1月23日説教「人類の罪のために十字架にかかられた主イエス」

2022年1月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教・『日本キリスト教会信仰

の告白』講解⑨(牧師駒井利則)

聖 書:イザヤ書53章1~12節

    ローマの信徒への手紙5章12~21節

説教題:「人類の罪のために十字架にかかられた主イエス」

『日本キリスト教会信仰の告白』の特徴の一つは、簡単信条であるということです。宗教改革以後の信仰告白、信条も同じ意味ですが、それらと比較すると、かなり短くなっています。簡単信条の利点は、礼拝の中でその全文を礼拝者一同が告白でき、また暗唱することもできる点にあります。欠点としては、キリスト教教理の全体を、特にわたしたちの教会の神学的特徴である改革教会の教理を厳密に表現できないということです。この欠点を補うために、日本キリスト教会は信仰問答書の作成や新たな信仰告白の作成をしていくことが求められています。2016年の第66回大会で、『1964年版小信仰問答』が正式に制定されたことは、その第一歩と言えます。

 『日本キリスト教会信仰の告白』が簡単信条であるいうことは、その短い文章の一字一句の中に、多くの意味が凝縮されて詰め込まれているということでもあります。わたしたちがその告白文を学んでいくにあたっては、その告白のもとになっている聖書のみ言葉を丁寧に学ぶことはもちろん、教会の2千年の歴史の中でその教理がどう理解されてきたか、どのように告白されてきたかということもまた考慮に入れながら学ぶことが大切です。

 きょうは「人類の罪のために十字架にかかり」という箇所を、次回と2回にわたって学ぶことにします。『信仰告白』を冒頭から続けて読むと、神のひとり子であり、まことの神・まことの人であられる主イエス・キリストが人となられたその理由、その目的が、人類の罪のため十字架にかかることあったと、ここで告白されていることが分かります。つまり、主イエスのご生涯はその誕生から十字架に向かっているということ、しかもそれは全人類の罪のための十字架であるということです。

 まことの神であられる方が人となってこの世においでくださったのは、神が人間世界の中で名を挙げ、英雄になるためではありませんでした。人間たちの最高位に君臨して人類を支配するためでも、人類を裁くためでもありませんでした。いずれにしても、神ご自身の誉れを得るためでは全くありませんでした。それは、徹底して人類のためであり、人類の罪のためであり、十字架にかかるためであったのです。わたしたちの主なる神は、このようにして徹底的に人類のために仕えてくださる神であり、人類の罪をご自身に引き受けてくださる神であり、また人類のためにご自身が苦しみと痛みの中で十字架につけられ、死んでくださる神であられるのです。人類に対する神の愛はこれほどまでに深く、また真剣で、文字どおり命をかけた愛であることをわたしたちは知らされます。

 では、そのような神の偉大な愛の対象である人類とはだれのことでしょうか。人類とは、人間の歴史が始まってからそれが終わるまでの、すべての時代のすべての人間、あらゆる人種、国籍、男女、職業、能力、その他どのような違いも関係なく、人として生まれたすべての人間を人類と言います。その人類が神の偉大なる愛の対象なのです。神の愛は時代や空間を超え、人種や国境を越え、人間のあらゆる違いを超えて、全人類に与えられる永遠の愛、無限の愛です。

 人類という言葉は、ここではさしあたって、罪という言葉と結びついています。「人類の罪」と言われています。人類は神の偉大な愛の対象ですが、それに先立って、罪という言葉と結びついているのです。人類の罪ですから、ここで言われている罪は一部の人だけの罪ではなく、人類全体の、すべての人の罪です。ここで、『信仰告白』は全人類が、すべての人間が罪の中にある、罪びとであるということをまず第一に告白しているのです。

 罪という言葉が、この信仰告白の中で初めて出てきました。この後にも何回か出てきます。少し進んだ箇所では、「功績なしに罪を赦され」、そのあとに、「人は罪のうちに死んでいて」、使徒信条の終わりの箇所では、「罪の赦し」、この信仰告白では4回出てきます。短い信仰告白の中に同じ言葉が4回も用いられているということは、罪がわたしたちの信仰理解にとって非常に重要であることを意味しています。キリスト教信仰は罪の正しい理解と認識から始まると言ってよいでしょう。

 では、罪とは何でしょうか? 聖書が言う罪とは、第一には、それが神に対しての罪だということ、神との関係における罪、神のみ前での罪ということです。第二には、その基準はなにかと言えば、それは神の律法、聖書に記されている神のみ言葉であるということです。宗教改革の時代に制定された『ハイデルベルク信仰問答』はその第3問で、「どこからあなたは自分の悲惨(つまり罪)を知るのですか」という問いに、「神の律法です」と答えています。そして、第5問では、わたしたち人間はだれも神の律法を守ることができない、だれもが神のみ言葉に聞き従うことができない罪びとであると告白されています。

 『ハイデルベルク信仰問答』は、これが聖書から導き出される人間の罪の現実であると教えているのです。神の律法、神のいましめ、神のみ言葉に聞き従うことができない、神のみ心に背いている。生まれながらの人間はみなそのようにして罪に傾いている。人間の全存在が罪と悪に傾いているために、人間は本当の意味で神を愛することも人間を愛することもできない、それが人間の罪の現実なのだと聖書は言います。

 実際にわたしたちが聖書を読むと、聖書は最初の創世記から最後のヨハネの黙示録に至るまで、その全ページで人間の罪について語っていることに気づかされます。その代表例を読んでみましょう。詩編14編1~3節にはこう書かれています。「神を知らぬ者は心に言う。神などないと。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも、背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」。使徒パウロはこの詩編のみ言葉を引用しながら、ローマの信徒への手紙3章20節でこのように結論づけています。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」と。

 わたしたち人間はだれもみな、神のみ前に立つときに、神の律法の要求の前に立つときに、その一つをも守ることができない罪びとであるということを告白しなければなりません。たとえ、この世の法律は一つも破ったことがないと主張できる人であっても、あるいは、大きな犯罪を犯した極悪人と呼ばれる人であっても、あるいはまた、まじめで誠実でだれからも好かれる好人物であっても、性格がゆがんでおり、だれともうまくやっていけず、失敗ばかりするような人間失格と言われる人であっても、すべての人はみな同様に、神のみ前では同じ罪びとであり、神の律法に背いているということにおいては、大差はない。わたしたちはみな神のみ前では罪びととして同じ場所に立っているのです。

 しかしまた、聖書は語ります。人間の罪についてと同様に、否、それよりも

はるかに力を込めて、創世記からヨハネの黙示録に至るまでの全ページで、神の偉大なる愛と罪のゆるしについて語っています。人間はそのような罪びととして、あの神の偉大なる愛の対象なのであり、そのような罪びとのために神のみ子イエス・キリストは人となられ、十字架への道を進まれたのだということを聖書は語るのです。

 「人類の罪のため」という信仰告白には二つの意味が含まれています。一つは、人類の罪が原因で主イエスは十字架につけられたという意味です。つまり、人類の罪を、罪なき神のみ子であられる主イエス・キリストが、人類に代わってそのすべての罪を引き受けられ、担われた。そのようにして、人類が罪のゆえに受けるべき神の裁きを人となられた神のみ子が人類に代わって引き受けられたという意味です。

 第二に、人類の罪のゆるしのためにという意味も、ここではすでに暗示されています。罪なき神のみ子が人類に代わって十字架への道を進まれたのは、人類の罪をゆるすためにほかなりません。この信仰告白はこの後で、その罪のゆるしのことが具体的に告白されていきます。

 「人類の罪のため」という告白について、もう一つのことに触れておきたいと思います。それは、人類の罪とわたしの罪との関係です。使徒パウロはローマの信徒への手紙5章の前半で、わたしたち不信人な罪びとたちのために十字架で死んでくださった主キリストに現わされた神の偉大なる愛を語った後で、12節でこのように語ります。【12節】(280ページ)。

 「一人の人」とは、最初に神によって創造された人間アダムのことです。このアダムが最初に罪を犯しました。神に禁じられていた善悪を知る木の実を食べ、神のいましめに背いて罪を犯したために、アダムは神の裁きを受けてエデンの園を追い出され、死すべき者となりました。キリスト教教理ではこれを「原罪」と言います。アダム以後のすべての人間、人類は皆この原罪を受け継ぎ、死すべき存在となりました。使徒パウロはそのことを12節前半で語った後、後半で「すべての人が罪を犯したからです」と付け加えています。つまり、アダム以後のすべての人もまたアダムと同じように罪を犯している、だから死すべき者となっているという、すべての人間の罪の現実を語るのです。

アダムの罪と死、原罪は、いわば遺伝のように受け継がれていくというのではありません。人間の原罪はアダムにだけ責任があるのではありません。アダム以後のすべての人間もまた、そしてわたしもまた、生まれながらに罪に傾いており、神と人間を憎むことに傾いている罪びとである、それゆえにすべての人が、そしてまたわたしも、死ぬ者となっているのだとパウロは語っています。

 したがって、「人類の罪のため」という「人類」の中には、わたしもまた含まれているのは言うまでもありません。それだけでなく、わたしたちはパウロがテモテへの手紙で書いているように、「わたしはその罪びとの頭である」と告白しなければなりません。そのように自らの罪を告白する時に、わたしたちは「人類の罪のため十字架にかかって」くださった主イエス・キリストの救いの恵みが、このわたしにも豊かに与えられていることをも告白することができるのです。

 使徒パウロがローマ書5章の後半で繰り返して語っているとおりです。【17~19節】。そして【21節】。

 神は人類を、わたしたちひとり一人を、罪と死の支配とその法則から解放し、救い出すために、そして神の救いの恵みと命の支配とその法則のもとに生きる者とするために、ご自身の独り子なる主イエス・キリストをこの世にお遣わしくださり、み子の十字架の死によってわたしたちを罪からあがない、救ってくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが御独り子をわたしたちの罪の贖いのために十字架に引き渡されるほどの大きな愛によってわたしたち一人一人を愛してくださいますことを、心から感謝いたします。あなたに愛され、罪ゆるされている者として、喜んであなたと隣人とに仕える者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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