7月18日説教「真の神であり、真の人」

2021年7月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書9章1~6節     

ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「真(まこと)の神であり、真(まこと)の人」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして連続で学んでいます。きょうはその4回目です。わたしたちの教会が戦後、日本基督教団を離脱して新しい歩みを始めてから70年、日本キリスト教会はどのような教会であることを目指してきたのかをご一緒に確認しながら、わたしたちの信仰を養っていきたいと願います。 信仰告白の冒頭の文章は、「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは真(まこと)の神であり、真(まこと)の人です」。これを、1890年(明治23年)の(旧)『日本基督教会信仰告白』と比較してみると、二つの点で大きな違いがあります。(現行の『信仰告白』を参照して比べてください)。旧の方を紹介します。「吾等が神と崇むる、主耶蘇基督は、神の独子にして」と告白されています。「神と崇むる」が「主とあがめる」に変更され、「真の神であり、真の人です」が付け加えられています。ここに、新しい日本キリスト教会を建設した時に先輩たちが目指した教会の特徴が言い表されています。その一つが、「主告白」であるということを前回学びました。イエス・キリストは教会と全世界において、唯一の主であって、他の何ものも主ではない。国家であれ、元首であれ、天皇であれ、軍隊であれ、それらは主ではない。それゆえに、教会は主イエス・キリスト以外の何ものにも決して服従しない。礼拝しないと、いう告白をまず冒頭で告白した。それは、戦時中の反省から、再び教会が失敗を繰り返してはならないとの強い決意があったということを学びました。 「真の神であり、真の人」という告白が付け加えられたということに、もう一つの特徴があります。これについて、きょうから数回にわたって学んでいくことにします。 この告白が信仰告白の冒頭に置かれているということは、これ以降のすべての告白が「主イエス・キリストは真の神であり真の人である」という告白を土台にして展開されていくということを意味しています。そして、その告白の中心的な意図をあらかじめ結論的に言うならば、主イエス・キリストは真の神であり真の人であるゆえに、わたしたち罪びとの救いを完全に成し遂げることがおできになる。わたしたちすべてを罪から救い、永遠の命の保証を固くし、終わりの日に神の国の民として招きいれてくださるという約束のすべてが確かにされているということです。もし、主イエス・キリストが真の神であり真の人であるというこの信仰告白が少しでもゆがめられたり、どちらかが否定されたりするならば、わたしたちの救いが不完全になってしまわざるを得ないということです。それほどに重要な意味を持つ告白だということです。  「真の神であり、真の人」という言葉はそのままでは聖書の中には見いだせません。この言葉は、紀元451年に小アジア(今のトルコ)の北西にあるカルケドンという町で開催された世界教会会議で決議され『カルケドン信条』の中にある言葉です。『カルケドン信条』は、『使徒信条』、『ニカイア信条』、『アタナシウス信条』とともに、世界信条、基本信条と言われ、全世界の正統的教会が受け入れています。日本キリスト教会はそれらの基本信条を告白している世界の、公同の教会の信仰を受け継ぎながら、それをさらに宗教改革時代のカルヴァンの流れをくむ改革教会の伝統によって深めることを目指している教会、教派であると言えます。  「真の神であり、真の人」という言葉が聖書の中にないのに、のちの教会が勝手に創作したということではありません。信仰告白は(信条と同じ意味で用いられますが)聖書で語られ、証しされている信仰の中心、その要約を教理の体系に沿って短くまとめたものですが、その中で用いられる語句や文章は聖書本文にあるものが多いと言えますが、聖書にはないが、教会の歴史の中で正統的な教理として教会会議などで認められた語句や文章も用いられます。「真の神であり、真の人」もその一つであり、また「三位一体」という教理の名称も聖書の中にはありませんが、正統的なキリスト教信仰の中心的教理であるということは言うまでもありません。  では、紀元451年に開催された世界教会会議、カルケドン会議に至るまでの背景について、なぜ「真の神であり、真の人」という信仰告白が生まれたのかについて簡単に見ていきましょう。  主イエスの十字架の死と復活が紀元30年代の初めころ、その年のペンテコステの祭りの時(5月から6月にかけて)、弟子たちの上に聖霊が注がれ、エルサレムに世界最初の教会が誕生しました。教会はエルサレムからパレスチナ全域へと広がっていき、紀元40年代後半からはパウロの計3回にわたる世界伝道旅行がなされ、紀元60年代には小アジアからギリシャ、ヨーロッパへと拡大していきました。聖書の中のパウロの書簡はその時代に書かれていますが、その中には、すでにそのころからキリスト教の教えが様々な異端的な教えとの厳しい戦いにさらされていたということをわたしたちは読み取ることができます。  パウロが最も激しく戦った相手は主キリストの十字架を否定するユダヤ教徒であり、またその伝統に縛られて、律法や割礼を重んじていたいたユダヤ主義的キリスト者でしたが、それとは別に、当時のギリシャ思想の影響を受けたグノーシス主義者と呼ばれる人たちがおりました。彼らは主イエスの人性(人間であること)を軽視する傾向にありました。主イエスの人間性が軽視されると、主イエスが人となられたこと、苦難を受けられ十字架で死なれたこと、そしてそのお体が復活したことの意味が薄められ、キリスト教信仰の中心である罪の贖いと罪からの救いがあいまいにされてしまいます。それはキリスト教会にとっての危機でした。パウロはそのようなグノーシス主義者たちに対して、主イエスは真の神であられたが、また同時に真の人となられたことを力説したのです。 聖書を読んでみましょう。【ローマの信徒への手紙1章3~4節】(273ページ)。また、【フィリピの信徒への手紙2章6~8節】(363ページ)。  パウロ以後も、教会は「キリストとはだれか、どのような方か」に関して、いわゆるキリスト論に関する論争を続けました。それは主イエスの神性(神であること)と人性(人間であっること)をめぐっての論争でした。紀元3~4世紀で最も影響力があった異端的教えはアリウス(250/56~336年ころ)という人の説でした。彼は、主イエスの神性(神であること)を否定し、天地万物を創造された神だけが唯一の神であり、主イエスは神によって造られた被造物の一つであって、神ではないと主張しました。このアリウスの説に同調する者も多く、大論争になったために、紀元325年に、先ほど紹介したカルケドンと同じ小アジアにあるニカイアという町で世界教会会議が開かれ(これが最初の世界教会会議と言われる)、そこでアリウスの説は異端として退けられ、『ニカイア信条』が採択されました。この信条の最も重要なポイントは、主イエスが父なる神と全く同質(本質が同じ)であるという告白です。すなわち、主イエスは真の神であるという信仰告白が確定されたのです。  ニカイア教会会議以降もキリスト論論争は続けられ、451年のカルケドン会議で制定された『カルケドン信条』が、古代教会のキリスト論論争に終止符を打つこととなりました。その最初の部分をご紹介します。「我らの主イエス・キリストは、唯一同じなるみ子であって、神性においても完全、また人性においても完全である。真の神にして、同時に理性を有する霊魂と肉体から成る真の人間である。神性においては父と同一本質であり、人性においては我らと同質にして、罪を除くすべてにおいて我らと等しい」。ここに、日本キリスト教会信仰の告白の中にある「真の神であり、真の人」という語句があります。  『カルケドン信条』によって告白された「真の神であり、真の人」という信仰は、こののち今日に至るまで、正統的なキリスト教会の中心的な信仰告白となりました。いつの時代にも、ある人は主イエス・キリストの人性を強調して神性を弱め、またある人は神性を強調するあまり人生を軽視するという異端的な教えが教会を惑わしましたが、教会はいつの時代にも、古代の教会が長い信仰の戦いの中で勝ち取ってきた「真の神であり、真の人」という信仰告白の上に固く立って、正統的な信仰を守り通してきました。この信仰によってのみ、わたしたちの罪びとの完全な救いがあり、また永遠の命があると告白してきました。  また、16世紀の宗教改革の時代には、カルヴァンや彼の流れをくむ改革教会は、「真の神であり、真の人」という信仰告白を仲保者キリスト論との関連で展開しました。その代表例が、1563年に制定された『ハイデルベルク信仰問答』です。神と人との間の唯一の仲保者であられる主イエス・キリストは「真の神であり、真の人」として、神の義の要求を完全に満たし、罪びとに対する神の怒りと裁きとを完全に耐え忍ばれ、そのようにしてわたしたちの罪のための完全な贖いとなってくださったのです。わたしたち人間が犯した罪を、真の人間として担ってくださり、また同時に、真の神として罪と死とに勝利してくださいました。この神と人との間の唯一の仲保者主イエス・キリストによって、わたしたちは罪あるままで神に義と認められ、主イエスの十字架と復活を信じる信仰によってわたしの罪がゆるされ、救われるのです。『日本キリスト教会信仰の告白』はこのような改革教会の信仰を受け継いでいます。  主イエス・キリストは「真の神であり、真の人」であるという信仰が、確かに聖書全体が語り、証ししている信仰であるということをわたしたちはあらゆる個所から確認することができます。  マルコによる福音書1章1節には、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書かれています。主イエスは神のみ子であられましたが、一人の人間として、罪びとの中に入って来られ、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられました。ガリラヤで「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣教されました。主イエスは神の権威によって、神の生けるみ言葉を説教されました。主イエスがお語りになるみ言葉は、力があり、すべて実現しました。主イエスは神の権威によって罪のゆるしを宣言されました。  マタイ福音書とルカ福音書によれば、主イエスはおとめマリアの胎に聖霊によって宿り、真の人間として誕生されました。主イエスは人の子として、時に怒り、時に涙を流され、時に額に血のような汗を滴らせながら祈られました。真の人として、十字架で苦しみを受けられ、死んで、葬られました。主イエスのご生涯は、「真の神であり、真の人」としてのご生涯でした。  「真の神であり、真の人」であられる主イエス・キリストこそが、わたしたちと神との間の唯一の仲保者として、神とわたしたちの間に立っておられ、わたしたちの罪を完全に贖ってくださり、わたしたちに罪のゆるしと永遠の命の保証を与え、わたしたちを神の国へと招き入れてくださる、わたしの唯一の救い主であられます。  (執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、み子主イエス・キリストがわたしたちを罪から救うために人となられ、十字架で死んでくだったことを感謝いたします。どうか、全世界のすべての人々に主イエス・キリストの十字架の福音が宣べ伝えられますように。住イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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