9月5日説教「真の神であり、真の人」

2021年9月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編2編1~12節

    ルカによる福音書1章26~38節

説教題:「真の神であり、真の人」②

 「日本キリスト教会信仰の告白」はその冒頭で、「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真の神であり真の人です」と告白しています。この告白は、わたしたちが信じている唯一の救い主イエス・キリストは真の神であると同時に真の人であり、神と人との間に立たれる唯一の仲保者となられ、わたしたち人間を罪から救ってくださったという、キリスト教信仰の中心を言い表しています。特に、主イエス・キリストが真の神であり真の人であられることによって、その救いのみわざが完全になされたということを強調しています。別の言い方をすれば、もし主イエスが真の神であり同時に真の人でなかったなら、わたしたちの救いは不完全であり、わたしたち人間はなお罪と死の中に閉じ込められているほかなかったということです。

「真の神であり真の人」という告白は、紀元451年に制定された『カルケドン信条』の中で用いられた言葉です。この信条(信仰告白と同じ意味)は、初代教会のキリスト論論争に決着をつけ、今日に至るまでの正統的キリスト教会の信仰告白の基礎となったものです。その経緯を簡単に振り返ってみましょう。

新約聖書の時代、紀元50年代から始まって、4、5世紀までの初代教会、古代教会では、イエス・キリストが神であること(神性)と人間であること(人性)とをめぐって、その両者の関係について、盛んに議論されていました。これをキリスト論論争と言います。その中で、教会はさまざまな異端的教えと戦ってきました。教会は何度か世界教会会議を招集し、その会議によって正しいキリスト教の教理を確立し、異端を退けてきました。そして、紀元451年に小アジアの北西にあるカルケドンで世界教会会議を開催し、そこでこれまでのキリスト論論争に終止符を打つべく、カルケドン信条を制定し、その中で「主イエス・キリストは真の神であり真の人である」と告白したのです。

では、この告白の中身について、さらに具体的に学んでいきましょう。まず、この告白の全体としての意味について、二つのことを確認しておきたいと思います。一つは、「真の神であり、真の人」とは、主イエスは、いつでも、どこでも、永遠に、真の神であり、同時に、真の人であるということです。主イエスはある時点では人であったが、ある時からは神になったとか、ある時点までは神ではあったが、ある時から人になった、あるいは、この時には神であったが人ではなかったとか、別の時には人であったが神ではなかった、というような考えはすべて退けられます。

たとえば、ある人たちはこう考えました。主イエスはヨセフとマリアの子として誕生し、普通の人間として大きくなり、30歳になって公の宣教活動に入られる前、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたときに、天から聖霊を注がれて神となったのだと。異端者たちがそのように考えたのには、それなりの理由がありました。彼らは神の尊厳性や超越性、永遠性を守らなければならないと考えたからです。神が人間の胎内から生まれるとか、神がおむつをした赤ちゃんであったとか、乳児から幼児へ、少年、青年と時間をかけて大人になるとか、そのようなことは神にとってはありえないと、彼らは考えたからです。彼らは主イエスの神性を重視するあまり、人性を軽視したと言わざるを得ません。

また、ある人たちはこう考えました。主イエスは神であられたが、十字架につかられたときには、神であることをやめて人間となり、人間として死んだのだと。これにも理由があります。神である方が十字架につけられたときに、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのか」と、弱者の弱音とも敗北ともとれる言葉を言うはずがないし、そもそも神が死ぬなどということはありえないではないかと考えたのです。

更にこう考えた人たちもいました。主イエスは神が仮のお姿で人間のようにしてこの世に現れたのであって、主イエスの誕生もご受難も十字架の死も仮の現象であったに過ぎないと。これらはいずれも、主イエスの神性を守る意図から人性を軽視するものですが、その反対に、主イエスの神性を否定して、人生を強調する考えもありました。

けれども、教会はそれらのすべてを異端として退け、主イエスが誕生から十字架の死に至るまで、さらには昇天されたのちも、常に、絶えず、永遠に、真の神であり同時に真の人であられたという告白を貫き通しました。

聖書に描かれているように、主イエスがおとめマリアから誕生されたときも、12歳で家族と一緒にエルサレム神殿で神を礼拝されたときも、30歳になられ公の宣教活動を始められる際に、荒れ野でサタンからの試みにあわれたときも、ガリラヤで「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と、宣教の第一声を発せられたときも、ガリラヤ湖で嵐を静められたときも、ゲツセマネの園で血のように汗を滴らせながら徹夜の祈りをささげられたときも、そして、十字架の死の時も、墓に葬られたときも、三日目に墓の中から復活されたときも、40日目に天に昇られたときも、また今、天の父なる神の右に座して、わたしたちのために執り成しをしていてくださるときも、主イエス・キリストは真の神であり、真の人であられる、これがわたしたちの信仰です。

もう一つ確認しておくべきことは、「真の神であり、真の人」の「真の」という言葉は、「完全な」とか「全体として」という意味を含んでいるということです。つまり、主イエスはその半分が神で、半分が人であるというのではなく、また頭が神で、手や足は人間というのでもなく、あるいは心とか魂は神であるが、肉体は人間であるというのでもありません。その全ご人格が、そのお体も心もすべてが、全体が、完全に神であり同時に完全に人であるということを意味しています。

では次に、なぜ主イエス・キリストは「まことの神であり、まことの人」でなければならないのかを、別の側面から考えてみましょう。結論から言えば、説教の初めにもお話したように、もしそうでなければ、わたしたち人間の救いが完全ではなくなるからです。つまり、「真の神であり、真の人」であり、神と人との間の唯一の仲保者なる主イエス・キリストだけが、わたしたち人間を完全に罪から救い出すことがおできになるということです。

教会はキリスト論論争が一段落した紀元5世紀以後も、さまざまな異端的な教えに悩まされ、それらと戦いつつ、正統的なキリスト教教理を確立するための努力を惜しみませんでした。そのような神学者の一人、紀元11世紀のカンタベリーの大主教アンセルムスは、『カルケドン信条』で告白されたキリスト論を論理的に深めた論文、ラテン語で『クール デウス ホモ』、日本語訳では『なにゆえに、神は人となられたか』という著書を著しました。この書では3つの段階に分けて論を進めています。

第一は、人間は神に対して罪を犯したために、その罪を償う責任を負っている。けれども、人間は神に対して罪を償う能力がない。第二は、神だけが罪を償う能力をお持ちであるが、神はご自分が罪を犯したのではないので、罪を償う責任がない。第三は、それゆえに、この二つのことを同時に満たすことができるのは、人間であって同時に神である方以外にはない。すなわち、「まことの神であり、まことの人」であられる主イエス・キリストだけが、わたしたち人間の罪の償いを完全に成し遂げ、罪から救い出すことがおできになる。そのために、神は人間となられたのだ、とアンセルムスは説明しました。

16世紀の宗教改革の時代、このアンセルムスの説をさらに深めたのが、1563年に制定されたハイデルベルク信仰問答です。その15問から18問で、神と人間との間の唯一の仲保者なる主イエス・キリストが、真の人となられてわたしたち罪びとが受けるべき神の裁きを代わって受けてくださり、また同時に、真の神として完全な服従と献身によってわたしたちの罪の償いを完全に成し遂げてくださったと教えています。わたしたちの教会はこの信仰を受け継いでいます。

では次に、「真の神」という告白について聖書から聞いていきましょう。詩編2編は、主イエスの到来を預言するメシア詩編と言われています。7節に、「主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ』」と書かれています。このみ言葉は、新約聖書の多くの箇所に引用されています。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった時に天から聞こえたみ声として、高い山の上で主イエスのお姿が光輝いたときの天からの言葉として、また使徒言行録13章のパウロの説教の中でなどで、主イエスが神のみ子であり、神の救いのみ心を行われる真の神であるということを証ししています。主イエスはただお一人、神からお生まれになった神のみ子であられ、真の神です。

新約聖書では、至るとこところで、主イエスが神のみ子であり、神と等しい方であることを語っています。主イエスは誕生の時から十字架の死に至るまで、また三日目の復活と40日後の昇天、父なる神の右に座しておられる今に至るまで、そして、終わりの日に再び天から降りて来られ、神の国を完成される時まで、真の神であられます。

ルカによる福音書1章30節以下では、まだヨセフと結婚していなかったおとめマリアの胎内から生まれる子が、いと高き神のみ子であるということが繰り返して語られています。そのみ子は、人間の営みによらず、神から注がれる聖霊のみ力によって、全能なる神のみ力によってマリアの胎内に宿った神のみ子です。この神のみ子なる主イエスによって、神はご自身の救いのみわざを完全に成就されるのです。

ここで注意すべきことは、主イエスは誕生の時から完全に神であられたということです。人間が大人になって次第に成長し、悟りを開いて神になるというのではありません。あるいは、死んでから神になるというのでもありません。いと高き天におられる神が、地に降って来られ、人間のお姿をとって、この世においでくださったということなのです。ヨハネによる福音書1章14節ではそのことを、「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言い表しています。神はご自身を低くされて地に降って来られ、人間となられました。聖なる神が地の罪びとたちの中に、罪びとの一人としておいでになったのです。永遠なる神が、地の滅びるべき人間の中にお住まいになり、そのようにしてわたしたち人間と共にいてくださる神となられ、わたしたち人間を愛してくださり、罪から救い出してくださったのです。「まことの神であり、まことの人」であられる主イエス・キリストにこそ、わたしたちの救いのすべてがあるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがこの地を顧みてくださり、この地に住むわたしたち罪びとを愛してくださり、あなたのみ子・主イエス・キリストによって全人類の救いのみわざを成し遂げてくださったことを感謝いたします。どうぞ、暗黒の地に住む世界の民を主イエス・キリストの福音によって照らしてください。

〇天の神よ、あなたに選ばれて信仰へと召された教会の民が、この福音を携えて、全世界へと遣わされ、世界の人々に救いと和解を宣べ伝えることができますように。どうか、教会の民を強め、教会に集められているわたしたち一人一人を希望と喜びで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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