3月13日説教「イサクとリベカの出会い」

2022年3月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記24章1~32節

    ヨハネによる福音書4章7~15節

説教題:「イサクとリベカの出会い」

 創世記24章は1節から終わりの67節まで、一続きの出来事が描かれています。題をつけるとすれば、「イサクの花嫁探しの旅」となるでしょうか。創世記の中で最も長い1章であり、また最も美しい物語の一つでもあります。紀元前千数百年代の古代近東地方の生活習慣などが生き生きと描かれています。牧歌的であり、また人間味豊かな物語でもあります。

 物語のあらすじをたどってみましょう。年老いたアブラハムが、息子イサクの花嫁のことを心配しています。自分の故郷である北方メソポタミア地方ハランの地に信頼できる僕を送って、息子にふさわしい花嫁を探してくるように命じます。その僕はハランの郊外の井戸で、美しく心優しい娘リベカを選び、彼女の家に行きます。それが、きょう朗読された箇所までです。33節からは、その僕はリベカの兄ラバンと彼らの父ベトエルに、「リベカを自分の主人の息子イサクの花嫁にしたいので許可をください」と頼みます。彼女の家の者たちは「リベカ自身がそう望むのなら、それが神のみ心ですから、そのようにしてよい」と答えます。リベカ自身もそのことを望んだので、僕はリベカを連れて主人アブラハムの家に帰ります。ただし、このあとにはアブラハムは登場しませんから、花嫁探しの数カ月の間にアブラハムは死んだのではないかと多くの研究者たちは考えています。僕とリベカがカナンに着いた時、イサクは野を散策していましたが、僕とリベカが近づいてくるのを見ます。ここで、初めて二人が顔を合わせ、イサクとリベカは結婚することになります。これが24章のあらすじです。今日のわたしたちが考える花嫁探しとはだいぶ異なりますが、あたかも古い時代の小説の1章を読んでいるように感じられます。

 ここには、花嫁探しという日常的な、また人間的な物語が展開されていますが、しかしその中に、静かに、しかし力強く、主なる神がすべての出来事を導いておられ、主なる神が一人一人をみ心のままに動かしておられ、そのようにして主なる神のみ心が成就されていくということを、わたしたちは見逃すことはできません。この章には、神を表す「主」という言葉が、実に20回以上も用いられているのです。

 冒頭のアブラハムと僕の打ち合わせの場面に主なる神がおられます。1節、3節、7節です。ハランの郊外の夕暮れの井戸のかたわらにも主なる神がおられます。12節、26節、27節。主なる神はリベカの家の中にもおられます。31節、35節、50節など。そして、カナンに帰ってから、野原でイサクとリベカが出会う場面、二人の結婚、ここでは「主」という言葉は用いられてはいませんが、そのすべてに主なる神のお導きとみ心があったということを、わたしたちは容易に信じることができます。

 それらの中で、特に印象的なみ言葉を、あらかじめ2か所読んでみましょう。まず、【27節】。そして、【50~51節】。このようにして、主なる神は彼ら一人一人の人生の歩みのすべてを共にいて導いてくださり、人と人との出会いと結婚をみ心によって導いてくださるということを、わたしたちはこの章から繰り返して教えられるのです。

 神は、主の日の礼拝でわたしたちをみ言葉と聖霊とによって新しい命を注ぎ、信仰の道へと導いてくださるとともに、日々の日常のすべての歩みの中でも、家庭にあっても、職場や学び舎にあっても、旅行や病室にあっても、常にわたしたち一人一人と共にいてくださいます。そして、わたしたちのすべての歩みをとおして、ご自身の救いのみわざを進めてくださいます。

 では、24章の長い物語を、いくつかのポイントになる場面を取り挙げて読んでいきましょう。【1節】。この1節が、24章全体とアブラハムの全生涯に鳴り響き、こだましています。「主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになった」。人の一生の終わりにこの1節が書き加えられるならば、その人は何と幸いなことでしょうか。その人の全生涯が「神の祝福」という一字によって包まれていたとしたら、その生涯は何と幸いなことでしょうか。たとえ、試練や迷いの連続であったとしても、多くの痛みや重荷を背負いながらの日々であったとしても、主なる神が共にいてくださり、祝福で満たしてくださったと信じることができるならば、その人の生涯は何と幸いであることでしょう。わたしたちはアブラハム物語りの最初の神の約束のみ言葉を思い起こします。【12章1~3節】(15ページ)。神はこの約束のみ言葉を確かに守られました。アブラハムの信仰による子孫であるわたしたちのためにも、神はこの約束を果たしてくださいます。

 アブラハムは生涯の終わりに近づき、神の約束が彼の子イサクによって子孫に受け継がれていくために、イサクの花嫁探しを僕に命じます。【2~4節】。「年寄りの僕」とは長くアブラハムの家の僕であった15章2節に出てくるエリエゼルであろうと推測されています。アブラハムが一人息子イサクの花嫁の心配をしているのは、年老いた父親としての責任感からだけではありません。アブラハムがここでイサクの花嫁探しを命じるのは、彼と彼の子イサクが、そしてまたイサクの妻となるべき花嫁が、神の約束の担い手となるからであり、神の約束のみ言葉が彼らをとおして成就していくからなのです。

 6節以下で、アブラハムはこう言います。【6~7節】。イサクとその妻とがアブラハムに与えられた神の約束を担っていくことになるのです。そのために、アブラハムは彼に残されている最後の務めを果たそうとしているのです。

ここでわたしたちは、1節に書かれていたみ言葉の真の意味を知らされます。アブラハムの生涯が神に祝福されているのは、彼が神の約束を担っている信仰者であるからです。神の約束のみ言葉が彼と彼の子孫とによって成就されていくからです。神の救いのみわざが彼と彼の子孫とによって前進していくからです。そこにこそ、アブラハムと彼の子孫が神に祝福されている最も大きな理由が、根拠が、土台があるのです。

 アブラハムが彼の僕に命じたイサクの花嫁探しの条件は3つのポイントにまとめることができます。一つは、イサクの花嫁はカナン人であってはならない、アブラハムの故郷であるメソポタミアの北方ハランに住む人でなければならないこと。二つには、イサクが結婚してもハランに移り住んではならない、必ずこのカナンの地に住まなければならないこと。三つには、もし花嫁として選ばれた人がカナンに来ることを望まなければ、僕はこの命令から自由になり、花嫁探しを中止してもよいということ。

 第一と第二の点について少し触れておきましょう。カナンの地で旅人、寄留者として過ごしている遊牧民族であるアブラハム一家にとっては、カナンの地の娘と結婚する方が、今後の生活の安定のためには有利であると思われます。しかし、アブラハムはそうしません。カナンの地の異教の神々を信じている妻を迎えることは、息子イサクの信仰を危険にさらすことになりかねません。妻への人間的な愛によって、神の約束のみ言葉を捨てることにもなりかねません。それを考えて、アブラハムは自分の故郷のハランの地までの長く遠い花嫁探しの旅を僕に命じるのです。イサクは結婚してから必ずカナンの地に住まなければならないというのも、同じ理由からです。「この地をアブラハムとその子孫とに永久の所有として与える」との神の約束のみ言葉が、イサクの花嫁探しの最大の基準なのであり、またその目的なのです。

 僕はらくだ10頭と主人から預かった高価な贈り物を携えて旅に出発します。カナンからハランまでは北におよそ千キロメートルの長い距離で、どんなに急いでも1カ月以上の旅ですが、聖書はすぐに11節から次の場面に移ります。その場面は僕の祈りによって始まります。【11~14節】。僕のこの祈りは、7節のアブラハムの言葉に対応しています。「神がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子の嫁を連れて来ることができるようにしてくださる」。アブラハムとその僕はこの信仰によって行動しています。この信仰と祈りによって、僕の花嫁探しは始められます。すべては神のみ手に導かれて進行していきます。このあと、イサクとリベカの出会いによって結婚が成立するまで、すべては祈りと神礼拝の中で進められていきます。それを追っていきましょう。【20~21節】。

【26~27節】。【31節】。【48節】。【50節】。【52節】。【56節】。【60節】。

 息子の花嫁探し、あるいは一組の男女の結婚という、日常的で人間的な出来事の中に、何と深く主なる神がかかわっておられることでしょうか。わたしたちの日々の歩みの中でも、いつどこにいても神が共におられ、神がわたしの歩みにかかわっておられるということを覚えたいと思います。わたしが家にいても、家を出てからも、喜びの時も、悲しみの時も、生まれて死ぬ時まで、いな、死んだのちにも、神はわたしをとおしてみ心を行ってくださるのです。

 最後に、イサクの妻となるリベカについてみていきたいと思います。16節に、リベカは「際立って美しい」と書かれています。ここでは姿かたちの美しさのことを意味していますが、この先を読み進んでいくと、それが彼女の内面的な美しさでもあるということが分かります。リベカは見知らぬ旅人と家畜にもたっぷりと水を飲ませるために、何度も水を汲みに井戸を往復する労苦をいとわない親切と愛に満ちています。20節と28節には「走って行った」とあり、非常に活動的で、行動的です。25節では、旅人のために喜んで宿と家畜のえさを提供すると申し出ます。そして58節では、両親や兄との別れの悲しみに打ち勝って、「はい、わたしは夫となるべき人が待つカナンに行きます」と、信仰の決断をします。そのすべては、神のみ心に従順に従おうとする信仰から生まれ出る美しさです。イサクの花嫁となるリベカは神によって選ばれました。イサクとリベカは神によって出会い、神によって結婚しました。そのようにして、二人は神の約束のみ言葉を共に担っていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは恵みと慈しみをもって、わたしたちのすべての歩みに共にいてくださいます。あなたと共にある日々こそが、わたしたちの最も大きな幸いです。願はくは、わたしたちが暗い谷間を行くときも、嵐吹く海を渡る時も、あなたのみ心を信じて、平安のうちに歩ませてください。

〇主なる神よ、この世界にあなたによる平和をお与えください。わたしたちの中にある憎しみや怒り、傲慢や貪欲を取り除き、愛とゆるし、分かち合いと共に生きる道をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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