5月23日説教「主イエスによる聖霊派遣の約束」

2021年5月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(聖霊降臨日)

聖 書:イザヤ書32章15~20節

    ヨハネによる福音書16章1~15節

説教題:「主イエスによる聖霊派遣の約束」

 教会の暦では、きょうはペンテコステ・聖霊降臨日です。ペンテコステとはギリシャ語で50日目という意味で、ユダヤ人の最大の祭りである過ぎ越しの祭りの翌日から数えて50日目に祝う祭りです。旧約聖書のレビ記23章や申命記16章などによれば、「七週の祭り」とか「初穂の祭り」とも言われる収穫祭でした。主なる神によって約束の地に導きいれられたイスラエルの民が、その地での小麦の初穂や家畜の初子(ういご)を神にささげ、感謝する祭りです。使徒言行録2章に書かれているように、このペンテコステの日に、エルサレムに集まっていた弟子たちの群れの上に聖霊が注がれ、その聖霊なる神のお働きによって、世界最初の教会が誕生しました。ペンテコステは教会の民にとっては聖霊が注がれた日であり、また教会が誕生した日です。

 旧約聖書時代の二つの祭りが新約聖書時代になって新しい意味と内容を持つようになりました。主イエスが十字架につけられ、三日目に復活したのが過ぎ越しの祭りの時でした。過ぎ越しの祭りはイスラエルの民がエジプトの奴隷の家から主なる神によって解放された救いの恵みを祝い、感謝する祭りでした。主イエスの十字架と復活は、すべての人の罪を贖い、罪の支配から解放する神の救いの恵みの完成です。次に、ペンテコステは救われた民が約束の地で与えられた収穫の恵みを神にささげ、感謝する祭りでした。主イエスの弟子たちに聖霊が注がれ、エルサレムに教会が誕生したことによって、主イエスの福音によって救われた信仰者たちが自分たちの救われた体と魂とを神にささげる新しい礼拝の時が始まったのです。神の救のみわざは過ぎ越しの祭りからペンテコステの収穫祭へ、主イエスの十字架と復活からペンテコステの教会の誕生へと前進していったのです。

 きょうの礼拝で朗読されたヨハネによる福音書16章1節以下は、主イエスが十字架につけられる直前に弟子たちに語られた、いわゆる「決別の説教」の個所です。決別の説教は14章から始まり、17章の「大祭司の祈り」まで続きます。主イエスはこの決別の説教の中で、ご自身が十字架と復活ののちに天に昇られてから、弟子たちに聖霊を派遣されることを繰り返して約束しておられます。その主な個所を読んでみましょう。

 【14章15~19節】(197ページ)。【14章25~29節】。【15章26~27節】(199ページ)。そして、【16章7~13節】。

では、これらの個所で主イエスが約束しておられる聖霊の派遣について、それが今日の教会とわたしたちにとってどのような意味があるのかを、いくつかにまとめてみていきましょう。

 第一に考えておくべきことは、聖霊とは聖霊なる神のことであり、キリスト教教理の最も重要な「三位一体論」で扱われる神の三つの位格の中の一つであるということです。神は、旧約聖書の神、イスラエルの神も新約聖書の神、すなわち主イエスの父なる神も同じですが、その本質と実体においては永遠にお一人の神であるというのがキリスト教信仰の基本です。本質・実体においては一つですが、神には三つの位格がある。すなわち、父なる神としての位格、子なる神・イエス・キリストとしての位格、そして聖霊なる神としての位格がある。この三つの位格は分かちがたく、分離されることなく、また混同されることもなく、永遠に一つの実体を形成している。これが「三位一体論」です。位格とは、ラテン語でペルソナ、英語ではパーソンですから、神には三つの人格、あるいは神格、あるいは顔、働きがあると理解してよいでしょう。神はその三つの神格、お働きによって、わたしたちの救いのみわざを完璧になしてくださいます。父なる神として、み子なる神として、そして聖霊なる神として、いわばご自身の全人格をお用いになって、ご自身の全存在をかけて、わたしたちの救いを完成させてくださる。それが「三位一体論」の中心的な意味です。したがって、この三位一体論が崩れれば、わたしたちの救いは不完全になってしまいます。

 この三位一体論から理解すれば、聖霊なる神は永遠の昔から神の本質の一つであったのであり、もちろん旧約聖書の中にも聖霊なる神のお働きについて数多く書かれています。イザヤ書32章15節以下には、神の霊が注がれて荒れ野が園に、園が森になると書かれていますが、実はこの聖句は1872年(明治5年)3月10日に日本で最初のプロテスタントとして建てられた日本基督公会(横浜海岸教会)の建設式で選ばれたみ言葉です。今日、横浜海岸教会の庭に野の聖句が刻まれた石碑を見ることができます。新約聖書での聖霊なる神のお働きは、その神の救いのみわざの完成であると言ってよいでしょう。主イエスがヨハネ福音書で約束しておられる聖霊の派遣は、神が主イエスによって成就された全人類の救いのみわざを最終的に完成されるためであったのです。

 では次に、主イエスが約束しておられる聖霊のお働きについて、その主なものを取り上げていきましょう。16章7節で聖霊が「弁護者」と言われています。14章でも15章でもそうです。弁護者とは、元のギリシャ語の意味を直訳すれば、「そばに呼びだされた人」という意味です。口語訳では「助け主」と訳されていました。弱い立場にある人や困っている人を弁護したり助けたりするために、その人の傍らにいる人のことです。宗教改革者ルターは聖書を母国語であるドイツ語に最初に翻訳した人ですが、彼はこれを「慰め主(ぬし)」と訳したことが知られています。

 聖霊はどのようにして弁護者、助け主、慰め主としての役割を果たすのでしょうか。14章16節では、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と主イエスは言われました。「別の弁護者」と言われているのは、主イエスご自身が第一の弁護者であるということです。主イエスが地上におられる間は、主イエスはいつも弟子たちと共におられ、彼らを罪の誘惑から退けられ、不信仰な敵対者たちの攻撃から守られ、彼らに必要なすべての物を備えられました。主イエスこそが弟子たちにとっての第一の弁護者、助け主、慰め主であられました。けれども、主イエスは間もなく地上でのお働きを終えて天にお帰りになられます。そうすれば、弟子たちだけがこの世に取り残されることになります。しかし、主イエスは14章18節で、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と言われました。つまり、天に昇られた主イエスが天の父なる神のもとからお遣わしになる聖霊が別の助け主、いわば第二の主イエスとして弟子たちと共にいてくださるという約束なのです。

 この別の弁護者、いわば第二の主イエスである聖霊は永遠に弟子たちと共にいてくださると約束されています。地上におられた時の主イエスは、パレスチナ地方の限られた地域で、限られた弟子たちと共におられ、彼らの弁護者、助け主、慰め主であられました。しかし、天に昇られた主イエスがお遣わしになる聖霊は、全世界のすべての人と、いつまでも永遠に共にいてくださるのです。そこで主イエスは、16章7節でこのように言われました。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところには来ないからである」と。それゆえに、主イエスの十字架の死と三日目の復活、そして40日目の昇天は弟子たちにとって、教会の民にとって、大きな喜びになるのだと主イエスは言われるのです。聖霊なる神のお働きによって、救いが完成へと導かれるからです。聖霊が信じる人たちと永遠に共にいてくださるという約束は、聖霊なる神がわたしたちの信仰を終わりの日まで支え、導いてくださる、神の国が完成される終末の時まで永遠にわたしたちと共にいてくださり、決してわたしたちをお見捨てにはならず、わたしたちの信仰を完成させてくださるという固い約束なのです。

 聖霊は天におられる父なる神と天に昇られた主イエスの両方から派遣されるというのがわたしたちの教会の理解です。14章16節では、父なる神が弁護者なる聖霊を遣わすと言われており、15章26節では、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき」と言われています。聖霊が父なる神からだけ出るのか、それともみ子からも出るのかということが中世の教会で論議され、西方教会と東方教会が分離するきっかけとなりました。興味深い論争ですが、きょうはこれ以上触れることはしません。

 聖霊なる神のお働きについて、更にみていきましょう。聖霊は14章17節では「真理の霊」と言われ、15章26節では「真理の霊はわたしについてあかしをなさる」と言われ、また16章13節では「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と言われています。聖霊は神の真理であられる主イエスを証しし、わたしたちに主イエスの福音を悟らせ、主イエスが開かれた真理への道へとわたしたちを導きます。主イエスは14章6節で、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われ、また8章32節では、「真理はあなたたちを自由にする」と言われました。聖霊はわたしたちに真理であられる主イエスを悟らせ、主イエスの十字架の福音を信じさせ、その信仰によってわたしたちを罪の奴隷から自由にし、すべての束縛から解き放ち、心から喜んで神にお仕えする人とします。

 聖霊なる神のもう一つのお働きは、不信仰な罪のこの世を裁くということと、信じる人を聖化する(聖なる存在へと変えていく)ということです。【14章17節】。また、【16章8~11節】。聖霊はわたしたちを主イエスの福音を悟らせ、信じさせ、主イエスのみ名を告白させます。聖霊はわたしたち信仰者を父なる神とみ子主イエス・キリストに固く結びつけます。しかしまた同時に、聖霊は信じない人たちの不信仰と罪を明らかにし、裁きます。聖霊は両者をはっきりと区別します。信じる人々には神の国での永遠の命の約束を固くし、信じない人々には滅びの道が備えられます。

 それは、わたしたち信仰者にとっては聖化への道です。聖化とは、わたしがいよいよ罪のこの世から離れ、おのれの罪を憎み、神の義を愛し、神の救いを願い求め、悔い改めの思いを強くし、いよいよ神と主キリストへと近づいていく、これがわたしたちの聖化への道です。聖霊はわたしたちをこの道へと導いてくださいます。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたがみ子主イエス・キリストによってわたしたちのためになしてくださった救いを、聖霊によって固く信じさせてください。わたしたちの教会と全世界の教会に聖霊を注ぎ、福音宣教の働きを強めてください。

〇多くの不安や恐れの中で希望を失っている人たちを顧みてください。病や貧困や紛争によって命をおびやかされている人たちを顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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