9月20日説教「神の国の福音を告げ知らせる主イエス」

2020年9月20日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章3~11節

    ルカによる福音書4章38~44節

説教題:「神の国の福音を告げ知らせる主イエス」

 主イエスのガリラヤ伝道の拠点は、ガリラヤ湖北西の湖岸の町カファルナウムでした。主イエスは安息日にこの町の会堂で説教され、また悪霊にとりつかれた人から悪霊を追い出し、彼をいやされました。主イエスは安息日の主として、神の権威あるみ言葉を語られ、またそのみ言葉の力で悪霊に勝利されたということがルカ福音書4章31節以下に書かれていました。

 次の38節にはこうに書かれています。【38節】。主イエスは安息日の礼拝を終えて、シモンの家にお入りになりました。シモンとは5章で主イエスの12弟子の一人となるシモン・ペトロのことです。シモンはこの家で奥さんの母と同居していたようです。のちにはこの家が主イエス一行のガリラヤ伝道期間の宿となったのではないかと推測されています。奥さんの母は高熱が長く続く病気で苦しんでいました。たぶんマラリアのような病気だったと思われます。主イエスはこの家でしゅうとめの病気をいやされ、またその日の夕方からは多くの病気の人をいやされたということがここには書かれています。

 ここでまず初めに注目したいことは、主イエスは安息日の礼拝で神の権威あるみ言葉を説教され、またその力あるみ言葉によって悪霊に勝利されましたが、礼拝が終わって会堂を出てからも、シモンの家でもまた安息日の主として働かれたということです。礼拝が終われば、主イエスのお働きが終わり、どこかでくつろがれるというのではありませんでした。主イエスは安息日の会堂でも、礼拝が終わってからの家々でも、安息日の主として、メシア・キリスト・救い主として、神の救いのみわざをなし続けられます。それだけではありません。40節に「日が暮れると」とありますが、安息日の日没から次の日が始まります。新しい一日が始まります。安息日の翌日にも、主イエスはなおもお働きになります。その日にも、またその次の日にも、いつでも、毎日、主イエスはわたしたちの主として、救い主として、家々で、町々で、至る所で、すべての人の救い主として、神の救いのみわざをなし続けられるのです。主イエスは主の日の礼拝で主であるのみならず、礼拝堂を出てからのすべての時にも、家でも、職場でも、すべての場所でも、わたしたちの主であり続けられるのです。

 主イエスはシモンの家に入られました。彼のしゅうとめが高い熱で苦しんでいたと書かれていますが、苦しんでいたのは彼女だけではなく、おそらくシモンも彼の妻も苦しんでいたのだと思います。家族のだれかが重い病気になることはその家族全体にとって大きな痛みです。そのような家庭の中に主イエスが入って来られました。主イエスがその家庭の主となられます。その時、わたしたちは家族の重荷や痛みのすべてを主イエスに委ねることだできます。もし、自分の力で、家族だけの力でその重荷や痛みに耐えねばならないのだとしたら、時としてわたしたちは疲れ、絶望してしまうほかにないでしょう。けれども、わたしたちはそれを主イエスにお委ねすることができます。主イエスがわたしたちに代わってその重荷を負われ、その痛みを引き受けてくださいます。

 「人々は彼女のことをイエスに頼んだ」とあります。それまでおそらく医者や祈祷師などに頼って病気のいやしを願ったことでしょう。しかし、その願いは果たされませんでした。ところが、今や彼らの願いを聞き入れてくださる救い主がこの家に入って来られました。【39節】。主イエスは病める人の枕もとに立たれます。その病をいやす救い主として。主イエスはすべての病める人の枕もとにも立っておられます。その人の救い主として。

 ここでも、主イエスがお語りになるみ言葉の権威と力が強調されています。悪霊を追い出し支配された主イエスは、すべての病をも支配され、その病から解放されます。わたしたちはこのような主イエスのみ言葉を信じて、自分のすべての重荷やわずらい、病や苦しみを主イエスにお委ねすることができるのです。

 「彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした」。彼女がいやされたのは、いやされた健康な体で彼女自身が楽しむためではありませんでした。主イエスにお仕えし、すべての人に仕えるためでした。このことをわたしたちは見逃してはなりません。わたしたちが主イエスと出会い、主イエスの福音を聞いて救われ、あるいは病がいやされるのも、同じ目的を目指しています。また、同じ目的を目指して生きることこそが、本当の意味で救われ、いやされたことになるのです。「一同をもてなした」と書かれています。もしかしたらここには、のちになって主イエスと12人の弟子たちがガリラヤ伝道の期間中にシモンの家としゅうとめが主イエスの一行をもてなすようになったことをあらかじめ予想しているのかもしれません。

 40節からは安息日の翌日のことが書かれています。安息日には歩く距離が制限され、また病人を運ぶことは安息日に禁じられている労働と見なされていましたので、夕方、日没になって安息日が終わってから、いろんな病気に苦しむ多くの人たちが主イエスのもとに、家族や友人に連れられてやって来ました。主イエスはその一人一人に手を置かれ、いやされました。安息日の救い主・主イエスは他のすべての日々にもすべての人にとっての、すべての病める人にとっての救い主であられます。主イエスはいつでも、どこでも、だれでも、病める人、いやされなければならない人、救いを必要としている人がいる所では、昼も夜も、休みなく働かれます。

 【41節】。33節以下で悪霊に取りつかれた人の場合にもそうであったように、悪霊は人間以上の能力を持っていて、主イエスがメシア・キリスト・救い主であることを、この時点ですでに見抜いていました。「主イエスが神のみ子であり、メシア・キリストである」という信仰告白こそがわたしたちの信仰告白の中心であることは言うまでもないことですが、そのことをユダヤ人のだれ一人としてまだ悟っておらず、信じていなかったこの初期のころに、悪霊がすでに知っていたということは、驚くべきことでありまた注目すべきことです。けれども、悪霊は主イエスが自分たちを滅ぼすほどの権威と力とを持っていることを知って恐れているだけです。それは本当の信仰告白ではありません。主イエスは悪霊の真実の信仰を伴わない偽りの信仰告白をおゆるしにはなりませんでした。主イエスは悪霊を支配しておられます。

 次の42節以下は、わたしたちがきょう学んできた38節以下と密接に関連しています。【42節】。主イエスはおそらく一晩中、多くの病気の人たちをいやされ、朝になって「人里離れた所へ行かれた」とあります。人里離れた所とは、荒れ野、砂漠地帯を意味しています。何のためでしょうか。疲れた体を休めるためでしょうか。並行個所のマルコ福音書1章35節には、はっきりと祈るためであったと書かれています。ルカ福音書でもこのあとに、主イエスが人々から離れて山に登られ、一人で祈られるお姿をしばしば見ることができます。主イエスは多くの悩める人たちのために寝る間も惜しんでお働きになりますが、主イエスにとってそれ以上に大切な時間は、お一人で父なる神と対面し、祈ることでした。主イエスは父なる神のみ心なしには、何をもなさいません。父なる神からいただくみ言葉の権威と力によって、また聖霊によって、主イエスはすべての救いのみわざをなさいます。それゆえに、父なる神への祈りこそが主イエスのお働きの源なのです。

 ここにはもう一つの意図があったように思われます。それは人々から一時遠ざかるということです。人々は病気の人たちのいやしを求めて主イエスのもとへとやって来ます。主イエスはその人たちをおいやしになります。けれども、主イエスはその人たちを避けて、その人たちから遠ざかろうとしておられるのです。人々は主イエスを自分たちのそばに引き留めようとしていますが、主イエスは43節でこのようにお答えになりました。【43~44節】。

ここで二つのことが明らかになります。一つには、人々は主イエスのお働き、救いのみわざを誤解する恐れがあったということです。彼らは病気に苦しむ人を連れてきて、主イエスにいやしてもらうことを願っていました。自分たちの願いをかなえてもらうことが彼らの主たる目的でした。もちろん、主イエスは救い主として人々を苦しめていたすべての悪しき霊と病に勝利されます。人々をそれらの支配から解放されます。イザヤ書61章で預言されていたように、「貧しい人が福音を聞かされ、捕らわれている人が解放され、圧迫されている人が自由を与えられる」(4章18節以下参照)ために、主イエスは父なる神から派遣されたのです。しかし、病気のいやしを求めてくる人たちは、主イエスがメシア・キリスト・救い主であるということを十分に信じないまま、ただいやしの奇跡だけを求めてやって来ます。それを見た人たちも、主イエスのいやしの奇跡だけを期待するようになっていきます。主イエスは人々のこのような誤解を解かなければなりません。そのために、主イエスはひとたび人々から遠ざかり、主なる神のもとへと逃れます。父なる神のみ心が何であるのかをはっきりと確かめるためです。

それとともに、主イエスは43節でご自身の主たる目的をはっきりとお語りになりました。それは、神の国の福音を多くの町々村々で告げ知らせることです。このために主イエスはこの世へと派遣されたのです。主イエスのすべての説教、いやしの奇跡、あるいは他の様々な奇跡も、神の国の福音を全世界に宣べ伝えるためなのです。そのために、主イエスは十字架への道を進み行かれました。主イエスの神の国の福音宣教の使命、務めは十字架によってその最終目的に達し、成就するのです。

わたしたちはここで、福音書を読むにあたっての、最も基本的で重要な姿勢を確認しておかなければなりません。それは、福音書に書かれているすべてのことは、福音書だけでなく他の聖書もそうなのですが、主イエスの十字架の光の下で読まなければならないということです。特に、病気のいやしや他の奇跡のみわざは十字架の光なしには正しく理解されません。多くの人は奇跡だけに目を奪われて、十字架を見ようとはしません。奇跡は神の国の福音の目に見えるしるしです。重要なのはしるしではなく、神の国の福音、十字架の福音そのものです。

主イエスは十字架の死によって、すべての悪しき霊や悪や罪を打ち破り、それらに勝利され、神の新しいご支配である神の国を開始されました。そして、信じる人たちの罪をゆるし、神の国の民の一員としてお招きくださるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちをすべての悪と罪から解放してくださり、主キリストに

ある自由へとお招きください。そして、喜んで神と隣人のために仕える人にしてください。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA