3月7日説教「安息日の救い主イエス」

2021年3月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記5章12~15節

    ルカによる福音書6章6~11節

説教題:「安息日の救い主イエス」

 ルカによる福音書6章1節から、安息日についての主イエスとファリサイ派の人たちとの二つの論争が続けて書かれています。1~5節の最初の論争は、ファリサイ派からしかけました。彼らは、主イエスの弟子たちが麦畑を通った時、麦の穂を摘み、手でもんで食べたことが、安息日に禁止されている収穫作業、食事の準備作業に当たると言って弟子たちを非難しました。それに対して主イエスは、旧約聖書に書かれているダビデの行動を取り上げて、ダビデよりも偉大な神のみ子・メシア・キリストが安息日の主として、安息日律法のすべてを完全に成就するために今ここに立っていると宣言されました。

 きょうの礼拝で朗読された6節以下の第二の論争は、どちらと言えば主イエスの方から仕掛けているように見えます。主イエスは律法学者やファリサイ派の偽善的な信仰や安息日律法の間違った理解を明らかにするために、あえて彼らが見ている前で、右手がなえている人をおいやしになられました。そしてまたここでも、安息日律法の本来の意味を明らかにされ、主イエスこそがその安息日律法を完全に成就するメシア・キリスト・救い主であることを宣言されたのです。

 【6~8節】。安息日とは、イスラエルの民ユダヤ人にとっては土曜日に当たります。彼らはモーセの十戒の第三戒で命じられている「安息日を覚えて、これを聖とせよ。この日には何の仕事もしてはならない」と言う安息日律法を、自分たちが神に選ばれた神の契約の民であることの最も大切な律法として守り続けていました。神が安息日律法をお命じになった理由の一つが、出エジプト記20章11節によれば、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主が安息日を祝福して聖別された」からでした。そるゆえに、神の民であるイスラエルの人々もまたこの日には仕事を休み、神の天地創造のみわざを覚え、感謝し、その祝福にあずかるために、神を礼拝して過ごすのです。

 申命記5章15節にはもう一つの理由が書かれています。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである」と説明されています。神の民イスラエルは自分たちの救いが主なる神にのみあることを信じて、この神のみ言葉に聞き従い、この神のみ心を行って生きるために、安息日を重んじました。安息日には自分たちの手の働きを全くやめて、神ご自身がお働きくださるために、神が救いのみ業をなしてくださるために、この日にはエルサレムの神殿で、また各地にある会堂で、神を礼拝しました。イスラエルはこの安息日律法を忠実に守ることによって、ダビデ王国が滅び、異教の国々の支配下にあってもなおも、神の民として生き続けることができたのです。

 主イエスと弟子たちも安息日にはガリラヤ地方の会堂で神を礼拝しました。けれども、主イエスはイスラエルの民の一人として安息日律法を守っておられたのではありませんでした。安息日の主として、安息日律法を完全に成就されるメシア・キリスト・救い主として会堂に入って行かれ、そこで神の国の福音を語っておられました。

 他方、当時の宗教の指導者であった律法学者やファリサイ派は信仰をもって真実の神礼拝をするために会堂に来ていたのではありませんでした。彼らは主イエスを安息日律法の違反者として訴えるために、主イエスの行動を監視するために礼拝堂にいたにすぎません。彼らの礼拝姿勢は決して正しいとは言えません。彼らは礼拝者の中に病んでいる人がいることを知っていても、その人のために神の憐れみといやしを祈り求めることはしません。また、自分たちがその人のために何ができるかを考えることもしません。むしろ、その人を自分たちの悪意のために利用しようとしていたのです。彼らには真剣な悔い改めの思いは全くありません。また、神の創造と救いのみわざを感謝し、神を礼拝するという安息日の中心的な意味からもほど遠かったと言うべきでしょう。したがって、彼らは安息日律法を正しく守っていなかったということが明らかです。そのような律法学者やファリサイ派の人たちが主イエスを安息日律法の違反者として裁くことなどできるでしょうか。本当に裁かれなければならないのは、彼らの方ではないでしょうか。彼らの偽善的な信仰がここでもあばかれます。

 律法学者やファリサイ派は、律法を重んじ、安息日を厳格に守っていると自ら誇っていました。彼らは聖書に書かれているみ言葉にさらに自分たちの解釈を付け加えて、安息日の掟をいくつにも細分化し、重くして、それを人々に重荷として課していました。たとえば、安息日には850メートル以上歩けば、それは禁じられている旅行になるとか、命の危険がある緊急の場合は手当てをしてもよいが、そうでない限りは禁じられている治療行為に当たるとか、ハンカチを持って歩くのは荷物を持ち運ぶ労働になるけれど、それを腕に巻き付ければ服装の一部となるから安息日律法の違反にはならないとか、そのような類(たぐい)の議論を果てしなく続けていたのでした。そのような細かな決まりを守ることが信仰だと教えていたのです。

 けれども、それは安息日律法を守るという本来の意図からは離れた偽善的な信仰でしかないことを主イエスは見抜いておられました。そこで主イエスは、彼らに挑戦するかのように、手のなえた人に「立って、真ん中に立ちなさい」と言われました。主イエスは手がなえた人を礼拝堂の中心に立たせます。彼らこそが礼拝の中で最も重んじられ、最も大きな神の恵みを受けるべきであるということを明らかにされたのです。病んでいる人、傷ついている人、罪の中で苦しんでいる人こそが、礼拝の中心に置かれ、神の救いの恵みと憐れみを最も多く受け取ることが許されている、そのような礼拝こそが安息日の礼拝なのです。主なる神はこの安息日に、そのような人たちのためにこそ、ご自身の創造のみわざを、救いのみわざをなしてくださるのです。神のみ子であられ、安息日の主であられる主イエスは、安息日にそのような父なる神のみ心を行われます。

 手がなえた人を礼拝の会衆の真ん中に立たせたということは、会衆みんなに見られるためでもありました。みんなが見ている前で、主イエスは手がなえている人をいやされました。その行為は、律法学者やファリサイ派の考えによれば、命にかかわる緊急な症状ではないので、安息日には禁じられている治療の行為でした。それによって、主イエスが彼らの厳しい批判を受け、もしかしたら安息日律法を意図的に破った罪を問われ、死刑にされるかもしれないという危険をはらんでいました。実際に、11節には、「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」と書かれています。ここにすでに、主イエスのご受難と十字架の死が暗い影を落としているのをわたしたちは見るのです。主イエスはご自身の命をかけて、安息日の本当の意味を明らかにするために、そしてご自身が安息日の主として、安息日の救い主としてのお働きをするために、あえて律法学者やファリサイ派の目の前で、多くの証人たちが見ている前で、手がなえている人をいやされるのです。主イエスの十字架への道は続きます。

【9~10節】。主イエスは安息日のこの日に、あえてその人をおいやしにならなくてもよかったのかもしれません。しかも、律法学者やファリサイ派の人たちが主イエスを律法違反で訴える口実を見つけようとねらっている彼らの目の前で、ご自身の命を危険にさらしてまでも、その人をおいやしになる必要はなかったと多くの人は思うでしょう。けれども、主イエスは「安息日の律法が許しているのは善を行うことか、それとも悪を行うことか、命を救うことか、それとも滅ぼすことか」と問われます。安息日の律法をお与えになった神は天地万物を無から創造され、それに存在と命とをお与えくださり、すべての創造されたものを祝福してくださる恵みの神です。また、わたしたちを罪の奴隷から解放され、死と滅びから救い出される救いの神です。それゆえに、安息日律法が求めているのは、善を行うことであり、命を救うことです。もし、安息日に善を行わないならば、それは悪を行うことであり、もし命を救うことをしないならば、それは滅ぼすことです。主イエスにとっては、安息日には善を行うことと命を救うことを選び取る以外にはありません。

主イエスが安息日に病んでいる人をいやされたという記録はこのあとにもあります。。13章10節以下には、腰が曲がったまま18年間も苦しんでいた婦人を安息日にいやされたことが書かれています。14章1節以下では、水腫を患っていた人をいやされました。安息日の主、安息日の救い主であられる主イエスにとっては、病んでいる人がいるのを見て、彼を憐れみ、いやすことは善であり、何もしないことは悪です。その病んでいる人を憐れみ、いやすことは彼の命を救うことであり、何もしないことは彼を滅ぼすことです。主イエスは、この安息日にこそ善い業を行われ、救いのみわざを行われます。主イエスは安息日の礼拝においてこそ、最も力強く働かれ、善いみわざを、救いのみわざを行われ、それによって神がお始めになられた創造のみわざと救いのみわざを完成され、安息日の本当の意味を成就されたのです。

主イエスはきょうのわたしたちの礼拝の主として、わたしたちと共にいてくださいます。さまざまな欠けや破れを持っている罪多いわたしたちのために、救いのみわざをなしてくださいます。わたしたちを罪と死と滅びから救い出し、新しい命を注ぎ込んでくださいます。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたがみ言葉によって創造されたこの世界を祝福し、すべての造られたものに平安をお与えください。あなたのみ心に背いて、滅びに向かうことがありませんように。すべての造られたものがあなたのみ旨を行い、あなたのご栄光を現わすものとなりますように。

〇天の父なる神よ、あなたが全地にお建てくださった主キリストの教会を顧みてください。今、日本とアジア、そして世界の教会は大きな試練の中にあります。全世界の人々と共に教会はその痛みと重荷と切なる祈りとを担っています。どうぞ、教会の民を強めてください。わたしたちの執り成しの祈りを強めてください。

〇主よ、教会を憐れんでください。世界の民を憐れんでください。病んでいる人たち、道に迷っている人たち、希望を失っている人たち、孤独な人たちを憐れんでください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA