6月14日説教「アダムからノアまでの系図」

2020年6月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記5章1~32節

    ヘブライ人への手紙11章1~7節

説教題:「アダムからのノアまでの系図」

 創世記5章にはアダムから始まるノアの大洪水以前の最初の人間たちの10世代にわたる系図が書かれています。旧約聖書にはこのほかにも多くの系図があります。歴代誌はそのほとんどが系図で占められています。マタイ福音書1章とルカ福音書3章には主イエスに至るまでの系図があります。聖書の民であるイスラエルにとっては、系図が非常に重んじられていました。なぜ系図が重要な意味を持つのかを考えることが、きょうの創世記5章を理解する基礎になります。

 1節で「系図」と訳されているヘブライ語は2章4節で「由来」と訳されている語と同じです。本来この言葉は「出産」を意味します。そこから、誕生の由来や歴史、成立史という意味を持つようになったと考えられます。ここからわたしたちは「系図」が持つ重要な意味の一つを教えられます。それは、神が始められ、神が導かれる世界と人間の歴史を意味しているということす。神が全世界を創造され、神が最初の人間アダムとエバを創造され、その命を誕生させてくださった、その人間の誕生と命のつながり、連続、それが系図です。系図、由来の原点、出発点には主なる神がおられるのです。ルカ福音書3章38節には、「エノシュ、セト、アダム、そして神に至る」と書かれているとおりです。神が始められた世界と人間の歴史、神の救いの歴史は、決して中断されることなく、その完成に向かって継続されていくのです。これが、系図、由来の第一の意味です。

 創世記12章からの族長アブラハムの時代からは、系図に新たな意味が加わりました。それは、系図が神の選びの歴史の確かなしるしであるということです。神は地の表からまずアブラハムを選び、彼をご自身の民として召され、彼と契約を結ばれました。神の選びと契約はアブラハムの子イサク、ヤコブ、そしてヤコブ(すなわちイスラエル)の12人の子どもたちによって形成されるイスラエルの民の選びと契約によって具体化されていきました。神はイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出され、シナイ山でこの民と契約を結ばれ、ご自身の民とされました。その契約はダビデ王からソロモン王と南王国ユダの子孫へと受け継がれました。その神の選びと契約の歴史、これが系図の第二の意味です。

 系図のもう一つの、最も重要な意味は、神が開始された創造と救いのみわざは、神の選びと契約の歴史を通して、その完成であるメシア・キリスト・救い主の到来を待ち望み、主イエス・キリストを目指し、主イエス・キリストによって完成されるということです。旧約聖書の書かれているすべての系図は、そして新約聖書マタイ福音書とルカ福音書の系図ももちろんそうですが、そのすべてが主イエス・キリストにつながっている、主イエス・キリストを目指している、主イエス・キリストによって完結している、その最終目的に達しているということ、つまり、その系図によってわたしたちを主イエス・キリストへと導くということ、それが系図の最も重要な意味、役割なのです。

 以上のことを念頭に置きながら、創世記5章を読んでいきたいと思います。【1~2節】。ここでは、創世記1章26~28節で書かれていた内容をまとめています。復習になりますが、4つの点を再確認しておきましょう。第一点は、「創造する」という言葉です。ヘブライ語で「バーラー」、これは、神が主語になる文章でしか用いられません。ただ神だけがなさる、特別な創造のみわざを言い表す言葉です。神は何の材料も道具をも用いず、神がお語りになる言葉ですべてのものを創造されました。無から有を呼び出だすようにして、死から命を生み出すようにして、神は天地万物と人間を創造されました。したがって、わたしたち人間の命と存在のすべてが神から与えられている、神によって支えられ、養われ、導かれているということがこの言葉では強調されているのです。

 第二点は、「神に似せて」ということです。神は人間を、ただ人間だけを、ご自身のお姿に似せて、ご自身に近い存在として、ご自身と深く交わる者として創造されました。わたしたち人間は神がお語りになるみ言葉を聞き、それを理解し、それを信じ、神を礼拝することによって、わたしもまた神のお姿に似せて創造されているということを知らされるのです。

 第三は、神は人間を「男と女に」創造されたということです。一人だけで生きるのではなく、男と女として、互いに違った者でありながら、共に生きる連帯的人間として、隣人を愛し、隣人に仕え、共に主なる神にお仕えする共同体として人間を創造されました。

 第四は神の「祝福」です。人間は神の祝福を受けてこの世に誕生し、神の祝福を次の世代へと受け継いでいきます。神に選ばれた信仰者の家には神の祝福が途絶えることはありません。以上の4つのことが、アダムから始まるすべての人間に引き継がれ、受け継がれていきます。

 【3~5節】。3節の「自分に似た、自分にかたどった」とはどういうことを意味するでしょうか。神が最初に人間アダムを創造された時の、26、27節の「神に似せて、神にかたどって」と同じ言葉が用いられてはいますが、内容は必ずしも同一というわけではありません。なぜならば、創世記3章に書かれているように、アダムは神のお姿に似せて創造されたという「神のかたち」を自らの罪によって破壊し、失ってしまったように思えるからです。だとすれば、5章3節は二重の意味を持つことになります。一つは、神のかたちに似せて創造されたという、人間に対する神の大きな愛と恵み、今一つは、その神の恵みを失ってしまったという人間の罪。アダムの子どもセトはその二つを父から受け継ぐのです。また、それ以後のすべての人間も、わたしたちもまたその二つを父と母から受け継ぎ、また子へと受け継ぐのです。

いや、それだけではありません。さらにもう一つのことを付け加えなければなりません。5章3節で、あえてここにもう一度「似ている、かたどった」という1章26、27節の言葉が繰り返されているのは、ここでも、最初に神がアダムを創造された時の神の大きな恵みと愛とが、アダムの罪にもかかわらず、それが決して失われてはいないということが暗示されているということであり、さらに言うならば、やがて神はメシア・キリスト・救い主を世にお遣わしになる時には、あの失われた「神のかたち」を再び取り戻されるということを預言しているのだということです。神はご自身のかたちそのものであられるみ子・主イエス・キリストによって、罪によって失われた「神のかたち」をわたしたちのために再創造してくださったのです。

さて、イスラエルの系図においては、長男がその家を受け継ぐのが一般的でした。しかし、セトはアダムの長男ではありません。長男は4章1節に書いてあるように、カインでした。ところが、カインは弟アベルを殺したために、神に呪われた人として、地をさまよわなければならなくなったと4章に書かれていました。そして、4章25、26節にはこのように説明されています。【25~26節】。この説明によれば、アダムの長男カインは弟殺しの罪のゆえに、神に捨てられ、神は代わって別の男の子セトをアダムに授けられたということになります。そして、カインではなくセトがアダムの家を受け継ぐようになったのです。イスラエルの系図は、機械的に長男に受け継がれるのではなく、そこには神のみ心、神の救いのご計画が含まれているということを、ここでも確認できます。

次に、ここに挙げられている10世代のすべてが、今日では考えられないような高齢であることに、だれでも気づかれるでしょう。最も高齢は8世代目、27節のメトシェラは969歳、最も短くてもその前の23節、エノクの365歳、10世代を平均すると858歳になります。これについて、さまざまな解釈が試みられています。

これを神話的な表現ととらえて、その数字をまともに取り上げる必要はないという考えがあります。古代バビロニアやエジプト、インドなどにも、原始時代の神々たちや神格化された王たちの長寿の記録が残っています。日本の神話でも神々は何万年も生きたと書かれています。しかし、創世記もそれと同じだと理解することは適当ではありません。創世記の系図は神々の系図ではなく、神によって創造された人間ダアムとその子孫の系図です。地上に生まれ、地上に住み、そして地上で死んでいった人間たちの系図です。アダム、族長アブラハム、イスラエルの民、ダビデ、そしてヨセフの子としてこの世においでになられた主イエスへと至る人間の系図です。

古代の一年の長さは、月の満ち欠けで数えていたのではないかと推測する考えもあります。そうすれば、最高齢の969歳は実際には80歳ということになり、あり得ない寿命ではありませんが、しかしそうすると、子どもを産んだ年が10歳にも満たなくなり、この数え方も納得いくものではありません。

あるいはまた、ここに挙げられている名前は個人名ではなく、部族とかの世襲の名前ではないかという考えもあります。しかし、その場合にも、「子どもを産んだ」、「息子と娘を生んだ」が何を意味するのかがはっきりしなくなります。

結局、ここに書かれている寿命の長さについての、聖書的、信仰的な説明はまだ見いだせないというほかありません。そのことを認めたうえで、わたしたちは別の側面からのアプローチによって、ここの書かれている系図とその寿命の信仰的な意味を探っていく必要があります。

そこで注目したいことは、これら10人の父祖たちの寿命は驚くほど長いのは事実ですが、みな同様に最後には「そして死んだ」と書かれている点です。【5節】。【8節】。このあと、11節にも、14節にも、みな同じように「そして死んだ」と書かれています。彼らはみな死すべき人間であったということにおいては、みな同じ運命にありました。みな同じように、その罪ゆえに神の裁きを受けて死すべきものとなったアダムの罪と神の裁きとを受け継いでいるのです。この点において、前に紹介した古代社会に伝わっている神話的な物語と聖書の系図とは根本的に違っています。

聖書が伝える系図は、人間の罪と神の裁きの歴史であるのだということを、わたしたちは正しく理解し、恐れをもって受け止めなければなりません。そのうえで、その系図の終わりへと目を向けるべきことがより一層強く求められていることに気づかされるのです。神はその系図の最後に、人間の罪と神の裁きを、人間の救いと神の愛に変えてくださるメシア・キリストであられる、ヨセフの子、主イエスを置かれました。主イエス・キリストによって、アダムから始まった人間の系図は締めくくられ、完成され、それによって神の救いの歴史は最終目的に達したのです。

きょうのみ言葉の中で、そのことをあらかじめ暗示している箇所を読んでみましょう。【21~24節】。エノクは10人の中でも最も短命です。そうであるのに「神と共に歩んだ」と二度繰り返されています。そしてさらに、「神が取られた」とも書かれています。エノクは死を見ないで、直接に神のみ手によって天に引き上げられました。地上での限りある、死すべき生涯を、神と共に歩む者を、神はこのようにして天に引き上げてくださり、神のみ国へと招き入れてくださり、永遠の命を与えてくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の神よ、朽ち果てるしかないわたしたちの命を、あなたのみ手によって支え、

導いてください。

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