12月27日説教「エジプトでのアブラハム」

2020年12月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記12章10~20節

    マタイによる福音書2章13~23節

説教題:「エジプトでのアブラハム」

 アブラハムは神のみ言葉に導かれて、生まれ故郷カルデアのウルを出発し、ユーフラテス川を北上してハランに移り、そこから南下して神が約束された地カナンに移っていきました。カナンに入ってからの彼の足跡は彼が築いた祭壇によってたどることができます。創世記12章7節には、最初の地シケムで、「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」と書かれており、また8節には、ベテルに移ってからは、「そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」とあります。アブラハムは生涯、定住の場所を持たず、地上では旅人、寄留者として歩みました。けれども、何の目的も持たずにさまよう旅人ではなく、気まぐれに旅を楽しむ旅行者でもありませんでした。彼の歩みは祭壇から祭壇へ、礼拝から礼拝への歩みだったのです。彼は信仰の旅人でした。彼は神を礼拝し、神のみ言葉を聞き、神に導かれた旅人でした。

 アブラハムを信仰の父とするわたしたちキリスト者もまた、祭壇から祭壇へ、神礼拝から神礼拝へ、主の日から主の日へと続く歩みを続けます。わたしたちもまた礼拝で語られる神のみ言葉を聞きながら、そのみ言葉に導かれながら、この一年を歩みました。また、来る年もそのようにして歩みます。そして、神の約束の地を目指して、神が終わりの日に完成される神の国を目指して、地上では旅人、寄留者として生きるのです。

 9節に、「アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った」と書かれています。ネゲブは神の約束の地カナンの最南端にあります。その南は砂漠が広がる乾燥地です。アブラハムがなぜネゲブという、住むには適しない乾燥した高地へと移動したのか、その理由は書かれていません。それが神の導きだったのか、あるいはそこに住んでいたカナン人に追われたので、草原地帯の北部から砂漠に近い南部のネゲブへと追われてきたのかもしれません。いずれにしても、アブラハムにとって重要なことは、神の約束の地に留まることでした。神が7節で、「あなたの子孫にこの地を与える」と約束された神のみ言葉に留まり続けることでした。

 ところが、次の10節を読むと、アブラハムは約束の地の南端に当たるネゲブからさらに南下しようとしたことを知らされます。【10節】。これまでは神の導きに従って生きてきたアブラハムでしたが、ここで彼自身が、自分の判断で、新しい道を歩もうとしています。神の約束の地カナンを捨てて、はるかに遠い異国の地エジプトに移ろうとしています。これは、信仰の父アブラハムにとって、神の約束の地に生きるアブラハムにとって、大きな誘惑であり、試練なのではないでしょうか。彼の前に今、パンの問題が、生活の問題が大きく立ちふさがっているのです。彼はそれをどのように解決し、乗り越えていくべきでしょうか。

 わたしたちがこれまで見てきたように、アブラハムの歩みは神のみ言葉に導かれていました。それが今、飢饉という生活の問題のために、彼自身と家族を飢えから救うためという、パンの問題が彼の歩みを変えようとしているのです。このアブラハムの選択は、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのである」という神のみ言葉に背く罪になるのではないか。それとともに、神が約束された地から去ることは、神の約束を捨てることになるのではないか。この選択は信仰の父アブラハムにとっては失敗になるのではないか。

 多くの信仰者はそのような疑問や不安を抱くでしょう。確かに、カナンの地での飢饉はひどかったと強調されていますが、またナイル川流域のエジプトにはたくさんの食糧があるというニュースがアブラハムの耳にも届いていたでしょうし、家族を飢饉から救うためにはこの選択以外には考えられないと言えるでしょう。しかしながら、わたしたちの信仰の父であるアブラハムはここで神の約束のみ言葉を捨てることはしてほしくないと、多くの人は願うに違いありません。でも、アブラハムは失敗します。エジプト行きを決断します。

聖書はアブラハムのエジプト行きの決断を失敗であるとか、神に背く罪であると、あからさまに語ってはいません。それが人間の当然の選択であるかのように、冷静に、淡々と語っています。しかし、そのあとに続く彼の失敗をわたしたちは見逃すことはできません。

【11~13節】。最初の失敗が、すぐに次の失敗を生みます。神のみ言葉から離れ、神の約束の地から離れたアブラハムの心に不安が襲ってきました。彼は自分の妻が美しいことが気がかりです。そのことが自分の命取りになることを恐れています。彼はエジプトで起こることを予想しています。エジプト人は彼の妻の美しさに注目するでしょう。そして、妻を自分のものにしようとし、邪魔になる夫である彼を殺すでしょう。美しいものを手に入れるために、古代から現代に至るまで、人間は多くの血を流してきました。アブラハムはそのことをよく知っています。

そこで、彼は一つの策を考えました。妻の美しさを自分の命と利益のために利用することです。そのためにうそをつくことを考えます。妻を自分の妹だと偽ることです。そうすれば、美しい妹のためにエジプト人から自分も優遇されるに違いないと考えたのです。このアブラハムの考えは賢いように思えました。そのことを提案された妻サライも同意したようです。

そして、エジプトでは事実アブラハムが考えた通りに事が運びました。サライはエジプトの王ファラオの宮廷に召し入れられました。アブラハムは王から厚くもてなされ、多くの財産を手に入れることができました。彼の計画は見事に成功したように見えます。彼自身の目にも、エジプト人の目にも。そしてわたしたちの目にもそのように見えます。アブラハムのエジプト行きは決して失敗などではなく、むしろ成功だったのではないでしょうか。大飢饉から逃れてやってきたこのエジプトで、彼はあり余るほどのパンを手に入れただけでなく、幸いを得て、裕福になり、大成功をおさめたかのように思えます。だれの目にもそのように映ります。人生の成功者アブラハム、知恵あるアブラハム、幸運なアブラハム。彼はもう信仰の父アブラハムと呼ばれなくてもよいほどの多くの恵みを手に入れたのでしょうか。しかし、ここに突然に神がお姿を現されるまでは、だれにもそのように思われました。

【17節】。ここで突然に主なる神の激しい怒りと裁きが下されました。そして、神なしで進められてきたアブラハムの計画が神によって中止させられることになったのです。12章10節以下のエジプトでのアブラハムの生涯の中でただ一度、この17節で「主」という言葉が出てきます。そして、この主なる神が、エジプトでのアブラハムの計画とその成功談に突然に「ストップ」をかけるのです。いや、それだけでなく、アブラハムのエジプト行きとその時に彼が考えた計画のすべてが、実は大きな失敗であったのだということが、ここで明らかにされるのです。

わたしたちはアブラハムのこの失敗からいくつかのことを学ぶことができます。その一つは、彼が飢饉と飢えから逃れるためにエジプト行きを選択したことはやはり大きな失敗だったということです。彼はそこのことを神なしで決断しました。たとえ家族を飢えから救うためだったとしても、だから神のみ言葉に聞き従わなくてもよいということにはなりません。飢えの問題、パンの問題もまた神に聞き従うことで解決すべきであり、また神は解決の道を備えてくださいます。 

 また、アブラハムが神なしで選択した道は、結果的に神の約束の地を失うことにもなりました。それに加え、彼は妻のサライをも失ったのです。彼は自分の命を救うために、妻を犠牲にしました。妻の人格と尊厳性を投げ捨てました。妻との夫婦の関係を破棄しました。それだけではありません。神がアブラハムにお与えくださったもう一つの約束、「あなたの子孫は大きな民となる」という約束は、妻サライなしには果たされません。アブラハムはその約束をも投げ捨てたのです。多くの民の母となるべく神に選ばれていた妻サライをアブラハムはエジプト王に売り渡したのです。それは妻への愛に背く行為であるだけではなく、のち時代のアブラハムを信仰の父と仰ぐすべての信仰者たちに対する背きであり、それ以上に神ご自身に対する背きであり、罪であったのです。

 実に、ここでは神の約束そのものが、神がお立てくださったアブラハム契約そのものが、危機に瀕しているのです。神が永遠の初めから計画しておられた救いのみわざが中断されるという危機にあるのです。神がアブラハムをお選びになり、すべての国民の信仰の父とされたこと、神がアブラハムの子孫を増やし、大きな民とすること、また神がアブラハムの子孫にカナンの地を受け継がせるということ、その神の約束と契約のすべてが、今危機にさらされているのです。それゆえに、ここで神が登場されます。神がアブラハムの失敗の道に終止符を打たれます。それによって、神はご自身の救いのご計画を前進させられます。

 その時、事態が大きく動きました。【18~20節】。ファラオがこのとき神のご計画を理解していたのか、神の裁きを恐れて、信仰的な判断をしてこのような行動をとったのかについては、分かりません。はっきりしていることは、ここでも確かに神が働いておられるということです。神がファラオにこのような行動をとらせておられるということです。そして、神はアブラハムとサライを取り戻されました。彼らを約束の地へと、神の約束の中へと、連れ戻されました。13章1節に書かれているように、二人は約束のカナンへと戻っていきました。

 わたしたちはここでもう一つのことを確認しておきましょう。アブラハムの神、イスラエルの神は、ここエジプトの地でも神であられ、この地にもアブラハムと共におられたということです。アブラハムは神を捨てました。アブラハムは神の約束の地を捨てました。けれども、神はアブラハムを決してお見捨てにはなりませんでした。神がアブラハムとの契約をお忘れにはなりませんでした。アブラハムが失敗とつまずきを繰り返し、神の道からそれていった時にも、それによって神の約束を失い、また共に神の約束を担っていくべき二人が引き裂かれた時にも、神は彼らをお見捨てにはならず、ご自身がお立てくださった契約をお忘れにはなりませんでした。

 信仰の父アブラハムもまた失敗します。つまずきます。神に背くことがあります。けれども、それによって彼がのちの時代のすべて信じる者たちの信仰の父であることをやめるのではありません。なぜなら、神がそのようなアブラハムと共にいてくださり、彼の罪をおゆるしくださるからです。神はアブラハムの失敗の時にも彼と共におられ、彼の罪をゆるされ、彼との約束をお守りになりました。それゆに、アブラハムは確かにわたしたちすべての信仰者たちの信仰の父であり続けるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちのつまずきや不忠実や不信仰をもあなたはおゆるしくださり、この一年の一人一人の歩みをお恵みをもってお導きくださったことを、心から感謝いたします。どうぞ、わたしたちを終わりの日まであなたの契約の民としてお導きくださいますように。わたしたちに真実な悔い改めの心を与え、あなたへの信頼と服従を増し加え、あなたへの信仰を貫いていくことができますように。

〇天の神よ、あなたが天からまことの光を照らし、暗いこの世界と悩める人間の魂とを明るく照らしてください。見捨てられている小さな命を、傷つき病んでいる弱い命を、あなたは決してお見捨てにはなりません。どうか、この国の至る所に、この世界の至る所に、主キリストの福音が届けられますように。すべての人に天からの大きな恵みと祝福とが与えられますように。

み子、主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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