5月16日説教「主イエスの復活を宣べ伝える」

2021年5月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:エゼキエル書37章1~10節

使徒言行録4章1~10節

説教題:「主イエスの復活を宣べ伝える」

 使徒言行録4章1節以下には、エルサレムに誕生した初代教会が経験した最初の迫害について書かれています。エルサレム教会のペトロとヨハネが主イエスの復活について説教したためにユダヤ人指導者によって逮捕され、投獄され、ユダヤ最高議会での裁判を受けたということが書かれています。わたしたちがすでに学んだように、3章1節からはエルサレム初代教会の最初の伝道活動が書かれていました。それにすぐ続いて、4章では最初の迫害の記録です。キリスト教会は誕生してすぐに、その最初の宣教活動のあとにその最初の迫害が続いたのだということを、わたしたちはここで気づかされます。この時以来、教会の2千年の歩みは、さまざまなかたちでの教会の迫害の歴史でもあったと言ってよいでしょう。教会の宣教活動は教会の迫害の歴史でもあったのです。

 けれども、このことを起こるはずがない、あるいは起こってはならない、予想外のことと考えるには及びません。否、むしろこのことは教会の建設者、また教会の頭であられる主イエス・キリストご自身が弟子たちに語っておられた預言の成就であり、神のみ心なのです。主イエスはマルコによる福音書13章9節以下でこのように言われました。ご一緒に読んでみましょう。【9~13節】(88ページ)。主イエスを信じ、主イエスに従う信仰者の道はその最初から、人々からの反対と憎しみと迫害の道であるのだということを主イエスは言われました。そして、それはまた主イエスご自身が歩まれた道でもありました。主イエスはすべての人を照らすまことの光として、神が約束しておられた世の救い主としてこの世においでになりましたが、この世の民は彼を受け入れず、使徒言行録3章のペトロの説教によれば、ユダヤ人たちは「このイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前で彼を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求しました」(13~14節参照)。神がメシア・キリストとしてこの世にお遣わしになった主イエスは罪のこの世の反対と憎しみの中で十字架への道を進まざるを得なくされました。主イエスを信じる信仰者もまた同じ道を歩まざるを得ません。

 なぜそうなのでしょうか。それは、主イエスが神の国の福音を宣教され、救いのみ言葉をお語りになる時、この世の罪が明らかにされるからです。神から離れ、神を失って、罪と死と滅びとに支配されているこの世の罪が明らかにされ、主イエスの福音を信じない罪、差し出されている救いの恵みを喜んで受け入れることをせず、かたくなで不従順で悔い改めることをしない人間の罪がそこであらわにされるからです。

使徒言行録3章と4章でも、同じようなことが起こっているのをわたしたちは見ることができます。ペトロが生まれつき足の不自由な男の人に、「ナザレの人イエス・キリストのみ名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じると、40年間一歩も歩いたことがなかったその人がすぐに躍り上がって立ち、神を賛美しながら神殿に入っていきました。けれども、その奇跡を見たエルサレムの人々は長く病んでいた一人の人が主イエス・キリストのみ名によっていやされ救われたという大きな恵みを喜ぶことができず、ペテロが語った主イエス・キリストの福音を信じ受け入れることをせず、かえって憎しみや怒りを覚え、ペトロとヨハネを逮捕したのです。主イエスの福音が語られ、救いのみわざが行われる時、それを喜ばず、受け入れず、反対に主イエスの福音に対して敵対するという人間の罪が浮き彫りにされるということが起こるのです。いつの時代にも、このようにして、主イエス・キリストの十字架の福音は罪に支配されているこの世の人々の疑いや反対や迫害に出会わざるを得ないのです。

 しかし、それにもかかわらず、「神の言葉は決してつながれてはいない」(テモテへの手紙二2章9節参照)という実例をもわたしたちはここで同時に見ることができます。4節にこのように書かれています。【4節】。神の救いのみ言葉はどのような人間の反対や迫害の中でも、むなしく消え去ってしまうことはありません。神のみ言葉は必ず成就します。実を結びます。人間の罪を打ち砕き、人間のかたくなさを打ち砕き、信仰を生み出していくのだということをわたしたちは知らされます。

 さて、ペトロとヨハネが逮捕された直接の理由は2節によれば、「彼らが民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えていた」からであると書かれています。これにはサドカイ派が深く関与していたと思われます。と言うのは、ファリサイ派と並んで当時のユダヤ教の二大勢力であったサドカイ派は、人間の復活や天使に関する教理を否定していたからです。サドカイ派は貴族階級や祭司階級が多く属しており、彼らの信仰は現実主義・保守主義で、当時イスラエルを支配していたローマ帝国とも手を結び、現在の秩序を乱すような運動には反対していました。ペトロとヨハネが不思議な奇跡によって人々を騒がせたり、主イエスの復活について説教して民衆の心をひきつけていることは、自分たちの立場や身分に危険を与えることになるのではないかと考えて、二人を逮捕させたと考えられます。ここにも、人間の罪やかたくなさが潜んでいます。現実の安易な生活や偽りの平和に安住するために、主イエス・キリストの福音によって自分が変えられることを願わない。自分の罪を認めず、罪の中にとどまっているために心を閉ざし、自分の身の安全を守ろうとする、そのような人間の罪がここにもあります。

 ペトロとヨハネは初代教会の最初の逮捕者となり、獄につながれました。しかし、すぐ続けて4節に先ほども読んだ【4節】というみ言葉が語られていることには特別な意味があるように思われます。本来ならばこの4節は、ペトロの説教が終わった3章26節のあとに書かれるべきなのですが、彼らが逮捕された後に書かれているのは、彼らの逮捕を、いわば無意味にし、否定する意図があるように思われます。たとえ、この世の権力がペトロとヨハネを獄につないだとしても、神のみ言葉は決してこの世の鎖によってはつながれることはない。否、むしろ神のみ言葉は人間たちの反対や迫害、この世の権力や暴力、そして人間の罪という鎖を断ち切って、救いのみわざを前進させ、主イエスの福音を信じる信仰者を生み出していくのだということを聖書は語っているのです。

 まさに、このことこそが主イエスの復活の福音にほかなりません。ユダヤ人たちがこぞって罪なき神のみ子であられる主イエスを犯罪人、神を冒涜する者として断罪し、ユダヤ人にとっては神に呪われた忌まわしい十字架刑にひきわたしたという彼らの恐るべき罪にもかかわらず、その罪が最後に勝利するのではなく、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順な僕(しもべ)として父なる神への服従を貫き通された主イエスが、ついにはすべての罪と死とに勝利されて、三日目に死の墓から復活されたという、復活の命と力がここでは働いているのです。

 翌日、エルサレム最高議会が招集されました。この最高議会はサンヘドリンと言われ、大祭司と70人の議員からなるイスラエルの政治・宗教の最高議決機関であり、また裁判の最高法廷の役割も果たしていました。主イエスもここで裁かれました。大祭司を議長とし、そのメンバーが5、6節に紹介されています。ペトロとヨハネの逮捕理由について7節でこう言われています。【7節】。「ああいうことをしたのか」とは3章に書かれていた生まれつき足が不自由な人を主イエスのみ名によって立ち上がらせたという奇跡を問題にしていると考えられます。そうだとすれば、2節に書かれていた逮捕理由とは違うことになります。2節では、サドカイ派が逮捕に深くかかわっていたので、自分たちが否定していた復活について語ったことを問題にしていましたが、裁判で多数派を占めていたファリサイ派は復活を信じていたので、実際の裁判では、ペトロとヨハネが何か悪魔的な力とか魔術とかによって奇跡を行ったのか、あるいは神のお名前を冒涜したのではないかということを問題にしていると考えられます。ここにも、人間の罪の姿が見え隠れします。サドカイ派とファリサ派は聖書の理解や教えに違いがあり、政治的立場も違っており、それぞれの利益を守ることを裁判の目的にしています。そして、彼らのそのような違いにもかかわらず、主イエスの福音に反対し、ペトロとヨハネを裁くということにおいては一致しているのです。このことで一致するためには、多少の自分たちの意見や主張を捨てようとしています。これもまた、聖書の中で、あるいは現実の人間社会でしばしば起こる罪びとたちの現象であると言えます。人間はみな主イエス・キリストの福音に反対し、悔い改めることをしないという罪においては一致します。結束します。

 しかし、ここでもまた、そのような人間の罪の結束を破るかのようにしてペトロが説教します。【8~10節】。ペトロは今鎖につながれ、自由を奪われています。多くのこの世の権力者たちの疑いや憎しみの目にさらされています。しかし、彼は少しも恐れず、たじろがず、彼らの真ん中に立ち、主イエス・キリストの福音を語り、自分の信仰を告白しています。彼は数カ月前に、この同じ場所で主イエスが裁判にかけられていた時に、彼は中庭に身を潜めていましたが、「あなたもあの男の仲間ではないか」と問われて、「いや、わたしたあの男を知らない」と三度も否定したのでしたが、あの弱くつまずいたペトロが今は迫害の中にあっても、しっかりと立っている姿をわたしたちは見るのです。

 それは、聖霊なる神が彼と共におられ、彼を支えていてくださるからにほかなりません。福音書で主イエスがすでに約束しておられたとおりです。「あなたがたは裁判所に引き渡され、鞭うたれるであろう。その時、あなたがたはわたしのために証しするであろう。しかし、何を言おうかと心配するには及ばない。聖霊なる神が語るべき言葉を授けてくださるであろう」。この主イエスのみ言葉がここで成就しているのです。

 8節からのペトロの説教は、これまでの二度の説教と同様に、その中心的主題は主イエス・キリストの十字架の死と復活です。また、ここでも同じように、裁く人と裁かれる人との立場が逆転していることに気づきます。被告席についているのはペトロです。裁いているのは大祭司と70人の議員たちです。しかし、ペトロは語ります。「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人イエス・キリストの名によるものです」と。本当に裁かれるべきは、あなたがたであり、すべての罪びとなのです。本当の裁きは地上の法廷での裁きではなく、天にある神の法廷での裁きです。神はその天にある法廷で、み子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、わたしたちに無罪を宣告してくださり、わたしたちの罪をすべてゆるしてくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの裁きを受けて滅びなければならなかったわたしたちを、み子の贖いによってすべての罪をゆるし、あなたにある義と平安と祝福とをお与えくださいましたことを、心から感謝いたします。主イエス・キリストの十字架と復活の福音が、全世界のすべての人々に宣べ伝えられますように。世界にまことの義と平和とが与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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