3月20日説教

3月20日説教「完全な犠牲をささげ、贖いをなしとげられた主イエス」

2022年3月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:レビ記16章11~15節

    ヘブライ人への手紙9章11~15節

説教題:「完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげられた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは「完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ」という箇所について、聖書のみ言葉に導かれながら学んでいきます。

 文章の続き具合から判断されるように、「完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ」は、前の「人類の罪のために十字架にかかり」で告白されている主イエスの十字架の意味をより具体的に説明しています。主イエスの十字架の死が、わたしたちの救いにとってどのような意味を持つのかが告白されています。主イエスの十字架の死が、わたしたちの救いのための完全な犠牲であったこと、そしてそれによって贖いが完了したことが告白されています。

 きょうの箇所では、「完全な犠牲」や「贖い」という、聖書の中で用いられる用語がありますので、まずその意味を正しく理解することが重要です。「完全な犠牲」という言葉は、1953年に制定された「文語文」では「全き犠牲(いけにへ)」となっていました。聖書では、「犠牲」と「いけにえ」の両方の言葉が用いられていますが、同じ意味と考えてよいでしょう。

 「犠牲」または「いけにえ」と「贖い」は旧約聖書時代のイスラエルの礼拝形式に関連しています。主イエスの十字架を理解するには、そのイスラエルの礼拝形式を理解する必要があります。そこで、イスラエルの礼拝形式について2、3の点を確認しておきましょう。一つは、イスラエルの民は神を礼拝する民となるためにエジプトの奴隷の家から導き出されたのであり、神を礼拝することは神の民あるイスラエルにとっての原点であり、出発点であり、また目標であったということです。神礼拝は、イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から救い出された神の救いの恵みに対する感謝の応答なのです。神への感謝の応答、これがイスラエルの礼拝の第一の意味です。

 この礼拝の第一の意味は、わたしたち教会の民にも受け継がれています。使徒パウロはローマの信徒への手紙12章1節でこのように教えています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。わたしたちが主の日ごとに礼拝堂に集まり、共に神を礼拝するのは、わたしたちが主イエス・キリストの十字架による福音によって罪ゆるされ、救われているという大きな神の恵みに応え、それを感謝するためなのです。

旧約聖書時代のイスラエルの神礼拝においては、祭司や預言者たちによって神の救いのみ言葉が語られ、会衆の感謝の応答として、感謝のささげものがささげられました。神が約束の地カナンへと彼らを導き入れ、それぞれの部族ごとに嗣業の地を与え、その地での豊かな収穫を与えてくださったことへの感謝として、地の初物と家畜の初子(ういご)がささげられます。それに続いて、地の収穫物の十分の一がささげられます。

 羊や牛、やぎなどの家畜の初子をささげる儀式を初子の奉献と言います。最初に生まれた家畜の雄(おす)は、神のものとして聖別され、ささげられなければならないと律法に定められています。それは、初子に続くすべての家畜の命が神のものであり、神から与えられた命であることを言い表しています。家畜の初子を犠牲として、あるいはいけにえとして神にささげる場合には、家畜の首を切り、その血を礼拝堂の祭壇に振りかけました。血は命であり、すべての命が神のものであるから、その命を本来の所有者である神にお返しするためです。

 地の初物や家畜の初子だけでなく、人間の初子(長男)も神のものであり、聖別して神にささげられねばならないと律法に定められています。人間の初子の奉献の場合には、人間の命の代わりに子羊をささげました。これを「贖う」と言います。つまり、本来神に属する長男の命を子羊の命によって神から買い取る、買い戻すという意味です。

 動物を犠牲としてささげるイスラエルの礼拝形式は、血を命として神にささげるほかに、肉は火で焼いてその香りを神にささげました。動物の全部を火で焼いてささげることを焼き尽くすささげ物、あるいは燔祭と言います。これは、神にすべてをささげ尽すという、礼拝者の全き服従を意味していたと考えられます。また、焼いた肉の一部を一緒にささげたパンなどとともに、礼拝者が食べることを酬恩祭、『新共同訳』では和解のささげものと言います。これは、礼拝者が神のみ前で共同の食卓を囲むことによって、ささげ物を受け入れてくださる神との交わりをより豊かにし、具体的にするとともに、礼拝者同士が交わりを深めることを意味していました。今日の聖餐式と同じような意味を持っていました。

 イスラエルの礼拝のもう一つの中心的な意味は、神による罪のゆるしです。感謝の応答という礼拝の意味よりも、こちらの方が本来の、中心的な礼拝の意味だと言ってもよいでしょう。イスラエルの民は、人間が神のみ前では罪びとであり、神の裁きによって死ぬべき存在であるということを強く意識していました。人間は神のゆるしなしでは生きることができない者であると自覚していました。創世記3章に書かれている最初の人間ダムとエヴァが神の戒めに背いて罪を犯し、死ぬ者となったという、いわゆる原罪が、彼らの人間理解の原点です。そこで、彼らの神礼拝は、人間の罪を神がゆるしてくださるように願うことが、第一の最も中心的な要素となりました。

 そのことは、今日のわたしたちの礼拝においても同様です。わたしたちの教会の礼拝も、主イエス・キリストの十字架による救いのみわざに基礎づけられており、この礼拝では主イエス・キリストの十字架による救いを信じ、その救いの恵みを受け取り、またそれに感謝するために、わたしたちはきょうの礼拝に集められているのです。礼拝にはほかにもたくさんの要素がありますが、罪のゆるしこそがその中心です。主イエス・キリストによる罪のゆるしと救いの恵みがないならば、それは真実の礼拝ではありません。

 では、イスラエルの礼拝では罪のゆるしはどのようになされたのでしょうか。それは家畜などの動物を犠牲として、あるいはいけにえとして神にささげるという形式でした。その礼拝の仕方については、レビ記などに詳しく定められています。【レビ記4章1~7節】(165ページ)。これは祭司が罪を犯した場合の定めですが、13節以下ではイスラエル共同体の罪の場合、22節以下ではイスラエルの代表者が罪を犯した場合、27節以下では一般の人が罪を犯した場合も、同じようにして家畜を犠牲としてささげることが定められています。人間が犯した罪のために動物の命を代わりにささげることを贖罪のささげものと言いました。それによって人間の罪が贖われ、罪がゆるされました。

 ここには、罪の結果は死であるという神の厳しい裁きの原則があります。罪とは神との関係を破壊することです。人間は神によって創造され、神の律法、神のみ言葉に聞き従って生きるべきであるのに、それに背いて罪を犯した場合には、神のみ前では生きることができないからです。使徒パウロがローマの信徒への手紙6章23節で言うように、罪の支払う報酬は死なのです。

 けれども神は、人間の罪に対する裁きとして、人間の死を直ちに要求されませんでした。神は憐れみ深い方であられ、罪をゆるされる方であることをお示しになるために、人間の命の代わりに動物の命をささげることをお命じになりました。それを贖罪のささげ物と言います。

 エルサレムの神殿では、毎日祭司によってイスラエルの罪を贖うための動物が祭壇にささげられ、更には年に1回、7月10日の大贖罪日には、大祭司によって至聖所で罪を贖うための動物が犠牲としてささげられました。このようにして、毎日毎日、毎年毎年人間の罪のための贖罪の犠牲がささげられることによって、イスラエルの民は神によって罪ゆるされ、神の民として生きることがゆるされたのです。これが、イスラエルの礼拝の形式でした。

 そのような旧約聖書のイスラエルの礼拝を背景にして、主イエス・キリストの十字架が、「完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ」と告白されているのです。その意味を探っていきましょう。

 ヘブライ人への手紙9章と10章では、主イエス・キリストがまことの大祭司となられ、神のみ子としてのご自身の罪のない血を十字架におささげくださることによって、永遠の贖いを全うされ、わたしたちすべての人間の罪を贖い、救ってくださったということを語っています。【9章11~15節】(411ページ)。

 12節に、「ただ一度」という言葉があります。この言葉は、一度だけで完全であるという意味を含んでいます。もはや繰り返される必要がない、一度だけで永遠の働きをする、永久的な効力を持つという意味です。このあとでも、26、27、28節でたびたび用いられています。7章27節にも同じ言葉があります。【7章27節】(409ページ)。

 旧約聖書の時代には、エルサレムの神殿で毎日祭司によって人間の罪のための贖いとして動物の犠牲がささげられていました。動物の犠牲は、人間の命の代わりであり、それはいわば代用品であって、人間の罪を贖うには不完全であり、永続性もなかったゆえに、それは毎日、毎年くり返されなければなりませんでした。それによって、イスラエルは来るべきメシア・救い主の到来によって完成される完全な礼拝を待ち望むようにされたのです。主イエスがヨハネ福音書4章23節で語っておられる、「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」、その時をイスラエルは待ち望んでいたのです。

 しかし今や、まことの大祭司であられる主イエスが来られました。このまことの大祭司は、身代わりとなる動物の命を携えて至聖所に入られたのではありません。父なる神に全き服従をささげられ、ご自身の命を携えて、ただ一度だけ至聖所に入られたのです。そして、動物の命をささげるのではなく、ご自身の命をおささげになりました。もはや、動物の代用品ではありません。罪に汚れた人間の血でもありません。まことの人となられた主イエスが、わたしたち人間のすべての罪の贖いとして、十字架でご自身の神のみ子としての、罪も汚れもない尊い血をささげてくださったのです。その1回の十字架による贖いのみわざによって、すべての時代の、すべての人の、すべての罪が、完全に、永遠に、贖われたのです。主イエス・キリストの十字架を信じる人は、すべてその罪がゆるされ、救われるのです。神による死の裁きから自由にされ、永遠に神との豊かな交わりの中に生かされ、神の国の民の一人とされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪に支配され、死に定められているわたしたちを、み子の贖いによって、罪から解放し、新しい命へと招き入れてくださいました恵みを、心から感謝いたします。わたしたちがあなたの救いの恵みによって生かされていることをいつも覚え、感謝し、信仰の道を従順に歩むことができますように。

〇神よ、この地に主キリストにある和解と平和をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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