1月2日説教「来たるべきメシア主イエス」

2022年1月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書35章1~10節

    ルカによる福音書7章18~23節

説教題:「来るべきメシア主イエス」

 ルカによる福音書は主イエスと洗礼者ヨハネとの関係について、1章と3章で詳しく書いています。3章によると、洗礼者ヨハネは来るべきメシアのために道を整える先駆者として、ユダヤの荒れ野で悔い改めの洗礼を授け、近づきつつある神の国、神のご支配に備えなさいと説教しました。また、1章によると、主イエスの母マリアとヨハネの母エリサベトは親戚関係にありました。エリサベトがヨハネを身ごもってから6か月目に、主イエスを身ごもり始めたばかりのマリアと出会ったことが39節以下に描かれていますが、その時に、二人の母の胎内にいた主イエスとヨハネとが出会い、エリサベトの胎内にいたヨハネがマリアの胎内にいた来るべきメシアである主イエスと出会って、エリサベトのおなかの中で喜びおどったと書かれていました。いわば、これが主イエスと洗礼者ヨハネの最初の出会いでした。

また、ルカ福音書でははっきりとは書かれていませんが、マタイとマルコ福音書では、主イエスもまたヨハネから洗礼をお受けになりました。その際に、ヨハネは神から託された自分の使命は来るべきメシア・主キリストのために道を整える先駆者としての務めであり、自分はメシアではなく、自分のあとにおいでになる方こそがメシア・救い主であると証ししました。その後、ヨハネはガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、獄に入れられ、やがて処刑されることになります。

きょうの礼拝で朗読された7章18節以下は、ヨハネが投獄されている間のことであろうと推測されます。【18~20節】を読みましょう。ヨハネが彼の二人の弟子を呼んで主イエスに問わせた言葉、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」、これが間接話法と直接話法で2回繰り返されています。これは非常に重要な問いです。それは、獄中にあった洗礼者ヨハネにとって重要な問いであるだけでなく、当時のユダヤ人にとっても、世界全体にとっても、そして今日の世界全体のすべての人にとって、またわたしたち教会の民にとって、わたし自身にとって、この問いは非常に重要であり、また真剣な問いであり、わたしの全存在とわたしの命がかかっている問いであると言ってよいでしょう。

事実、わたしたちはこの問いに対して、「主イエスよ、あなたこそが来るべき方であり、待ち望まれていた全世界の唯一の救い主であるとわたしは信じます。」と、わたしの全存在とわたしの命とをかけて告白し、信じているのです。洗礼者ヨハネのこの問いは、主イエスご自身の確かなお答えを引き出すとともに、またわたしたちの信仰告白を引き出すのです。わたしたちはこの新しい一年も、「主イエスよ、あなたこそが来るべきメシアであり、全世界のすべての人が待ち望むべき唯一の救い主です。わたしたちはあなた以外に、だれをも、何をも、待つ必要はありません。あなたがわたしたちのすべてを満たしてくださるからです」。この信仰告白を固く守りつつ、信仰の道を歩み続けるのです。

「来るべき方」とは、当時のイスラエルで待ち望まれていたメシア・油注がれた者を指していると考えられます。主イエスの時代にはイスラエルを救うメシアの到来を期待する信仰が強くあったということが新約聖書から知ることができます。「我こそはそのメシアなり」と名のり出て民衆を扇動し、騒ぎを引き起こす指導者たちもいたようです。

メシアとはヘブライ語で「油注がれた者」という意味です。イスラエルでは王・祭司・預言者がその職に就く時に頭からオリブ油を注がれるという儀式を行いました。イスラエルは紀元前千年代のダビデ王の時代から多く国々からの攻撃を受け、紀元前587年にはついに南王国ユダがバビロン帝国によって滅ぼされ、ダビデ王朝は絶滅しました。その後も、ギリシャ、ローマからの宗教的迫害を受け、長く苦難の歴史を重ねるにつれて、終わりの日に神はイスラエルを最終的に解放するために、まことの王であり祭司であり預言者である、「油注がれた者」メシアを遣わしてくださるという、メシア待望の信仰が強くなっていったと考えられています。

ところで、洗礼者ヨハネが獄中から弟子を遣わして、「来るべき方、すなわち待ち望まれていたメシアはあなたですか」と主イエスに問いかけたことの背景には何があったのでしょうか。ヨハネは主イエスが来るべきメシアであることを疑っていたのでしょうか。それとも、そう信じていたことを改めて主イエスご自身に確認したいと願ったのでしょうか。その点については、わたしたちは推測することしかできませんが、この個所からいくつかのことを読み取ることができるように思います。

ルカ福音書1章や3章に書かれていたことによれば、ヨハネは半年後に誕生された主イエスを神がお遣わしになったメシア・救い主と信じており、彼自身はその主イエスのために道を整える先駆者であるということを最初から意識していたことは確かです。来るべきメシアを指し示し、その方のために仕えることが彼の使命でした。その使命を果たす務めの中で、彼はヘロデ・アンティパスによって捕らえられたのでした。やがて処刑されることを彼は覚悟していたと思われます。

そのようなヨハネにとって、「来るべき方はあなたか、それともほかのだれかを待つべきか」という問いは、どのような意味を持つのでしょうか。ヨハネは、そのために彼がこれまで生きてきたこと、そのために彼が間もなく死ぬこと、その彼の唯一最大の生きる目的、死ぬ目的が、主イエスご自身にあるのだということを、そしてそれが正しかったのだということを、ここで確かに知らされるのです。ヨハネの全生涯はまさに来るべき方、メシア・キリストである主イエスのためにあるのです。彼の死もまた彼が待ち望んでいた救い主・主イエスのためにあるのです。ヨハネは死の直前に、消えかかったわずかな灯によって、その小さな指によって、来るべきまことの光なる主イエスを指し示そうとしているのです。彼の生と死によって、来るべき主イエスを証しすること、これこそが先駆者ヨハネが神から託された務めだったのです。そして、彼は今その最後の務めを果たそうとしているのです。

もう一つのことを考えてみましょう。ヨハネがユダの荒れ野で神の国が近いことを説教し、また主イエスがガリラヤ地方で「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と説教してから、ある程度の期間が経過し、多くの人がヨハネから洗礼を受け、また主イエスの説教を聞いて心を揺り動かされる民衆も多くいるのに、未だにイスラエル民族の解放の時は来ていない、国の現実も人々の現実も大きな変化は見られない、メシアの到来に期待していた神の最後の裁きは未だ行われていない、神の国は本当に到来したのか、主イエスは本当に神の国を来たらせるメシア・キリスト・救い主なのか? そのような疑問に対して、ヨハネは今確かな答えを主イエスから受け取るのです。

では、その主イエスのお答えを読んでみましょう。【21~22節】。獄の中で自らの死を間近にしているヨハネに対して、主イエスは「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われます。ヨハネは来るべき方、メシアである主イエスのために仕え、主イエスを指し示すことが神から託された務めです。その務めを果たすことによってこそ、彼のすべての歩みは幸いに満ちた生涯になるのです。たとえ彼が間もなくこの世の権力者によって処刑されるとしても、ヨハネ自身にはやり残したことが多くあるように思われたとしても、彼がその短い生涯によって、また彼の死によって、来るべき方、メシア・救い主・主イエスを指し示したのであれば、彼の生涯は神によって満たされた、幸いな生涯となるのです。ヨハネの生涯が幸いに満ちた生涯となるために、そしてまた彼の死も神に祝福された死となるために、ヨハネは今主イエスのお答えをぜひとも聞かなければならないのです。

主イエスは、「行って、あなたがたが見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と二人の使者に命じます。主イエスは先駆者ヨハネの務めが決して無駄には終わらないことをご自身のみわざによって保証しておられます。主イエスが福音宣教の初めの数カ月、あるいは数年にガリラヤ地方でなされた一つ一つの救いのみわざが、主イエスが来るべきメシア・救い主であることの確かなしるしである、それをあなた方の目で今現実に見ていると主イエスは言われます。

22節に挙げられている主イエスによる病気のいやしや奇跡、救いのみわざが、そのすべてがこれまでのルカ福音書の中に語られているわけではありませんが、すぐ前の1節以下に書かれていた、死にかけていた百人隊長の部下が主イエスのお言葉によって、いわば遠隔治療によっていやされた奇跡と、11節以下のナインのやもめの一人息子をみ言葉によって生き返らせた奇跡もまたこれらのしるしの中に含まれることは言うまでもありません。

ルカ福音書がここで挙げているしるしの数々は、旧約聖書イザヤ書の中で、終わりの日、終末の時に、神の国が完成し、救いが完成する時に見られるしるしとして繰り返した語っている内容と一致しています。その2か所を読んでみましょう。【イザヤ書35章5~6節】(1116ページ)。【61章1節】(1162ページ)。イザヤが預言した神の国到来のしるしが主イエスによって確かに成就されているのをわたしたちは知らされます。

けれども、主イエスの時代に人々がメシアに期待していたことは、このイザヤの預言とは必ずしも一致してはいなかったと言わなければなりません。人々は来るべきメシアが到来し、神のご支配が始まれば、この世の悪しき権力は神の裁きを受けてすべて滅び、ローマ帝国は倒され、イスラエルはその支配から解放され、エルサレムが全世界の中心となって繫栄するであろうと考えていました。

しかし、主イエスがメシア到来と神の国の始まりのしるしとしてここで挙げている内容は一見してごく小さな、目立たないしるしのように思われます。だれの目にもはっきりと認識できるような世界規模の変化が起こっているというのではありません。パレスチナの一角で、何人かの病める人たちがいやされ、何人かの死んだ人たちが生き返らされ、何人かの貧しい人たちが神の国の福音を聞かされているという、小さな、目立たないしるしであるように思われるかもしれません。

しかし、この中に、すでに確かな神のご支配のしるしがあるのだと主イエスは言われるのです。神が愛と恵みをもって病める人や悩める人、重荷を負う人を顧みてくださり、救いのみ言葉を彼らにお語りくださることによって、そこにすでに神の救いの恵みが差し出されている。それによって、この世の悪しき力や富や権力を誇る者たちの滅びが宣言されている。ここにすでに、主イエスの十字架と復活の福音の勝利があり、その福音を信じる信仰者たちに約束されている救いと永遠の命がある。これが、主イエスのお答えなのです。この主イエスのお答えを聞きつつ、わたしたちはこの一年を歩み続けていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみとはとこしえからとこしえまで変わることなく、尽きることもありません。あなたの永遠なる救いのご計画がこの年もみ心にかなって前進しますように。全世界において、あなたのみ名が崇められ、あなたのみ国が来ますように。

〇この教会と集められているわたしたち一人一人のこの一年の信仰の歩みの上に、あなたのお導きがありますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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