8月9日説教「祈りつつ、待ちつつ」

2020年8月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:ハバクク書2章1~4節

    使徒言行録1章12~14節

説教題:「祈りつつ、待ちつつ」

 使徒言行録はルカ福音書の続編として、同じ著者ルカによって書かれました。主イエス・キリストの福音とその救いのみわざは、主イエスの十字架の死と復活、そして昇天の後に、主イエスを信じる弟子たちによってさらに継続され、全世界へと広げられていきました。主イエスの救いのみわざは主イエスの死によって終わったのではなく、むしろ完成され、拡大されていくのです。

 主イエスが天に昇られ、父なる神のもとへとお帰りになる直前に、弟子たちは二つの命令と約束を主イエスから受け取りました。一つは、使徒言行録1章4~5節です。【4~5節】。もう一つは、【8節】。これは、主イエスの命令であり、また約束です。それはまた、主イエスから弟子たちに与えられた恵みでもあり、また課題でもあります。

 「エルサレムを離れるな。父の約束を待て」、これは命令です。「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」、これは約束です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」、これは恵みです。「あなたがたは地の果てに至るまで、わたしの証人となる」、これは課題です。主イエスの命令、約束、恵み、そして課題はいつの場合でも固く結びついています。

弟子たちの場合にそうであったように、わたしたち信仰者の信仰生活にあっても、主イエスから与えられた命令と約束、また主イエスから与えられた恵みと課題は常に固く結びついています。主イエスがわたしたちに何かをお命じになる時、そこには豊かな実りの約束を伴っています。わたしたちが主イエスから与えられた大きな救いの恵みを受け取る時、その恵みはわたしたちを新しい課題と使命に生きる者とします。使徒言行録は弟子たちがどのようにして主イエスから与えられた命令と約束、恵みと課題に生きたのかを、これから描いていきます。

 【12節】。「オリーブ畑」と呼ばれる山から戻って来たと書かれています。ここから、前の場面で、主イエスが天に昇られた場所がオリーブの山であったことが分かります。オリーブ山はエルサレムの郊外の東側に広がる丘陵地帯であり、「安息日にも歩くことが許される距離」、すなわち2千キュビト、およそ800メートル余り離れていると説明されています。聖書ではこのオリーブ山は特別な意味を持っています。主イエスが汗を血のように滴らせながら徹夜の祈りをされたのはオリーブ山の一角、ゲツセマネ、すなわち油絞りの園でした。そこで、主イエスはユダヤ人指導者たちによって逮捕されました。主イエスが天に昇られた場所もそこであり、弟子たちが主イエスの命令と約束を聞いたのもオリーブ山でした。

 実は、オリーブ山は旧約聖書でメシア・救い主が現れる場所であると預言されていました。【マラキ書14章1~2節a、4節、8~9節】(1493ページ)。のちの教会は、このマラキ書のみ言葉は終末の時に主イエスが再臨される預言と理解されました。オリーブ山は主イエスの苦しみの祈りの場所であり、主イエスが罪と死に勝利されて天の父なる神のみもとへと凱旋帰国された場所であり、そして、使徒言行録1章11節に預言されているように、主イエスの救いの完成である再臨が起こる場所なのです。神はそのようにして、旧約聖書に預言されているすべての救いのみわざを主イエスによって成し遂げてくださいます。オリーブ山で起こった二つのこと、すなわち主イエスの苦しみの祈りと昇天は、すでに実現しました。三つ目のこと、すなわち主イエスの再臨も確かにそれに続きます。教会の民はそのことを信じて、主イエス・キリストの再臨の時を、神の国の完成の時を待ち望むのです。

 次に【13節】。エルサレムで弟子たちが泊まっていた家がだれの家であるのかは書かれていません。一般に二階座敷と言われるこの部屋は、多くの研究家が推測するように、主イエスと弟子たちの最後の晩餐の部屋であったと思われます。また、2章1節以下に書かれている、ペンテコステの日に聖霊が満ちた家もここであったと考えられます。おそらく、エルサレムに誕生した最初の教会はこの二階座敷で礼拝していたと推測する人もいます。この家に集まった弟子たちや主イエスを慕う人たちは、一つの固い交わりで結ばれていたことが何度も強調されています。14節では「心を合わせて」、15節でも「一つになって」、2章1節では「一同が一つになって集まっていると」と書かれています。彼等を一つに固く結びつけているものは何でしょうか。今はまだそのことは明らかになってはいませんが、聖霊です。聖霊なる神が、主イエスの十字架の死後に散らされていた弟子たちや信仰者たちを再び集め、信仰者の群れとし、一つの教会の民とするのです。2章に入ってから、そのことが明らかにされます。

 ここに、11人の弟子たちの名前が挙げられています。もちろん、ここには主イエスを裏切り自ら命を絶ったイスカリオテのユダの名はありませんが、ここに改めて11人の名が挙げられていることには意図があるように思われます。ここから、新たな弟子たちの歩み、働きが始まるからです。彼等は主イエスの地上の歩みに伴って、神の国の福音宣教に主イエスと共にお仕えしましたが、今や彼らは天におられる主イエスから派遣されて、聖霊のみ力に励まされ、主イエスの十字架の福音を全世界へと宣べ伝えるという、新しい使命に生きる者とされるのです。

 ここに書かれている弟子の名前は、ルカ福音書6章14節以下と同じですが、順序が少し違っています。その理由は、初代教会で指導的な働きをし、重んじられていたその度合いに応じて順序が変わったのであろうと推測されています。たとえば、ペトロに続いてヨハネの名が挙げられていますが、3章1節でヨハネがペトロと一緒に行動し、宣教活動をしていたことと関係していると思われます。

 いずれにしても、彼等はやがて誕生するエルサレムの初代教会を代表する働き人たち、宣教者たちとして仕えました。特に、ペトロは主イエスと共にいた時にも12弟子のリーダー的存在でしたが、初代教会においてもその指導者となりました。主イエスの十字架の時に、3度も「わたしはイエスを知らない」と言って十字架につけられる主イエスを見捨てて逃げ去ったペトロではありましたが、その失敗とつまずきにもかかわらず、主イエスによってゆるされ、再び立ち上がり、主イエスを最も愛する弟子として、主イエスのために自らの持てるすべてをささげてお仕えする僕(しもべ)へと変えられたのです。

 【14節】。ここでは婦人たちに言及されています。使徒言行録と同じ著者になるルカ福音書で指摘しましたように、ルカ福音書は「女性の書」と言われたりするほど、婦人の活動が他の福音書よりも多く描かれており、使徒言行録でも婦人たちの働きが重んじられています。ここでは主イエスの母マリア以外の名前は書かれていませんが、ルカ福音書24章10節にその幾人かの名前が挙げられています。【24章10節】(160ページ)。この婦人たちは主イエスがガリラヤ地方で福音宣教を始められた時から主イエスと一緒に行動してきた人たちでした。彼女たちは23章49節では主イエスの十字架の証人となりました。【23章49節】(159ページ)。彼女たちはまた23章55節では主イエスの葬りの証人となりました。【23章55~56節】。さらには、先ほど読んだ24章10節では主イエスの復活の証人となりました。そして、使徒言行録1章14節では、弟子たちと共に祈りつつ、神の約束と主イエスの命令を聞きつつ、聖霊の降臨を待ち望む人たちとなっており、やがて彼女たちは初代教会・エルサレム教会の重要な働き人となっていくのです。女性の社会的な地位が余り認められていなかったこの時代にあって、聖書の婦人たちは主イエスのご生涯の重要な場面で、主イエスの証人とされているのです。彼女たちは主イエスの福音に生かされ、また主イエスの福音のために生きる人たちとされているのです。。

 ここには特に、主イエスの母マリアとイエスの兄弟たちも一緒であったと書かれています。父ヨセフはここでは言及されていませんから、おそらくすでに亡くなっていたと推測されます。主イエスには何人かの男兄弟と女兄弟がいたとマタイ福音書13章56、57節に書かれています。母マリアを始め、主イエスの兄弟たちは、主イエスの十字架の前までは主イエスがメシア・キリストであると信じませんでしたが、十字架の死と復活のあとで、彼等が肉にある関係から解放された時、はじめて主イエスを救い主と信じる群に加わることができました。主イエスの十字架の死は彼ら家族にとってはどれほどか衝撃的であったことでしょう。母にとっては長男であり兄弟にとっては兄である主イエスの死に直面した彼らは、しかし、その屈辱的で痛ましい家族の死という事実を超えて、主イエスの死はまさに彼ら一人一人の救いのための死であったことを、新しい神の家族とされているということを、彼等は知らされ、信じたのです。

 11人の弟子たち、婦人たち、主イエスの家族たち、彼等は共に集まり、心を合わせ、ひたすら祈りをしていました。祈りつつ、神の約束の成就の時、主イエスのから与えられる恵みを受け取る時、聖霊が注がれる時を待っていました。ルカ福音書はまた「祈りの書」とも言われるほどに、主イエスの祈りのお姿を何度も描いています。使徒言行録では弟子たちと教会の祈りが強調されています。エルサレムに誕生した初代教会もまた祈る群れとして出発しました。

 1872年(明治5年)3月に、日本最初のプロテスタント教会として誕生したわたしたちの教会、横浜公会・日本キリスト教会(現在の横浜海岸教会ですが)も外国人宣教師たちが主催した新年の初週祈祷会から始まったということを、わたしたちは知っています。

 祈りは、神の約束のみ言葉を忍耐強く、またねばり強く待ち望む力を信仰者に与えます。祈りは、主イエスの命令に従順に聞き従い、主イエスから差し出されている救いの恵みと豊かな実りを受け取る希望と喜びを信仰者に与えます。祈りはまた、熱心に主イエスと教会とに仕え、主の福音を宣べ伝えるわたしたちの務めと決意とをより固くします。祈りは、そのようにして、あらゆる苦難や試練の中にあっても希望を失わず前進していく道をわたしたちの前に開きます。祈りは、困難な現実を打ち破り、現実を超えた希望ある未来へとわたしたちを導きます。祈りは、終わりの日のみ国の完成と主イエス・キリストの再臨の時へとわたしたちを導きます。それゆえに、わたしたちは祈りつつ、待ちつつ、そして急ぎつつ、主イエスの再臨の時まで、信仰の馳せ場を走り続けることができるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちの祈りを強めてください。わたしたちの祈りを弱める困

難な現実が目の前に迫っています。けれども、わたしたちのすべての祈りをお

聞きあげくださる全能の父なるあなたを信じて、祈り続ける者としてくださ

い。

○神よ、どうぞこの世界を憐れんでください。あなたを離れて、滅びへと向かう

ことがありませんように。特に、あなたを信じる者たちがあなたのみ怒りと裁

きを恐れ、み前に謙遜な者とされ、あなたの憐れみとゆるしとを熱心に願い求

める者とされますように。

〇主よ、わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す者としてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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