや、おそらくそうではないと思います。では、どのような意味でパウロはこのように言うのでしょうか。

 また、17節後半では、わたし・パウロに倣えと言うだけでなく、パウロや他の多くの使徒たちをも模範として、彼らに目を向けなさいとも勧めています。おそらくは、彼らのだれもが多かれ少なかれ欠点を持ち、時には失敗をする人間であるには違いないのに、そのような指導者たちをも尊敬し、彼らに倣う者になりなさいと勧めているのです。なぜ、パウロは誤解される恐れがあるような大胆な言い方でそのことを強調するのでしょうか。

 パウロは他の手紙でも、「わたしに倣え」「わたしたちに倣え」と何度か書いていますが、それと並んで、エフェソの信徒への手紙5章1節では「神に倣え」、テサロニケの信徒への手紙一1章6節では「主に倣う」「主キリストに倣う」と言っています。そして、コリントの信徒への手紙一11章1節では、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と、二つを一緒にしています。ここから分かるように、「わたしに倣え」とは、究極的には、「わたしが倣っている主キリストに倣え」ということなのです。主キリストと出会ってから、主キリストに倣って生きているわたし、もはや以前のわたしではなくなったわたし、主キリストによって新しくされているわたし、そのようなわたしに倣え、わたしをそのように変えてくださった主キリストに倣えとパウロは言っているのです。

 わたし・パウロが、十字架につけられた主イエス・キリストに倣って、それまでユダヤ人としてのわたしが誇っていた肉にある特権や誉れや業績のすべてを塵あくたとみなして投げ捨てたわたし、そのわたしに倣え。また、それまで自分の義のわざによって救われようとした道からひるがえって、ただ信仰によって神から義と認められる道へと方向転換をするようにされたわたし。わたし自身の中には救いの可能性が全くなく、ただ主キリストの十字架と復活の福音にこそわたしの救いのすべてがあることを信じているわたし。そのようにして、罪に死んでいたこの体が主キリストの復活の命によって生かされているこのわたし。そのわたしに倣うようになってほしいとパウロは言っているのです。

 パウロがそのことを強調する理由が、次の18節に書かれています。【18節】。3章1節でも、これまで何度も同じことを言ってきたが今また繰り返して言うと書いていましたが、ここでもそれを繰り返します。しかも、ここでは「涙を流しながら」、激しい感情と精いっぱいの思いを込めて、今の時代の不信仰と不従順を嘆き悲しみ、それに必死になって抵抗し、戦っています。

 この世は、いつの時代も、主キリストの十字架に敵対して歩む者が多く、キリスト者はそのような人たちに取り囲まれており、彼らからの様々な攻撃や誘惑やあざけりの対象にされています。パウロの時代には、教会の身近には二つの大きな敵対勢力があったと考えられています。一つは、ユダヤ教の律法主義です。教会の中にもその勢力がはびこっていました。主キリストの十字架の福音を信じる信仰だけでは救いは不十分である、律法を重んじ、イスラエルの古くからの伝統をも守るべきであるとするユダヤ主義的キリスト者が教会を分断させていました。また、霊的グノーシス主義者と言われる人たちは、自分たちには特別な神の知識、グノーシスが与えられ、すでに救いは完成し、完全な人間となった。だから、もうキリストの十字架は必要ないと彼らは考えたのでした。いずれも、主キリストの十字架の福音を軽んじ、否定していました。

 もう一つ、教会の外からの敵対勢力を挙げるとすれば、偶像の神々を礼拝している異教徒たちや、この世の過ぎゆくものを追い求め、肉のパンだけで生きることができると考える神なき人たちも多くおりました。

 しかし、19節で続けてパウロはこう言います。【19節】。パウロは彼らの滅びを悲しんでいます。彼が「今また涙を流しながら」言うのは、教会が受けている彼らからの攻撃と教会の戦いの厳しさを嘆いたり、憂いたりしているからであるよりも、パウロの涙は彼ら神なき者たちの滅びを悲しみ、悼んでいる涙なのです。滅び行かんとするこの世への切なる愛のゆえの涙なのです。この涙をもって、パウロは懸命に、福音宣教の務めにわが身をささげているのです。

 彼ら主キリストの十字架に敵対している歩んでいる人たちが、神なき世界で、罪の中で死と滅びに向かって進むことがないために、パウロは彼らに主キリストの福音を語らずにはおれません。彼らに罪のゆるしと主キリストにある新しい命のみ言葉を語らざるを得ません。彼らこの世のパンだけを追い求め、朽ち果てるに過ぎないもののために生き、死んでいくしかない、神を知らない人たちのために、天から与えられる命のパンと命の水を指し示そうとしているのです。彼らの一人も滅びることがないために、パウロは祈りと涙とをもって、主キリストの十字架の福音を語り続けるのです。それはまた、今の時代に召されているわたしたち一人一人の務めでもあります。

 そこでパウロは、わたしたちの目と心とを、今主キリストがいます天へと向けるのです。天にこそ、わたしたちの本国、国籍があるからです。【20~21節】。主イエスは地上の王国を打ち立てるためのメシアではありません。そうであれば、主イエスは地上にとどまっておられたはずでしょう。使徒言行録1章によれば、十字架につけられ、三日目に復活された主イエスは、40日間にわたって復活のお姿を弟子たちに現わされ、福音を宣べ伝えるようにと命令され、40日目に弟子たちが見ている前で天に昇って行かれました。雲が主イエスのお姿を隠しました。主イエスは雲の向こう側に、父なる神の側におられます。そして、終わりの日に再び地に下って来られ、信じる人々を天に引き上げてくださいます。それが神の国の完成です。わたしたちの信仰の歩みはその神の国の完成を目指しているのです。したがって、この地上のどこかにわたしたちの生きる目標があるのではありません。この地上の何かを追い求め、それを目標にして生きているのでもありません。地上にあるものすべては、時と共に流れ去り、消えゆき、朽ち果てるしかありません。

 天には、罪と死とに勝利され、全地と万物とを支配しておられる勝利者なる主イエス・キリストがおられます。それに対して、わたしたちは今なお地上に住んでいます。けれども、わたしたちの本国、国籍、その市民権は天にあります。主イエス・キリストがご自身の十字架と復活、そして昇天によって、わたしたちにその国籍、市民権をお与えくださったからです。それゆえに、わたしたちキリスト者はこの世では寄留者であり、旅人であると告白するのです。そして、どのような困難な時代にも、どのような試練の時にも、幸いの時にも災いの時にも、地上の事柄に心を奪われるのではなく、かしらを上にあげ、目を天に向け、天に備えられている永遠の命と輝くばかりの栄光を待ち望むのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたのご栄光を仰ぎ見ることができるように、わたしたち

の信仰の目を開いてください。打ちひしがれているわたしたちの心を、あなたに向けて引き上げてください。

○大きな不安と混乱の中にある世界を、主よ、どうか憐れんでください。全世界

の民をお守りください。あなたのみ心をお示しください。

○神よ、あなたが選び、お集めになった主の教会もまた、恐れと弱さの中で苦悩

しています。どうか、み言葉の上に固く立つ勇気と希望をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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