1月17日説教「アブラハムの選択」

2021年1月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記13章1~18節

    ローマの信徒への手紙4章1~12節

説教題:「アブラハムの選択」

 アブラハムは神が約束された地、カナンに到着しましたが、その地を襲った厳しい飢饉のために、エジプトに避難しました。自分と家族の命を養うためとはいえ、彼が神のみ言葉を聞かずに、神が約束されたカナンの地を離れて、エジプト行きを決断したことは、大きな失敗でした。さらに、彼は自分の妻を妹と偽って、妻サライをエジプト王ファラオの宮廷に売り飛ばすという失敗を重ねました。このようにしてアブラハムは神の約束のすべてを失ってしまいました。「この地をあなたの子孫に与える」という約束を、「あなたの子孫を大きな国民とする」という約束をも、そして「あなたはすべての信仰者の父となり、すべての国民の祝福の源となる」という約束をも、彼は投げ捨ててしまったのでした。

もしここで、主なる神が現れなかったならば、いわゆる「アブラハム契約」は効力を失い、彼ののちに続くすべての信仰者たち、今日のわたしたちをも含めてですが、その人たちに約束されていた神の祝福も受け継がれなかったであろうということを考えると、今学んでいる創世記のみ言葉が、また信仰の父アブラハムの生涯とその信仰の歩みが、今のわたしたちと実質的に関連しているということを思わざるを得ません。わたしたちは創世記に描かれているアブラハムの信仰の歩みを、わたし自身の信仰の歩みと重ね合わせながら、きょうの創世記13章のみ言葉を読んでいくことにしましょう。

【1節】。この1節で、アブラハムの信仰の歩みがなおも継続されていくということを、わたしたちは知らされます。アブラハム(この時はまだアブラムという名前でしたが)は、数々の失敗を繰り返しても、なおもアブラハムとして、神の契約を担う信仰の父として、その名が記録されています。それには、神の憐れみとゆるしがありました。というよりは、神の憐れみとゆるしなしには、アブラハムはアブラハムであり続けることはできないし、信仰の父として神の祝福の源となることはできないと言うべきでしょう。アブラハムは失敗します。つまずきます。疑います。迷い、倒れます。けれども、神は彼をお見捨てにはなりません。神は彼の罪をおゆるしになられます。神がなおも彼の信仰の道をお導きになるのです。そのようにして、アブラハムはすべて信じる人たちの信仰の父とされます。そのようにして、すべての信仰者は、わたしたちも含めて、罪の中にあってもなおも信仰の道を、終わりの日の完成を目指して進み行くことが許されるのです。

「妻と共に」とあります。何と幸いなことでしょうか。自分を身の危険から守るために、妻サライの人権とか尊厳性とかを捨て、また神の約束を共に担っていくべき夫婦の関係を捨てて、妻を妹と偽ったアブラハムと、ひとたび夫に裏切られ、異教徒の王に身売りされたかのようにされた妻サライとが、ここで再び神のゆるしのもとで、共に生き、共に神の約束を担って信仰の道を歩み続けることを許されているということは、何と幸いなことでしょうか。

「エジプトを出て」とあります。この言葉も象徴的です。大飢饉のために、パンを求めて行ったエジプト、神の約束のみ言葉を忘れ、大きな失敗を繰り返して罪を犯したエジプト、この世的な誉と富とを得たけれど、神への信仰と正しい人間関係とが壊されていたエジプト、しかしそこから出て、いわゆる出エジプト、再び神の約束の地へと戻る、この出エジプトというテーマは、聖書の中で何度も繰り返されていきます。アブラハム時代から600年ほどあとの紀元前1200年代、モーセの時代の出エジプト、それからさらに800年ほど後の紀元前530年代、バビロン捕囚からの帰還、そしてまたその600年ほどあとの紀元1世紀、主イエスの時代、マタイによる福音書2章14節以下にはこのように書かれています。【14~15節】。(3ページ)。

このような出エジプトのテーマは、神がわたしたち人間の罪をゆるし、わたしたちをすべてのこの世の奴隷状態から解放し、罪と死と滅びの縄目から解き放って、自由と喜びと感謝に満たされた信仰の歩みへと導いてくださる神の救いのみわざを語っているのです。

「ネゲブ地方へ上った」とあります。ネゲブは12章9節でアブラハムが滞在していた神の約束の地カナンの南端の地です。彼は再び神の約束の地へと戻ってきました。いわゆる「アブラハム契約」はなおも継続されていくことになりました。アブラハムがパンを得るために捨てた約束の地を、神は再び彼にお与えくださいました。彼はこれから、再び与えられた約束の地で、神の憐れみ受け、罪ゆるされた信仰者として生きていくのですが、彼はその道を迷わずに進んでいくことができるでしょうか。罪ゆるされている信仰者にふさわしく、信仰の父としての名に恥じないように生きることができるでしょうか。それとも、彼は再び失敗を繰り返すのでしょうか。

それについては、少し気がかりなことがあります。1節の終わりに「ロトも一緒であった」とあります。また、2節には【2節】と書かれています。このことが、この章で展開される新しい事態を引き起こします。先に12章5節に、アブラハムがハランを出て神の約束の地へと旅立った時に甥のロトも連れていたことが書かれていました。アブラハムはこれまでロトと一緒に旅を続けてきました。二人は良き協力者であり、同労者でした。何よりも、同じ信仰の道を歩み、同じ神を礼拝する信仰にある兄弟でした。ところが、その二人の交わりを引き裂く事態が起こったのです。

その原因となったのは、アブラハムが持っていた多くの財産でした。5節では一緒に旅を続けてきたロトにもたくさんの財産があったと書かれています。多くの財産が与えられることは神の祝福だと考えられていました。そのことを神に感謝し、神と隣人のためにそれを用い、ささげるならば、地上の富は神の祝福となり、神の栄光を現すことにもなるでしょう。しかし、多くの場合、人は地上の富に心を奪われ、神から離れていきます。それによって、人間の交わりも壊されていきます。主イエスはマタイ福音書6章24節で、「だれも神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われました。アブラハムとロトにもそのことが当てはまります。地上の財産を多く持つに至った二人の関係はどうなるでしょうか。

アブラハム一族は家畜を連れて牧草地を旅する遊牧民でした。カナンの地では彼はまだその地を所有してはいません。天幕を移動しながら牧草を求めて旅する寄留者です。他にも多くの遊牧民がいます。カナンの原住民もいます。アブラハムもロトもあまりにも多くの財産を持つようになったために、二人は一緒に住むことができなくなりました。6節では2度もそのことが強調されています。【6節】。人間が余りにも多くのものを所有するがゆえに一緒に住むにはこの世界は狭すぎる、この言葉は現代のわたしたちの地球にも当てはまるのでしょうか。人間があまりにも豊かになり、偉大になり、あまりにも多くを所有するようになったがゆえに、人間はこの地球上から神をも追い出すのでしょうか。神が創造されたこの世界に、人間はついには神と共に住むことができなくなり、隣人と共に住むことができなくなってしまうのでしょう。全世界の人間が共に住むには、この地球はあまりにも小さいのでしょうか。主イエスが言われたように、わたしたちはだれも神と富とに兼ね仕えることは決してできないとのだいうことを忘れてはなりません。

7節に書かれているように、アブラハムとロトの家族の間に当然の結果として争いと分断が起こりました。そこで、年上のアブラハムがロトに提案をします。【8~9節】。アブラハムはロトとの争いを避けようとしています。アブラハムはロトよりも年上であり、家の主人ですから、自分に有利な提案をすることもできたし、ロトを追い出すこともできたでしょうし、あるいは力づくでロトをねじ伏せて彼の財産を奪うこともできたかもしれません。けれども、アブラハムは争いではなく和解の道を選びます。自分の権利を主張するのではなく。むしろロトの方に選択権を譲っています。

わたしたちはここで先にアブラハムに対して抱いていた不安が、取り越し苦労であったことを知らされます。エジプトで失敗を重ねたアブラハムでしたが、今回は失敗を繰り返しません。地上の富に心を奪われ、それによって行動することはありません。むしろ、自分の権利を放棄して、富を追い求める道を放棄します。アブラハムは甥のロトの方に選択権を譲りました。今回は、アブラハムは神と富との両方に仕えることはしません。富への道を放棄し、結果的に彼は神への道、信仰への道を選び取ることになりました。わたしたちは何かほっとする思いになり、アブラハムに心の中で拍手を送りたい気持ちになるのは、わたしだけでしょうか。

ロトはカナンの東の方、ヨルダン川流域の低地の豊かに潤っているように見えた地を選びました。その地はソドム、ゴモラの町がある、邪悪と罪とに満ちた地でしたが、ロトにはまだそれは見えてはいませんでした。12節に、「アブラムはカナン地方に住んだ」と書かれています。彼は神の約束の地に留まりました。彼は地上にある豊かさや富を放棄することによって、結果的には本当に選ぶべき道を選んだのでした。そこに、隠れた神のみ心が働いていた、神の導きがあったと聖書ははっきりとは語っていませんが、14節以下を読めばそこのことが確かであることを知らされます。

【14~18節】。アブラハムはこの神の約束のみ言葉を聞くために、豊かに潤ったヨルダンの低地を選んだロトと別れ、この地に留まったのでした。アブラハムは確かに自分の選択権を捨てたことによって、選ぶべき道を選んだのでした。それは、彼自身が選んだというよりは、神がそのように選ばせてくださった、神ご自身の選びであったと言うべきでしょう。

神はアブラハムに「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」と言われます。見渡すという言葉は10節でロトについても用いられていました。ロトはこの世の豊かさや地上の幸いを見ていました。しかし、アブラハムは信仰の目を挙げて、神の約束を見るようにと促されています。彼はまだこの地の一角をも所有してはいません。この地では寄留者であり、旅人です。けれども、彼は神の約束によってすべてを所有しています。「わたしは永久にあなたとあなたの子孫にこの地を与える」。この神の約束によって、彼はすでにこの地を所有しています。「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」。この神の約束によって、彼はすでにのちの時代のすべて信じる人々の信仰の父とされています。

これは、アブラハムの選択というよりは、神の選択、神の選びです。アブラハムがカナンの約束の地を選び取ったのではありません。神がアブラハムをお選びになり、生まれ故郷のカルデヤのウルから彼を呼び出され、約束の地へと導かれたのであり、神がエジプトでのアブラハムの失敗から彼をお選びになり、また今神がロトとの争いの中から彼をお選びになり、約束を更新されたのです。それゆえに、アブラハムはすべて信じる人たちの信仰の父となり、祝福の基となったのです。そして、アブラハムの選びは、主イエス・キリストによってわたしたち一人一人の選びとなったのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、あなたの選びと救いの恵みはとこしえからとこしえまで、決して変わることはありません。あなたは罪と失敗を繰り返すしかない、弱く貧しいわたしたちをも、あなたのみ国の民の一人としてお選びくださいました。どうか、わたしたちを永遠にあなたの契約の民の中に置いてくださいますように。あなたの選びを信じて、生涯あなたの僕(しもべ)として仕えさせてください。

〇世界と日本が今、大きな試練と苦しみの中でもがいています。あなたは天から一人一人の痛みや悲しみ、労苦や戦いを見ておられます。どうか、あなたからの顧みがありますように、あなたのみ心が行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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