6月21日説教「主イエスの宣教活動」

2020年6月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章6~11節

    ルカによる福音書4章14~15節

説教題:「主イエスの宣教活動」

 新約聖書には四つの福音書があります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネですが、前の三つを「共観福音書」と言います。というのは、この三つは福音書の構造や記述内容などが非常によく似ていて、一字一句全く同じという個所も少なくなく、互いに観察しあって書いた、あるいは編集したと考えられるからです。今日の研究では、マルコ福音書が最も早くに書かれ、おそらく紀元60年代、すなわち主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活され、50日後のペンテコステに最初のエルサレム教会が誕生してからおよそ30年後に書かれ、マタイとルカ福音書はそれから10~20年後に、おそらくはマルコ福音書を参考にしながら書いたと推測されています。ヨハネ福音書は共観福音書とはだいぶ趣が違っていますので、これを第四福音書と呼んだりします。これは、紀元80~90年代に書かれたと考えられています。

 共観福音書と言われる三つの福音書、それに第四福音書と言われるヨハネ福音書、これら四つの福音書に書かれている中心的な内容、それが主イエス・キリストであるということは言うまでもありません。四つの福音書は、それぞれの特徴を持ち、強調点の違いがあり、言葉遣いの違いなどもありますが、それがわたしたちに語りかけているのは、神が全人類のための救い主としてこの世にお遣わしになった主イエス・キリストであり、主イエス・キリストが宣べ伝えられた神の国の福音であり、神の永遠の救いのみわざです。

 わたしたちはルカ福音書を続けて読んでいますが、共観福音書と言われる他の二つの福音書を参考にしながら読むと、理解が深まります。きょうの礼拝で取り上げるのは、ルカ福音書4章14~15節の短い箇所ですから、これを他の二つの福音書を読み比べながら、丁寧に、詳しく学んでいくことにしたいと思います。

「新共同訳聖書」では読む人の参考のために、その個所の表題と、共観福音書の並行個所を記しています。マタイ4章12~17節、マコ(マルコ)1章14~15節と書いてありますので、聖書を開ける人はその個所を開いてください。【マタイ4章12~17節】(5ページ)。【マルコ1章14~15節】(61ページ)。表題の「ガリラヤで伝道を始める」はみな同じです。記述内容は、三つに共通している点があり、マタイとマルコに共通している点、またそれぞれの特徴も読み取れます。ここには、それぞれの福音書全体の特徴もよく表れています。それらの研究課題の一つ一つをすべて取り上げていくと、神学校の1週間分の講義になりますので、きょうはその中のいくつかに触れながら、主イエスの福音宣教の初めについて学んでいくことにしましょう。

第一に取り上げる点は、ルカ福音書14節の「イエスは〝霊〟の力に満ちて」というみ言葉です。これは、マタイにもマルコにもありません。ルカ福音書の大きな特徴の一つだということが分かります。前回にも触れたことですが、ルカ福音書は特に、霊、神の霊、聖霊を強調します。これは、同じ著者によると思われる使徒言行録にまで受け継がれていきます。

主イエスの誕生予告の個所で聖霊について語られています。1章35節の天使がマリアに語ったみ言葉【35節】(100ページ)。わたしたちが「使徒信条」の中で「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」と告白しているとおりです。次に、主イエスの受洗の個所、【3章21~22節】(106ページ)。そして、荒れ野での誘惑の場面、【4章1節】(107ページ)。

主イエスは誕生の時から、公のご生涯が始められる受洗の時、荒れ野での悪魔の誘惑との戦いと勝利、そして福音宣教の開始、そのすべてが聖霊なる神のみ力とお導きによるということを、ルカ福音書は強調しているのです。主イエスはご自身の願いや計画や意志によって公のご生涯を始められるのではありません。父なる神の永遠の救いのご計画に従い、聖霊なる神の力とお導きによって、すべてのみわざをなさるのです。この福音書に描かれている主イエスのすべての活動、神の国の福音の説教、奇跡のみわざ、そしてご受難と十字架の死、復活、それらすべてのことが父なる神のみ心に従い、聖霊なる神のお導きによってなされるのです。また、そうであるからこそ、主イエスはそれらすべてのみわざを喜びをもってなすことができたのであるし、そのみわざによってわたしたちのための救いを完成されるのです。

同じことは、わたしたち一人一人の信仰の歩みにもあてはまります。わたしが初めて教会に招かれた時、わたし自身はまだそのことに気づいてはいませんでしたが、そこには聖霊なる神のお導きがありました。わたしが信仰を告白して洗礼を受ける決意を与えられた時、信仰者として教会に仕え、キリスト者としての証しの生活をする時、そのすべてにも聖霊なる神のみ力とお導きがあったのだということ、父なる神の永遠のご計画があったのだということ、そう信じる時にこそ、わたしは喜びと希望をもって信仰の歩みを続けることができるのです。もし、それらを自分の願いや計画でしたのであれば、わたしたちはある時には自分を誇って傲慢になったり、ある時には失敗して失望しなければなりません。わたしの信仰の歩みのすべてが聖霊なる神に導かれたものであるようにと祈り求めることが大切です。そうである時にこそ、わたしの信仰の歩みが確かに終わりの日の完成に向かっているということを信じることができるからです。

「霊の力に満ちて」はルカ福音書全体に貫かれているだけでなく、ルカが続編として書き著した使徒言行録にまで続いています。使徒言行録1章8節にこのように書かれています。【8節】(213ページ)。そして次の2章では、五旬祭(ペンテコステ)の日に弟子たちに約束の聖霊が注がれて、エルサレムに最初の教会が誕生した次第について書かれています。全世界の教会は聖霊なる神がお与えになった実りであり、聖霊なる神の活動そのものです。

14節に続けて「ガリラヤに帰られた」とあります。どこから帰られたのかというと、4章1節に書かれていたように、洗礼者ヨハネが活動していたヨルダン川沿いの地域、おそらくはイスラエルの南のユダヤ地方から、さらに悪魔の誘惑の場面である同じユダヤ地方の荒れ野から、北の方角のガリラヤ地方へと、距離にして約100キロほど移動されたと推測されます。ユダヤの荒れ野からガリラヤへ、主イエスのこの移動は何を意味するでしょうか。一つには、主イエスはユダヤの荒れ野にとどまってはおられなかったということです。荒れ野で修業したり、一人で瞑想し、悟りを開くということが主イエスの目的ではありません。人々が住んでいる町々村々で、その人々の生活の中で、特にも、困窮したり、重荷を背負ったり、苦しみや痛みの中にある人々と共に歩み、彼らに神の国の福音を語り、罪のゆるしと救いの恵みを語り伝えることが主イエスの活動の目的です。主イエスはわたしたちの生活のただ中に入って来られます。

もう一つは、ガリラヤのナザレが主イエスの故郷だったからです。2章39節にも、主イエスがご両親のヨセフとマリアと一緒にエルサレムからガリラヤのナザレに帰ったと書かれていました。しかし、4章14節で「ガリラヤに帰られた」とあるのは2章39節とは意味が違います。主イエスはご両親が住むナザレの町でご両親とまた一緒に住むために帰られたのではありません。おそらく主イエスは、公のご生涯が始まって以後は、実家に立ち寄るとか、実家で少しの間休養を取るとか、そのようなことは一度もなされなかったのではないかと思われます。主イエスがガリラヤ地方へ帰られたのは、この地方の人々に神の国の福音を宣べ伝えるために他なりません。彼等に罪のゆるしの福音を語り、悔い改めて神に立ち帰ることを勧めるためでした。

さらに積極的な意味を、マタイ福音書から知らされます。マタイ福音書4章15、16節では、イザヤ書8章23節と9章1節の預言を引用して、その意味を語っています。神が主イエスを最初にガリラヤ地方へと遣わされたのは、辱められ、見捨てられ、暗闇に閉ざされていた異邦人の地であるガリラヤに大きな光を輝かせるという預言者イザヤのみ言葉が成就するためだとマタイ福音書は語っています。

これには、旧約聖書時代からの歴史的背景があります。イスラエルはソロモン王の死後、紀元前922年に南北に分裂しました。南王国ユダがソロモン、ダビデと受け継がれる正統的な王国でしたが、北王国は200年後の紀元前721年にアッシリヤ帝国によって滅ぼされました。アッシリヤは占領政策として外国人を北王国に移住させたために、北王国のユダヤ人は外国人と混ざり合い、異教的な信仰がはびこるようになっていきました。そのために、北のサマリアやガリラヤ地方は、純粋な民族的宗教を重んじるユダヤ人からは異邦人に呼ばわりされ、軽蔑されていました。イザヤ書の預言はそのような北王国の歴史を背景にしています。

神はその異邦人の地、暗黒の地と呼ばれていたガリラヤを、主イエスの福音が語られる最初の地として選ばれたのです。ここには、聖書の中で繰り返されている神の選びの不思議があります。神はあえて小さなもの、貧しいもの、見捨てられている者、暗黒の地に住む人たちを選ばれ、救いの恵みをお与えくださいます。それはだれも神のみ前で誇ることがないためです。だれもが、神に選ばれる資格も可能性も全くないにもかかわらず、神の一方的な恵みの選びによって、救われ、神の民とされたことを感謝するためです。

次に、14節と15節で二度にわたって強調されている点は、主イエスがガリラヤ地方の人々に歓迎され、尊敬をお受けになられたということです。民衆が主イエスを喜び迎えたということは、当時のユダヤ人、また特にガリラヤの人たちが、神の救いの時の到来を待ち望んでいたことを示していると理解することもできますが、しかしまたその期待もすぐに、あえなく崩れ去るという失望感を強調してもいるのだということにすぐ気づきます。16節以下のナザレで主イエスがお受けになった最初の迫害、拒絶によって、そのことがすぐに明らかになります。そのことについては次回に詳しく学ぶことになります。

最後に、「イエスは会堂で教えられた」というみ言葉を学びましょう。会堂とは、ユダヤ教の地方にある礼拝所のことです。動物を犠牲としてささげる礼拝は、エルサレムにある神殿以外では認められていませんでした。地方の会堂では、安息日ごとに(ユダヤ教では土曜日ですが)礼拝がささげられていました。その会堂での礼拝についても次回学びますが、主イエスはしばしばその会堂で説教されました。主イエスの説教、教え、福音は旧約聖書の教えとユダヤ教の会堂を母体にしています。しかし、その内容は会堂でのユダヤ教の教えとは全く違っていました。主イエスの説教、主イエスの福音は、旧約聖書の預言の続きではありません。預言の成就です。ユダヤ教の律法ではありません。神の国の福音です。主イエスはユダヤ教の会堂で、ユダヤ教の教えではなく、新しいキリスト教の教えを説教されました。神にはじめに選ばれたユダヤ人、イスラエルの民だけでなく、選びから落ちたガリラヤの人たちも、選ばれなかった異邦人たちも、全世界のすべての人たちが救いへと招かれている。ユダヤ教が教えるように律法を守ることによってではなく、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって、すべての人が罪ゆるされ、救われる。その福音を主イエスはガリラヤで説教され、今もわたしたちにその福音を語っておられます。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、わたしたちを主イエス・キリストの福音へと招いてください。全

世界のすべての人々を、主イエス・キリストの福音へと招いてください。

○主なる神よ、あなたが創造され、あなたが全能のみ手をもってご支配しておら

れるこの世界が、あなたのみ手を離れて滅び行くことがありませんように。全地のすべての国・民をあなたがあわれみ、この地にあなたのみ心を行ってください。

○神よ、特にも、小さな人たち、弱い人たち、見失われている人たちをあなたが

助け、励まし、導いてください。病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、試練の中にある人たち、孤独な人たちの歩みにあなたが伴ってくださり、必要な助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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