8月2日説教「故郷では尊敬されなかった主イエス」

2020年8月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:列王記上17章8~16節

    ルカによる福音書4章16~30節

説教題:「故郷では尊敬されなかった主イエス」

 主イエスは故郷ガリラヤ地方のナザレの会堂で安息日の礼拝に出席されました。聖書朗読の役を指名された主イエスは、イザヤ書61章のみ言葉を朗読された後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)と説教されました。主イエスは一人の礼拝者として会堂に来られたのではありませんでした。旧約聖書のみ言葉を成就するためにナザレの会堂に立っておられるのです。

22節に「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた」とありますが、ナザレの人たちだけでなく、すべてのイスラエルの人々にとって、主イエスのこの説教は大きな驚きでした。いまだかつて、だれもこのように説教した人はいませんでした。たとえば、旧約聖書時代の預言者たちは、まだ見ぬ未来の出来事を、だれにも知られない神の永遠のご計画を、あらかじめ神から示され、「このように語れ」と命じられて、やがて起こるべき神の救いの出来事について預言しました。そして、そののちのすべてのイスラエルの説教家たちは、「かつて預言者たちはこう語った。やがてその預言の成就の時が来るであろう。それを信じて待ちなさい」と語りました。彼らすべては約束の時、待望の時に生きていたからです。

 けれども、主イエスの説教はそれらの預言者たちや説教家たちとは根本的に違っていました。主イエスは「この預言のみ言葉は、きょうこの時、あなたがたがわたしの口からきいたこの時に、成就した。すなわち、わたしが父なる神のみ言葉を実現するメシア・キリストとしてあなたがたの前に立ち、罪のゆるしと罪の奴隷からの解放の福音を語る時、そしてあなたがたがその福音を聞き、信じる時、神の恵みがすべてを支配する新しい年、新しい国、神の国が今この時に到来したのだと主イエスは説教されたのです。主イエスは預言の成就の時の初めに立っておられます。というよりも、主イエスが預言を成就されるメシアであり、主イエスご自身が預言の成就そのものであられます。主イエスはすべてのイスラエルの民に、それのみならず全人類に、罪からの解放と、救いの恵みを与え、すべての人を永遠の命に生かすメシア・キリスト・救い主として、この時ナザレの会堂に立っておられ、今わたしたちの会堂に立っておられるのです。

 マタイ福音書とマルコ福音書は主イエスが宣教された福音を「神の国の福音」と表現しています。それに対して、ルカ福音書はイザヤ書61章の預言の成就として、貧しいに人たちや捕らわれている人たちへの解放の福音として、主の恵みの年の告知と表現しています。ルカ福音書の特徴の一つがここにあります。

 もう一つ、ここからわたしたちが学ぶべき重要なことは、礼拝における主イエスのご臨在のリアリティというとです。かつて、ナザレの会堂で主イエスが聖書を朗読された時、その時そこで旧約聖書の預言が成就したと同様に、今日、わたしたちの教会の礼拝で、主イエスの福音が語られ、聞かれた時、今この時に、ここに十字架につけられた主イエスがご臨在しておられ、主イエスの救いの出来事が今この時に、わたしたしたち一人一人に、このわたしに、現実的なリアリティをもって迫ってくる、わたしの出来事となって、わたしの救いの確かさとなり、わたしの新しい力と命となる、そのような主イエスの現臨と救いのリアリティがわたしたちの礼拝にも与えられるようにと切に願います。

 22節に書かれているナザレの人たちの反応は、彼等の信仰と不信仰との両方を語っているように思われます。一方では、主イエスの恵み深い言葉に驚いていながら、他方では主イエスにつまずいています。彼等は確かにイザヤの預言を信じていました。そして、その預言が今成就した、新しいメシアの時代が来たと感じました。その信仰は全く正しいと言えます。

 けれども、彼等はその新しいメシアの時代を来たらせる救い主が自分たちと同じ故郷に住む同じ人間であるということにつまずきました。彼等はもっと偉大な指導者を期待していたのかもしれません。もっと力と威厳に満ちた英雄を期待していたのかもしれません。彼等は、主イエスの低さ、貧しさにつまずきました。それは結局は、神が人となられたことのつまずきであり、神がご自身をいやしくされ、人のお姿でこの世においでくださったことのつまずきであり、神のみ子がヨセフとマリアの子としてお生まれになられたことのつまずきであったと言うべきでしょう。そして、それは結局は、神のみ子の十字架の死のつまずきなのです。それゆえに、彼等は主イエスから差し出された救いの恵みを受け取ることができませんでした。

 主イエスは彼等の不信仰をすぐに見抜かれ、23、24節でこのように言われました。【23~24節】。ナザレの人たちは自分たちが子どものころからよく知っている主イエスが本当にメシア・救い主として神の恵みのみ言葉を語る資格があるのならば、そのしるしとなるものを見せてほしいと願いました。しかし、しるしを見て信じる信仰は本当の信仰ではありません。主イエスはすでに荒れ野での誘惑で、「あなたが神の子ならば、そのしるしを見せてほしい」と求めた悪魔の要求を退けられました(4章3節以下参照)。また、主イエスは十字架上で、「お前が神からのメシアならば、自分を救ってみろ。そしたら信じよう」という人々の要求を退けられました。しるしを求めることは人間の不信仰であり、主イエスの福音を否定することです。ヨハネ福音書20章29節で、主イエスは疑う弟子のトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と。わたしたちは見ないで信じる幸いへと導かれているのです。

 主イエスはご自身が神のみ子であることを証しされるために奇跡やしるしを一切用いませんでした。むしろ、主イエスは神のみ子としての権威も栄光も、すべてをお捨てになり、貧しい僕(しもべ)のお姿でこの世においでになられ、人々のあざけりと侮辱の中を、ご受難と十字架の死へと進まれました。主イエスは旧約聖書の預言者たちが多くそうであったように、故郷のナザレの人々からは、あるいはまた同民族のユダヤ人からは歓迎されず、むしろ迫害を受けられました。

 そこで、主イエスは25節から古い時代の預言者エリヤとエリシャの実例を挙げ、ナザレの人々の不信仰を明らかにするとともに、神のみ心が何であるのかを語っておられます。二つのポイントがあります。一つは、しるしを求めるのではなく、見ないで信じる信仰についての実例。二つには、預言者は故郷では歓迎されないということわざの本来の意味について。この二つのポイントを考えながらみていきましょう。

 エリヤはイスラエル初期の預言者で、紀元前9世紀の中頃に活動しました。エリヤとサレプタのやもめのことは列王記上17章に書かれています。イスラエル北王国の王アハブは偶像の神バアルの祭壇を造ったために、神は預言者エリヤの口を通してイスラエルに裁きを語られました。神は3年6カ月にわたって天を閉じ、雨を降らせず、地に干ばつと飢饉を起こすと言われました。その飢饉の中で、エリヤは地中海の北にあるイスラエルの隣国フェニキアの町シドンのサレプタに住む一人のやもめの所に遣わされました。エリヤは彼女に「わたしのためにパンを焼いて持ってきてくれ」と頼みます。彼女は答えました。「これがわたしと一人息子の最後の食べ物です。もしこれを食べてしまえば、わたしたちは死を待つだけです」。しかし、エリヤは答えます。「イスラエルの神、主はこう言われる。主が地に雨を降らせるまで、壷の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」。彼女はその言葉を信じて、最後のパンをエリヤのために焼いたが、その後も彼女の家では幾日も食べ物に事欠かなかったという出来事です。この物語はユダヤ人であればだれもがよく知る有名な話であったので、主イエスはここでは詳しくは語る必要がなかったと思われます。

 もう一つのナアマンの物語もよく知られた話でした。これは列王記下5章に書かれている紀元前9世紀後半の出来事です。アラムの国の軍司令官ナアマンは重い皮膚病で苦しんでいる時、かつてイスラエルの捕虜として連れ帰った一人の少女から「イスラエルの預言者の所へ行けば、重い皮膚病をいやしてもらえるでしょう」と聞き、彼はその言葉を信じてイスラエルまで旅をし、預言者エリシャと出会います。エリシャはナアマンに「ヨルダン川の水で七たび身を洗いなさい」と命じます。ナアマンはその言葉を信じてヨルダン川に入ると、彼の体が清められたという出来事です。

 旧約聖書に書かれているこの二つの出来事は、信仰とは何か、また神のみ心はどこにあるのかを語る非常に重要なメッセージをわたしたちに告げています。すでに指摘したように、一つは、見ないで信じる信仰です。サレプタのやもめは、イスラエルから見れば異邦人ですが、彼女は自分と一人息子の命をつなぐ最後のパンを、預言者エリヤの言葉を信じ、イスラエルの主なる神を信じて、エリヤに提供しました。ナアマンも異邦人の軍人ですが、妻の召使であったイスラエルの少女の小さな提案を聞き、それを信じて、敵国であるイスラエルを訪ねました。彼はまた預言者エリシャの言葉を信じて、ヨルダン川に入りました。共に異邦人であり、イスラエルの信仰からは遠いと考えられていたサレプタのやもめとアラムのナアマンが、預言者の前で謙遜になり、預言者が語る神のみ言葉に従順に聞き従い、それによって神からの救いの恵みを受け取ることがゆるされたのです。そのことは、ナザレの人々の不信仰とかたくなで不従順な姿をより浮かび上がらせます。

 もう一つのこと、預言者は故郷では尊敬されないということわざについては、主イエスは別の視点から見ておられるように思われます。神はあらかじめそのことをよくご存じであられるので、預言者エリヤもエリシャも、最初からイスラエルの民のもとにではなく、異邦人のもとへと遣わされたのだということを旧約聖書は語っているということです。イスラエル全土に大飢饉が起こった時、神は預言者エリヤをイスラエルの家にではなく異邦人であるサレプタのやもめの所に遣わし、そこでご自身が恵み深い神であることを、貧しいやもめを養われる神であることをあらわされました。また、神はイスラエルの国の中で重い皮膚病で苦しむ多くの人の所に預言者エリシャを派遣したのではなく、異邦人の軍人ナアマンのもとへと遣わし、彼に対してご自身の偉大なみ力と恵みとをお示しになりました。神の救いの恵みは不信仰なイスラエルを通り抜けて、異邦人にまで及びました。

 主イエスの救いの恵みもそのようにして異邦人と全世界へと広げられていきました。神に選ばれた民であるイスラエルの不信仰とつまずきが、多くの民の救いとなったのです。神はそのようにして人間たちの不信仰をもお用いになって、救いのご計画を進めてくださいます。わたしたちもまたそのことを信じるようにと招かれています。

 (執り成しの祈り)

○主なる神よ、わたしたちの不信仰とかたくなな心とを、あなたの大きな恵みに

よって打ち砕き、わたしたちをみ前にあって従順な者としてください。

○神よ、どうぞこの世界を憐れんでください。あなたを離れて、滅びへと向かう

ことがありませんように。特に、あなたを信じる者たちがあなたのみ怒りと裁

きを恐れ、み前に謙遜な者とされ、あなたの憐れみとゆるしとを熱心に願い求

める者とされますように。

〇主よ、わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す者としてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA