8月8日説教「平和を実現する人々は、幸いである」

2021年8月8日(日) 秋田教会主日礼拝(世界平和祈念礼拝)

説教(駒井 利則牧師)

聖 書:イザヤ書9章1~6節   

  マタイによる福音書5章1~11節

説教題:「平和を実現する人々は、幸いである」  

日本の諸教会では、終戦記念日にあたる8月15日前後の日曜日を平和祈念礼拝として守る習慣があります。76年前の夏、日本で唯一の地上戦で多くの住民の犠牲を強いた沖縄戦、一瞬のうちに何万人もの命を奪い、都市全体を瓦礫と化した広島・長崎の原爆、そして8月15日の終戦、わたしたちはこの戦争の悲惨さ、恐ろしさ、悲劇、残忍さ、そして人間の暴力と暴虐さを決して忘れてはならないと思います。それはまた、日本の国が受けた被害・犠牲であるとともに、日本がアジアと世界に与えた恐怖と侵略であったということも、忘れてはなりません。戦争は勝者にも敗者にも多くの不幸と禍と痛みとをもたらします。しかしなお、それでも戦争はこの地球上からなくなることはありません。わたしたちはこの時に、秋田教会の世界平和祈念礼拝に招かれている一人として、真の平和とは何か、その平和のためにわたしたちに託されている務めは何かということについて、聖書のみ言葉から聞き、世界の平和のための祈りをあつくしたいと願っています。  マタイによる福音書5章に書かれている「山上の説教」の中の9節で、主イエスはこのように言われました。【9節】。3節から11節まで、「幸いである」という言葉が9回繰り返されていますが、それらの文章には二つの共通した特徴があります。その一つは、聖書が書かれたいるギリシャ語原典では「幸いである」という言葉が文頭に置かれ、強調された形になっている点です。古い時代の『文語訳聖書』ではこの個所の翻訳はこのようになっています。「幸福(さいわい)なるかな、平和ならしむる者、その人は神の子と称(とな)えられん」。これは原典の意味合いをよく反映した翻訳であると言えます。ここで「幸いである」という言葉が強調されている点に注目して、現代の言い方にするならば、「何と幸いであることか、いかに幸いなことか」となるでしょう(旧約聖書の詩篇1編1節などで、「幸い」が強調されているカ所ではそのように訳されている)。 この強調点にはどのような意味があるのでしょうか。まず、これは主イエスからの呼びかけであるということです。その人が実際に幸いな状態にあるかどうかということによるのではなく、主イエスが神の独り子としての権威と愛と恵みとをもって、「あなたがたは幸いだ」と呼びかけてくださっておられるのです。ここで幸いだと呼びかけられている人を見てみると、3節では「心の貧しい人々」、4節では「悲しむ人々」、5節では「柔和な人々」、さらに10節では「義のために迫害されている人々」が幸いだと言われています。一般的に見れば、幸いだとは思えないような人たちに主イエスは「あなたがたは幸いだ」と呼びかけておられます。つまり、この世の価値基準による幸いではなく、あるいはまた人がこの世で手に入れることができる幸いでもなく、主イエスが天の父なる神からわたしたちに分かち与えてくださる天からの幸いのことなのです。 別の言葉を使えば、この幸いとは主イエスがわたしのために創り出してくださる幸いだと言ってよいでしょう。主イエスが幸いのないところにも新しい天からの幸いを創り出してくださるのです。それだけでなく、その幸いによって、禍や憂いや不幸をも幸いに変えてくださるのです。主イエスが「あなたがたは幸いだ」と呼びかけてくださるところ、そしてわたしたちがその呼びかけを聞くところに、主イエスはこのような幸いを創り出してくださるのです。 3節から11節までの幸いの呼びかけの文章でもう一つ特徴的なことは、日本語の翻訳では省略されることが多いのですが、後半の文章の初めに「なぜなら ば」という理由とか根拠を言い表す語が置かれているという点です。その点を強調して9節を訳してみると、「平和を実現する人たちは、何と幸いなことでしょう。というのは、その人たちは神の子と呼ばれるからです」となります。 3節~11節までの他のすべての文章でもそうですが、後半の理由づけ、根拠が大きな意味を持っていることに気づきます。3節後半「天の国はその人たちのものだから」、4節後半「その人たちは慰められるから」、9節後半「その人たちは神の子と呼ばれるから」、そして10節後半ではもう一度「天の国はその人たちのものだから」というように、幸いを根拠づけているのは天におられる神ご自身なのです。神がその人たちの味方でいてくださる、神がその人たちに最も必要なものを備えてくださる、神がその人たちのために働いてくださる、だから幸いだと呼びかけられているのです。  では、以上の二つの特徴的な点を考えながら、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われた主イエスのみ言葉の意味を更に深く読み取っていきましょう。  新約聖書が書かれている言語であるギリシャ語では、平和は「エイレーネー」と言います。旧約聖書のヘブライ語では「シャローム」です。この二つの言葉は今日でもギリシャ人やユダヤ人の日常のあいさつの言葉として用いられているそうです。日本語では「こんにちは」と言うところを「あなたに平和がありますように」とあいさつを交わすそうです。  聖書の中で用いられる「平和」という言葉には深い意味が込められています。平和とは、単に戦争がない状態をいうのではなく、また心の中の平安を指しているのでもなく、満ち足りていて欠けや破れがない状態、不安や恐れがなく、神と人間との関係また人間同士の関係が正しく保たれている状態を意味しています。 けれども、世界には真の平和はないと聖書は語っています。人間はいつも神のみ心に背き、神から離れて偽りの偶像の神々を礼拝し、神に対して罪を犯してきました。神との正しい関係が保たれなければ、人間同士の関係もおのずと壊れ、互いに欺きあい、奪い合い、分裂と戦いを繰り返すほかにありません。旧約聖書に描かれているイスラエルの歴史、また世界の歴史は、そのような人間の罪と分裂と戦いの歴史であると言えましょう。  けれども、主なる神はそのような罪によって支配された暗黒の世界にやがて真の平和の君を派遣されると預言者イザヤは預言しました。イザヤ書9章にはこのように預言されています。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた。……一人のみどりごがわたしたちのために生まれた。一人の男の子がわたしたちに与えられた。……その名は、「永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない」(1~6節参照)と。  教会はこの預言が主イエス・キリストの到来によって成就されたと理解しました。主イエス・キリストは天の父なる神から遣わされたまことの平和の君として、この地に永遠の平和を打ち立てられると教会は信じ、告白しています。エフェソの信徒への手紙2章14節以下にはこのように書かれています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。……キリストは二つのものを一つにし、ご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(14~16節)。  主イエス・キリストは、わたしたちの罪のために十字架で死んでくださり、それによってわたしたち人間の罪をゆるし、神と和解させてくださいました。神と人間との平和の関係を回復してくださったのです。主イエスの十字架の福音は和解と平和の福音です。ここから、わたしたち人間同士の平和が、この世界の平和が始まります。主イエス・キリストは真の平和とは何かをわたしたちにお示しくださり、その平和をお与えくださったのです。真の平和とは、人と人が、あるいは国と国が争わず、仲良くしているということだけではありません。武力や核兵器の均等によってかろうじて維持されるような平和でもありません。何よりもまず神と人との関係が正しくされていなければ、そこには真の、また永遠の平和はありません。なぜなら、人間の罪が新たな分裂と争いとを生み出していくからです。主イエス・キリストは十字架の死によって、人間の罪の力を打ち砕き、果てしなく続く人間の分裂と争いを終わらせ、神との和解を成し遂げてくださったのです。主イエス・キリストの十字架の福音を信じることにより、わたしたちは神によって罪をゆるされ、救われ、神の子どもたちとされるからです。 「平和を実現する人たち」とは、この平和の福音を信じ、その福音によって生きる人たちのことです。つまり、神からの罪のゆるしの恵みによって生きることを許されている人たちのことです。罪ゆるされている恵みに生きる人は、罪の力に抵抗します。主イエスがすでに罪に対して勝利されたことを知っているゆえに、また、主イエスによってすでに罪のとげが抜き取られ、その牙が折られていることを知っているゆえに、平和を脅かす罪の力に勇気をもって抵抗することができるのです。  「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。わたしたち一人一人もこの幸いへと招かれているのです。  

では、皆さんでご一緒に「世界の平和を願う祈り」をささげましょう。お渡ししているプリントをご覧ください。お立ちいただける方はお立ちください。

【世界の平和を願う祈り】

天におられる父なる神よ、 あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、 地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。 どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。 わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。 神よ、 わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。 憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、 分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、 絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、 悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。 主よ、 慰められるよりは慰めることを、 理解されるよりは理解することを、 愛されるよりは愛することを求めさせてください。 なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、 ゆるすことによってゆるされ、 自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。 主なる神よ、 わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。 深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。 あなたのみ心によっていやしてください。 わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。 主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。 (「聖フランシスコの平和の祈り」から)

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