11月15日説教「清くなれと命じられた主イエス」

2020年11月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:レビ記14章1~9節

    ルカによる福音書5章12~16節

説教題:「清くなれと命じられた主イエス」

 1996年(平成8年)4月に「らい予防法」が廃止されました。この法律は1953年(昭和28年)8月に公布され、ハンセン病患者を社会から隔離して伝染を防ぎ、治療するという主旨で制定されましたが、その後特効薬プロミンが発見され、ハンセン病は不治の病ではなくなり、伝染力も極めて低いということが分かり、この法律の主旨そのものが意味を失ったのですが、それでもなお日本政府はその後も数十年にわたって、この法律によってハンセン病患者を社会から隔離し、またこの病気に対する社会的偏見を助長させてきたとして、元患者たちが国を相手に損害賠償訴訟を起こし、政府はこの法律による国の政策が間違っていたことを正式に認めて元患者たちに謝罪をしたというニュースをわたしたちは記憶しています。

 そのような事情から、今日、いわゆる「らい病」という言葉は社会的偏見と差別を生み出してきたという反省から、キリスト教会でも、旧約聖書と新約聖書の翻訳では、いわゆる「らい病」という言葉は「重い皮膚病」に読み替えられました。しかし、単に言葉を読みかえれば、それで彼ら元患者たちの苦痛がなくなるわけではなく、失われた人権が回復されるのでもありませんが、わたしたちはこれを契機にして、ハンセン病に対して正しい認識を持つとともに、かつて教会もまた国や社会と一体となって偏見や差別に加担していたという歴史を反省しなければなりません。

 わたくしは沖縄伝道所牧師であったころに、沖縄中部の屋我地という島にある「沖縄愛楽園」という施設を何度か訪問した経験がありますが、そこを訪れるたびごとに、ハンセン病患者たちが長い間にわたって受けてきた偏見や差別、人権侵害がいかに大きな苦痛を彼らに与えてきたかを教えられ、また自らの中にもある偏見や差別に気づかされました。わたしたちはきょう与えられたルカ福音書5章12節以下のみ言葉から、主イエスの福音の光の中でこの問題を捕え、ハンセン病に対する正しい理解を深めるとともに、主イエスの救いの豊かさをここから読み取っていきたいと思います。

【12節】。聖書で重い皮膚病と訳されている言葉は(ギリシャ語ではレプラ)は今日のハンセン病だけでなく、もっと広い範囲の皮膚病全般を指していたのではないかと考えられています。この病気は治療法がなく、またよく効く薬もなく、患部が全身に広がっていくのを待つほかになく、難病として非常に恐れられていました。特に、イスラエルではこの病気には宗教的な意味がありました。レビ記13、14章に重い皮膚病に関する細かな規定が記されています。それによれば、その皮膚病が単なる腫物なのか、やけどの傷跡か、それとも重い皮膚病かを判断するのは祭司の務めであり、祭司によって重い皮膚病と判断されれば、その人は宗教的に汚れた人とされ、町の外で、住民から離れて住まなければならないと定められていました。もちろん、神殿や会堂で神を礼拝する群れからも遠ざけられました。もし、健康な人がその人の体に触れれば、その人もまた一定期間宗教的に汚れた状態になるので、だれかが間違って触らないように、重い皮膚病の人は自ら「汚れた者、汚れた者」と叫んで注意を促すことが義務づけられました。重い皮膚病がいやされることは、死んだ人が生き返るよりも困難な奇跡だと考えられていました。

しかし、決して不治の病であるとも考えられてはいませんでした。レビ記14章では、重い皮膚病がいやされ、清められた時のことが定められています。その人は祭司に体を見せ、清められたことが証明されれば、神への感謝のささげものをし、社会復帰することができました。レビ記に書かれている重い皮膚病に関する規定は、その病の人を永久に社会や礼拝共同体から締め出し、社会から隔離することを目指しているのではなく、やがて神の大いなる奇跡によっていやされ、清められ、そして神に感謝のささげものをして、真実の礼拝者となることを最終的には目指していたのだということが分かります。そして、まさに今こそ、主イエスによってその道が開かれ、旧約聖書のみ言葉が成就されることになるのです。

「この人はイエスを見て」と書かれています。全身重い皮膚病にかかったこの人は主イエスを見、主イエスと出会う機会を与えられています。彼は社会生活礼拝共同体から引き離され、人権や宗教の自由も奪われ、大きな苦痛と孤独を味わってきました。でも、たとえそれらすべての権利が奪われているとしても、彼は主イエスのお姿を見、主イエスとの出会いをする権利、そして主イエスのみ前にひれ伏し、いやしを願う権利は、奪われてはいませんでした。彼は自分に残された最後の、わずかな権利、機会を、しかし最も大きな権利、機会を用いたのです。

レビ記の規定によれば、彼は人前に出る際には、「わたしは汚れた者」を叫んで、人が近寄らないようにしなければいけなかったのですが、彼はその規定を守らず、主イエスに近づいています。彼をそうさせたのは何でしょうか。普通の通りすがりの人ならば、彼はそうしたでしょう。けれども、主イエスを見た時に彼はそうしませんでした。おそらく、彼はその時に直感したのでしょう。この方は自分をいやすことができる特別な人であるのだということを。ほかのだれもが彼を避けて、彼に軽蔑の目を向けるしかないのに、主イエスはそうではありませんでした。だから彼は主イエスに対して「わたしから離れてください」とは言わずに、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願ったのです。

「主よ、御心ならば」と彼は言います。「主よ」という呼びかけは、主イエスにわたしのすべてを委ね、主イエスにすべてを期待する呼びかけです。彼は今主イエスだけを見ています。彼の周囲の人々、彼を忌み嫌ったり、彼を多少は憐れに思ったりする人々からは目を離して、また不幸でみじめな自分自身からも目を離して、ただひたすら主イエスだけに目を向けています。ここに彼の信仰が芽生えています。彼がいつどこでどのようにして主イエスを知ったのか、主イエスを救い主と信じたのかについては、何も書かれてはいませんが、彼は重い皮膚病という肉体的にも宗教的にも大きな重荷であり、試練であり、患難であった彼の歩みの中にあっても、主イエスと出会い、主イエスを信じる道が備えられていたのです。信仰の道はすべての人に対してこのようにして開かれているのです。

「主よ、御心ならば」というこの願いには、彼自身の長い間の切なる願いが込められていることは確かですが、しかし彼はその切なる願いを主イエスに押しつけるのでななく、主イエスのみ心が行われることだけを願っています。「主よ、御心ならば」、これが信仰者の祈りの原則、基本です。主イエスは受難週木曜日夜のオリーブ山での祈りでこのように祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままにしてください」(ルカ福音書22章42節)。わたしたちもまた主イエスによって教えられた『主の祈り』で「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。自分の願望や計画の実現を願い求めることが信仰者の祈りなのではありません。神のみ心が行われること、主イエスの救いのみわざが現わされること、そして主イエスのみ心に徹底して服従していくことがわたしたちの祈りであり、信仰です。このような信仰による祈りが、困難な現実を打ち破って、わたしたちを主イエスへと、主イエスの救いへと近づけるのです。

そのような信仰があるところに、主イエスの奇跡がおこります。【13節】。12節の「御心ならば」と訳されている言葉と13節の「よろしい」と訳されている言葉は、もとのギリシャ語では同じ言葉です。直訳するとこうなります。「あなたの意志であれば」という願いに対して」、「わたしの意志だ」と主イエスは答えておられます。主イエスの意志がなければ、何事も起こりません。主イエスの意志があるところには、奇跡が起こります。主イエスはご自分の意志をお告げになります。「清くなれ」と。すると、彼の全身を覆っていた重い皮膚病は直ちに消え去ってしまいました。

主イエスのみ心、主イエスの意志は、全能の父なる神の意志です。神がかつて天地創造の際に「光あれ」と命じられると光があったように(創世記1章参照)、神のみ言葉は無から有を呼び出だし、死から命を生み出す力と命とに満ちています。主イエスは神のみ言葉が肉体を取ってこの世においでくださった神の言葉そのものです。主イエスは地上で神の意志を行われ、神のみ言葉を成就され、神の救いのみわざをなしたもう神のみ子です。

「イエスが手を差し伸べてその人に触れ」と書かれています。レビ記に規定されていたように、重い皮膚病は宗教的に汚れているとされ、その人に触れたなら、触れた人もまた宗教的汚れを身に負います。そのために、人々は重い皮膚病の人からはできるだけ距離を取ろうとします。決して近づきません。ところが、主イエスはどうでしょうか。主イエスは彼に近づき、しかも手を触れられました。彼の汚れの中へと、彼の痛みと重荷の中へと入って来られたのです。文字通りに、主イエスは汚れている罪びとの汚れをご自身の身に負われるために、この世へ、この罪の世へ、わたしたち罪びとたちのもとにおいでになられたのです。そして、ご自身は罪なき聖なる神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたちの罪の汚れをすべて引き受けられ、十字架で裁かれ、死なれたのです。それは、ご自身が流される清い血によって、わたしたちの汚れを洗い清めるためです。

【14~16節】。レビ記14章に定められているように、いやされた体を祭司に見せて、清められたことを証明してもらい、神に感謝のささげものをしなさいと主イエスはお命じになります。清められた彼の新しい歩みは、神へ感謝をささげる神礼拝と、神から与えられた救いの恵みを証しする証人として生きることです。主イエスが彼のために開いてくださったこの新しい信仰の道へと彼は歩みだしました。

ここに至って、旧約聖書が重い皮膚病に関して定めていたすべての規定が主イエスによってその最終目的へと導かれ、成就されました。重い皮膚病を患っていたこの人が主イエスと出会い、主イエスによって清められ、主イエスによって新しい信仰の歩みへと導かれたことによって、旧約聖書の律法は主イエスの福音によって成就されました。主イエスはこの道を完成されるために、ひたすらに十字架へと進み行かれます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、重い病に苦しむ人たちを顧みてください。彼ら一人一人に救いの道をお示しください。あなたこそがわたしたちの心と体のすべてを治め、支え、導いておられることを信じさせてください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、苦難や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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