11月7日説教「使徒たちによるしるしと不思議な業」

2021年11月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編85編1~14節

    使徒言行録5章12~16節

説教題:「使徒たちによるしるしと奇跡」

 使徒言行録2章から8章にかけて、エルサレム初代教会の目覚ましい成長の様子が描かれていますが、その中には何カ所かまとめの報告が記録されています。最初は2章43~47節、次は4章32~35節、そしてきょう朗読された5章12~15節です。このカ所の文章は続き具合が少し乱れているように思われます。12節前半の文章、「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」は15節の「人々は病人を大通りに運び出し」から16節終わりの「一人残らずいやしてもらった」に続くのが自然です。12節後半「一同は心を一つにして」から14節終わりの「その数はますます増えていった」までが別の内容と考えられます。この部分が12節前半と15節との間に挿入されたかたちになってります。どうしてこのような文章の乱れが生じたのかはよくわかっていません。

 きょうは初めに12節後半から14節までの報告について学んでいきます。【12節b~14節】。これまでの二つのまとめの報告と同様に、ここでも教会の一致、信者たちの交わりが強調されています。主イエス・キリストの十字架によって罪ゆるされている信仰者たちの群れは、数がどれほど増えようとも、伝道活動がどれほど広がっても、あるいはメンバーがどれほど多様化しても、一つの主キリストの体なる教会です。その一致と交わりの強さ、深さは変わることはありません。また、教会がどれほどに外からの迫害や攻撃にさらされようとも、内からはアナニアとサフィラの事件のような聖霊なる神を汚すという重大な罪によって試練を受けようとも、それによって教会の一致と交わりが弱められたり、壊されたりすることはありません。むしろ、教会はそれらの苦難や試練を経験することによって、より一層教会の頭なる主イエス・キリストに信頼し、神への恐れを強くすることによって、一つの群れとされていくのです。教会は人間の側の好みや利害関係によって集められているのではなく、いついかなる状況の中にあっても、主キリストによって与えられる罪のゆるしの恵みによって集められ、一つにされている群れだからです。教会の一致は礼拝と祈りにおける一致です。

 このころのエルサレム教会の礼拝場所、集会場所は主にエルサレム神殿のソロモンの回廊と呼ばれている広場でした。まだ、教会堂はありません。信者の家々に集まることもありました。神殿の礼拝堂では当時のユダヤ教の礼拝がささげられていました。その外にあるソロモンの回廊ではキリスト教会の新しい礼拝がささげられています。キリスト教会は2章に書かれてあったように、ユダヤ人の礼拝場所である神殿で誕生しました。そして、しばらくはユダヤ教とキリスト教会は隣り合った場所で礼拝をしていました。

 ここに、わたしたちは二つのことを読み取ることができます。一つには、キリスト教会はユダヤ人たちが信じ、礼拝していたイスラエルの神、旧約聖書の神を主イエスン・キリストの父なる神として信じたということです。その意味ではユダヤ教はキリスト教の母体であると言えます。神は最初全世界の民の中からイスラエルの民をお選びになり、この民と契約を結ばれました。神は選ばれた民イスラエルがまず第一に救われることを願っておられました。そして、イスラエルから始まって、全世界のすべての人々が救われることを計画されました。教会はこの神の選びの順序を重んじました。13章からは、使徒パウロの計3回にわたる世界伝道の記録が書かれていますが、彼も新しい町に福音を宣べ伝える際に、まずその町のユダヤ教の会堂を訪れ、ユダヤ人に福音を宣べ伝えました。ユダヤ人からの迫害にあって、会堂を追い出されてから、ユダヤ人以外の異邦人に向かっていきました。神の選びの順序とその恵みはイスラエルの不信仰と不従順によっても決して変わりません。

 しかし第二に、ユダヤ教とキリスト教はその信仰においては全く違っています。神殿の礼拝堂では依然として動物の犠牲がささげられていました。律法が重んじられ、律法を守り行うことによって救われると信じられていました。しかし、ソロモンの回廊で行われていた教会の礼拝では、旧約聖書に預言されていた神の救いが主イエス・キリストによってすでに成就したと語られ、主イエス・キリストの十字架による罪のゆるしが信じられていました。両者の決定的な違いがやがて明らかになり、かたくなに悔い改めることをしなかったユダヤ人たちはキリスト教会を攻撃し、迫害し、彼らを神殿と会堂から追い出すことになっていきました。

 次の13~14節では、エルサレム教会の周囲の人々の教会に対する反応が書かれています。ある人々は教会から距離を置いていました。彼らがなぜ教会に近づかなかったのか、その理由は書かれていませんが、「ほかの者」と言われている人たちとは、主イエスをメシア・救い主として受け入れず、十字架につけるように訴えた当時のユダヤ教指導者たち、ファリサイ派、律法学者、長老、祭司たちのことかもしれません。この時にはまだ教会に対してあからさまな攻撃姿勢を示してはいませんでしたが、やがて彼らは教会を迫害するようになります。あるいは、宗教にはあまり興味を示さず、この世の生活のことであくせくしている人たちのことかもしれません。いつの時代にも、そのようにして教会から距離を置こうとする人たちが多くいます。

 しかし、多くの民衆は教会の信者たちを尊敬していました。信者たちが心を一つにして固く結びあっている様子や、使徒たちが熱心に福音を語り、多くのしるしと奇跡を行っているのを見て、そこに神が力強く働いていることを認めていました。けれども、彼らはもう一歩前に踏み出して教会に加わる決断ができませんでした。主イエス・キリストの十字架がわたし自身の罪のための救いのみわざであると信じるまでには至らなかったからです。

 そのような不信仰や無関心に取り囲まれていても、神は多くの信者たちを教会に増し加えてくださったと14節に書かれています。神は人間たちの不信仰や不従順、かたくなさや無関心の中でも、なおも救いのみわざを前進させたもうのです。教会はそのことを信じることがゆるされています。

 「多くの男女が」と言われています。女性の信者のことが強調されているのです。女性の社会的地位が認められていなかったこの時代にあって、教会では早くから女性もまた神のみ前では男性と同じ一人の信仰者、教会員と考えられていました。使徒言行録と同じ著者によるルカ福音書は「婦人の書」と言われるほどに、婦人たちの活動が多く描かれていますが、この使徒言行録でも初代教会の婦人たちの目覚ましい働きがこのあと数多く報告されます。主イエス・キリストの十字架の福音は、神のみ前にあるすべての人間、一人一人の人間のかけがえのない尊い存在、その命の重さと尊厳をわたしたちに悟らせるのです。主イエス・キリストはこの小さな一人のためにもご自身の尊い血を流されたからです。この小さな命もまた主キリストの十字架の血によって贖われているからです。

 では次に、12節前半から15、16節に続くカ所を読んでみましょう。【12節a、15~16節】。多くのしるしと不思議なわざが使徒たちによって行われたというのは、4章30節の教会の祈りが神によって聞かれたことを語っています。【4章30節】。もう一つの教会の祈りは、29節に書かれていました。【29節】。神のみ言葉を語ること、すなわち宣教と、その具体的なしるしである病気のいやし、しるしと不思議なわざ、この二つが初代教会の働きの中心でした。エルサレム初代教会は指導者であるペトロとヨハネが捕らえられ、裁判にかけられるという最初の迫害を経験しましたが、その迫害の中で教会は神に祈り、いよいよ強く神の助けと導きとを願い求めました。神はその祈りを確かにお聞きくださったのです。

 29節の祈りに対しては、31節にあるように、彼らが祈り終えると直ちにその祈りが聞かれ、彼らは大胆に神の言葉を語りだしました。また31節にも、「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証し」とあり、教会の祈りが確かに聞かれ、福音宣教の働きが神によって力づけられ、導かれたということを語っています。そして、5章12節では、もう一つの祈りもまた神によって聞かれ、使徒たちによって多くのしるしと不思議なわざが行われたと語っているのです。福音の宣教としるしや不思議なわざは、神が教会の祈りに応えて、ご自身の救いのお働きを前進させておられることの確かな証なのです。

 福音宣教としるしや不思議なわざを行うことが、初代教会の働きの中心でしたが、主イエスご自身の場合にそうであったように、この二つは互いにつながりあっています。きょうのカ所ではしるしや不思議なわざ、病気のいやしの方だけが取り挙げられていますが、それらは神のみ言葉の宣教、主イエスの福音の説教と結びついていなければ、本当の救いの力を持ちません。催眠や魔術によって病気をいやしたり、人間の能力を超えた異常な力を発揮したり、人を驚かせるような奇術をして見せたりする人たちはいつの時代にも、どこの国にもいるでしょう。しかし、使徒たちが行ったしるしや不思議なわざ、病気のいやしはそれらとは全く違います。4章30節にあるように、そこでは神のみ手が働いておられ、主イエスの救いのみわざが行われているのです。それらは、主イエスの場合にそうであったように、神の国が到来し、神の愛と恵みのご支配が始まったことの目に見えるしるしなのです。

 15節はマルコ福音書6章55、56節とよく似ています。【マルコ福音書6章55~56節】(73ページ)。また、16節はルカ福音書6章17節以下とよく似ています。【ルカ福音書6章17~19節】(112ページ)。使徒たちは主イエスご自身の救いのみわざ、いやしのみわざを継承しているのです。それによって、主イエスが罪と死とに勝利しておられ、すべての悪しき霊やサタンの力に勝利しておられ、今もなお使徒たちと共に働いておられることを実証しているのです。十字架につけられ、三日目に復活され、天に昇られた主イエスが、いつも、永遠に、弟子たちと共に、信仰者たちと共にいてくださり、また信仰者たちをお用いになって、ご自身の救いのみわざをなし続けてくださるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちにもあなたのみ言葉の力を信じさせてください。主イエス・キリストの福音がすべての人の罪をゆるし、死と滅びから救い出し、朽ちることのない永遠の命を与えることを信じさせてください。そして、わたしたちもまた主イエスの福音の証し人としてお仕えする者としてください。

〇天の神よ、暗闇をさまよい、生きる希望を失っている人たちにあなたが天からまことの光で照らしてください。飢え渇き、死に瀕している人たちに、きょうのパンとあなたの命のみ言葉とをお与えください。朽ち果てるものを追い求め、むなしい日々に明け暮れている人たちを、あなたの真理と救いの道へとお導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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