2月21日説教「初代教会の信者たちの生活」

20201年2月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記8章1~10節

    使徒言行録2章42から47節

説教題:「初代教会の信者たちの生活」

 使徒言行録2章42~47節には、ペンテコステの日に誕生したエルサレム教会(これを原始教会とか初代教会とも言います)の信者たちの生活についてまとめて報告されています。同じようなまとめがこのあとにも続きます。4章32節以下、ここでもきょうの個所と同様に信者たちの一致が強調されています。次は6章7節、9章31節でも、それまでの初代教会の歩みがまとめられています。使徒言行録の著者であるルカは、本職は医者だったと推測されますが、歴史家の能力をも発揮して、初代教会の歴史を一つの一つの段階を経て進展していく歴史書として記述しています。

ちなみに、日本語の聖書では2章42節と43節の間に段落をもうけていますが、42節から最初のまとめの報告が始まっているという理解が一般的です。42節では初代教会の主な特徴が4つ挙げられていて、43節からはその具体的な内容が書かれていると考えられるからです。前回、そのうちの1番目と4番目について学びましたから、きょうは2番目と3番目、「相互の交わり」と「パンを裂くこと」を中心に学んでいくことにします。

相互の交わりについては44節以下に詳しく書かれていますが、その前に43節を読んでみましょう。【43節】。「恐れ」とは、神に対する恐れのことです。教会は、エルサレム初代教会から今日のすべての教会に至るまで、神への恐れが満ちている場所です。この点において、教会はこの世の他のすべての社会や集団から区別されます。この世では、暴力的な権力者を恐れるとか、集団の損失を恐れたり、あるいは突然の事故や自然災害、また病気を恐れたり、老いや死を恐れるということもあります。けれども、それらの恐れは神を恐れる恐れとは根本的に違います。神を恐れるとは、人間やこの世にあるものすべてをはるかに超えた絶対他者であり、いと高き天にいます全知全能の神を唯一の主と崇め、この神が全地を永遠に支配しておられことを信じ、この神に服従するという信仰から生じる恐れのことです。それゆえに、この神を恐れ、この神に従う人は、他のいかなるものをも恐れる必要はなくなります。教会はこのような神への恐れに満ちている場所であり、それゆえに他のいかなるものをも恐れない信仰者の群れなのです。

この恐れは43節の後半によれば、「使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われた」ことから生じたと書かれています。「不思議な業としるし」とは、神が使徒たちをお用いになってなされた驚くべき奇跡のみわざのことです。使徒言行録にはこのあと、そのような多くの奇跡のみわざが記されています。主イエスの場合がそうであったように、奇跡やしるしは神の国が到来したことの目に見えるしるしです。主イエスがこの世においでになられたことによって、それまで世界を支配していた悪やサタン、罪や悪しき霊がその力を失い、神の恵みのご支配が始まった、神の国が到来したことの目に見える、確かなしるしとして、驚くべき奇跡や不思議なみわざが行われました。それらの不思議と奇跡の中心が神のみ子主イエス・キリストの十字架の死と復活であると言えるでしょう。

次の44節からは、エルサレム教会・初代教会の相互の交わりについて具体的に描かれています。【44~45節】。「一つになって」という言葉は、初代教会の信者たちの一致と団結を言い表す専門用語で、使徒言行録では多く用いられています。1章15節、2章1節にも同じ言葉がありました。信者たちがいつも同じ場所で寝泊まりするという共同生活をしていたのではありませんでしたが、彼らは何かによって固く一つに結び合わされているかのように団結していたことが強調されたいます。その何かとは、言うまでもなく、教会の頭(かしら)である主イエス・キリストによる一致であり、主キリストによって罪ゆるされている救いの恵みによって与えられている一致であり、聖霊なる神によって結ばれた信仰の交わりによる一致です。罪のゆるしがあるところに真の一致があります。と言うのは、罪は神と人間との関係を破壊し、人間と人間との関係をも破壊するからです。主キリストの十字架の福音によって罪ゆるされ、神との交わりを回復され、神の民、神の家族とされるところにこそ、真の一致が与えられるのです。

「すべての物を共有にし」ていたことは、エルサレム教会の信者たちの生活の最も大きな特徴であったと言ってよいでしょう。4章32節でも「すべてを共有していた」と書かれています。これが具体的にどのようなことであったのかについては、理解に多少の違いがあります。これは一般に原始エルサレム教会の共産主義と呼ばれたりしますが、それが個人の財産の所有を全く禁止していたのかどうかが議論されています。45節の表現や5章のアナニアとサフィラ夫妻が土地を売ったがその代金をごまかして一部だけをささげたという記録などから推測すれば、信者たちはそれぞれの財産を所有しながら、必要に応じてそれを売却し、貧しい信者に分配していたと思われるので、厳密な意味で個人の所有を禁じていたのではないように思われます。キリスト教社会経済学者のマックス・ヴーバーはこれを「愛の共産主義」と名づけています。法的な意味での私有財産禁止とか、制度的な共産主義ではなく、神と臨人への愛によって、自由な愛の意志によって自分の財産を差し出し、教会全体のためにささげるということであったのではないかと、ヴーバーは推測しています。

いずれにしても、わたしたちがここから読み取ることができることは、初代教会の信者たちは所有欲から全く解放されていた、地上の財産を所有することを生きる第一の目的としてはいなかったということです。彼らは主イエスが言われたように、天に宝を積むことを第一にしていました。天にある朽ちることのない財産を受け継ぐことを喜びとしていました。それによって彼らは地上の朽ちる命ではなく、天に蓄えられている朽ちない永遠の命を追い求めていたのです。そして、自分の持ち物を惜しみなく教会全体のためにささげていたのです。

もう一つの初代教会の特徴は、パンを裂くことでした。46節にそのことが具体的に記されています。【46節】。パンを裂くとは、主イエスが制定された聖晩餐のことです。主イエスは十字架につけられる前日の木曜日の夕方、弟子たちと一緒に最後の晩餐を囲まれました。その晩餐はユダヤ人の過ぎ越しの祭りの食事であったと共観福音書は記しています。その席で主イエスはパンを裂かれ、弟子たちに渡され、「これは、あなたがたのために与えるわたしの体である。わたしを記念するために、このように行いなさい」と言われ、またぶどう酒の杯を取られ、「この杯はあなたがたのために流すわたしの契約の血である」と言われました。初代教会はこれを聖晩餐として受け継ぎ、そして今日に至るまで2千年間世界の教会は聖餐式として受け継いできました。聖餐式は主イエスの十字架の死によって与えられた救いの恵みを目で見、口で味わい、共に一つの食卓を囲む一つの群れであることを体験することによって救いの恵みをより確かにする聖礼典です。

「家ごとに集まってパンを裂き」とあるように、エルサレム初代教会はまだ共に集まる会堂を持っていませんでしたから、家々に集まり、礼拝をささげ、聖餐式を守っていました。また、「喜びと真心をもって一緒に食事をし」とあるように、初代教会では聖餐と普通の食事(これを愛餐と呼んだりしますが)とを同時に行っていたらしいということが、パウロの書簡などからも推測されています。その後、聖晩餐と愛餐とは次第に分離されるようになり、聖餐式が教会の聖礼典として受け継がれるようになりました。でも、聖餐式が一つの食卓を囲む共同の食事であり、終わりの日の神の国での盛大な祝宴を先取りするものであるということは変わりません。

初代教会の信者たちは聖晩餐と愛餐を喜びと真心とをもって行っていました。彼らを満たしている喜びは、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって救われた喜びであり、また復活された主イエス・キリストが今ここで現臨しておられ、信じる者たちに復活の希望を与えてくださる喜びであり、そして終わりの日に完成される神の国での祝宴を先取りし、それに招かれていることの喜びです。教会はこの喜びに満たされている信仰共同体です。わたしたちの教会の礼拝と聖餐式にも同じ喜びが与えられています。

ここでもう一度、42節のまとめの句を読んでみましょう。【42節】。まず使徒の教えが挙げられています。使徒の教え、すなわち主イエス・キリストの十字架の死と復活の福音の説教が教会の土台だということです。教会の礼拝では主のみ言葉の説教が語られ、そのみ言葉によって罪ゆるされた信仰者たちの愛の交わりがあり、そして聖餐式、共同の祈りもまたみ言葉の説教との密接はつながりの中で、そのみ言葉に導かれながら行われるのです。

特に、み言葉の説教と聖餐式とのつながりをわたしたちプロテスタント教会は重視してきました。と言うのは、かつてローマカトリック教会がこの二つを分離して、聖餐式だけを重んじていたからです。カトリック教会ではミサと言いますが、ミサだけで礼拝全体を指すようになり、み言葉の説教は行われなくなりました。み言葉の説教を取り戻したのが宗教改革です。宗教改革は福音の再発見であったとともに、礼拝の改革でもあったのです。み言葉の説教を耳で聞き、信じ、それに加えて聖餐式が目で見るしるしとして、わたしたちの信仰をより確かにし、強めるのです。み言葉の説教と聖餐式の結びつきが重要です。

最後に【47節】。教会の伝道のわざ、宣教のわざは、本来主なる神ご自身がなしてくださいます。わたしたち教会に連なる信仰者たちは、そのことを信じて主なる神にお仕えするのです。神ご自身が、日々、信じ救われる仲間を増し加えてくださいます。そのことを信じて、わたしたちは礼拝からこの世へと派遣されていくのです。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたが聖霊によってお建てくださったこの教会をどうぞ守り導いてください。この時代の中で、この地域の中で、主イエス・キリストの福音を力強く宣教し、あなたの救いのみわざのためにお仕えしていくことができますように。

〇主なる神よ、日本と世界の教会を顧みてください。新型コロナウイルス感染症の拡大によって、共に集まる礼拝や聖餐や祈りが制限され、その他の教会の活動が制限され、多くの困難に直面しています。どうか世界の教会がこの試練の中で、いよいよ主なるあなたのみ言葉と聖霊のお導きに信頼して、あなたから託されている宣教の務めを果たしていくことができますように、勇気と希望とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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