5月1日説教「エサウとヤコブ - 神の選び」

2022年5月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記25章19~34節

    ローマの信徒への手紙9章6~18節

説教題:「エサウとヤコブ―神の選び」

 創世記12章からの族長アブラハム物語りは25章5節以下に書かれている彼の死をもって、ひとまず幕を降ろすことになります。【5~10節】(38ページ)。この個所について、二つことに触れておきたいと思います。一つは、5節の「全財産をイサクに譲った」というみ言葉です。古代近東諸国では、長男が他の男兄弟の2倍の財産を相続するのが習わしでしたが、アブラハムの実の子はイサク一人ですから、彼が全財産を相続することになります。ただし、ここで重要な点は、イサクは地上の財産を受け継ぐだけではなく、父アブラハムの信仰の財産を受け継ぐのだということです。父アブラハムに与えられた神の契約を受け継ぐのです。すなわち、神の祝福と、星の数ほどの信仰の子孫と、神の約束の地とを受け継ぐのです。これこそが、彼が父から受け継ぐべき最も大切は財産なのです。地上の朽ちるほかない財産をではなく、天の父なる神から賜った信仰の財産を受け継ぐべきであること、このことは、わたしたち一人一人の信仰の家庭にとっても同様だということをまず覚えたいと思います。

 二つには、8節のみ言葉です。「アブラハムは長寿を全うし、……満ち足りて」と、彼の生涯が満たされたことが二度語られ、強調されています。これはいわば天寿を全うしたという意味ですが、より詳しく言うならば、神が彼のために用意された地上のすべての日々が今や終わり、神が彼によって計画しておられた救いのご計画が今や成就したという意味です。アブラハムの生涯を満たすのは主なる神なのです。アブラハム自身は幾度も疑い、挫折し、失敗したとしても、あるいはまた、彼にまだやり残した仕事があったとしても、彼の信仰の生涯を本当の意味で満たしてくださるのは主なる神なのです。それゆえに、アブラハムの死はそれですべてが終わってしまうのではなく、むしろ神の約束が成就される時、神のみ心が全うされる時、神の救いのみわざが前進する時となるのです。神は彼の死をとおしても、ご自身のご計画を成就されるのです。11節にこう書かれてあるとおりです。【11節】。

 アブラハムの死を超えてさらに前進される神の救いのご計画について、19節から始まるエサウとヤコブの誕生の個所を続けて読んでいきましょう。【19~21節】(39ページ)。イサクの結婚に関しては24章に長い花嫁探しの物語として描かれていましたが、彼が父アブラハムの故郷ハランからリベカを迎えて結婚したのは40歳の時でした。この二人の信仰の家庭によって、神の約束が受け継がれていくことになるのですが、すぐにも困難な問題が彼らの前に立ちふさがります。「妻に子供ができなかった」と21節に書かれています。アブラハムと妻サラの場合も、子どもが与えられず、25年間彼らは祈り続けました。イサク自身が両親の長い祈りの末に与えられた祈りの子であったのですが、彼はまた妻リベカに子どもが与えられるようにと祈る者となりました。この祈りは、イサクと妻リベカの課題であるだけでなく、彼らが担っている神の約束の成就のためでもありました。彼らは「お前の子孫を星の数ほどに増やす」と言われた神の約束の成就を共に祈りつつ待ち望む者とされたのです。

 神は彼らの祈りに応えてくださいます。彼らに子どもが与えられたのはイサクが60歳の時であったと26節に書かれていますので、彼らは20年間祈り続けたことになります。神は彼らの祈りに応えられ、ご自身の救いのご計画を推進されます。

 けれども、一つの願いが聞かれてリベカが身ごもってから、すぐにまた別の問題がやってきます。【22~23節】。「これでは、わたしはどうなるのでしょう」とのリベカの叫びは、初めて親になるリベカの不安、また胎内の子どもの異常な動きに対する不安を言い表していると思われますが、同時に、生まれ出る二人の子どもが長子の権利を巡ってその後に繰り広げるであろうさまざまな争いをも、先取りしているようにも思われます。

 リベカは「主のみ心を尋ねるために出かけた」とありますが、どこに行ったのかは分かりません。礼拝の場所か祈りの場所と思われます。困難な課題や悩み、不安を解決してくださるのは主なる神です。

 神のお答えには二つの内容が含まれています。一つは、リベカから生まれる二人の子どもは二つの民族になるということです。一つの民族は、弟ヤコブの子孫であるイスラエルの民です。もう一つは、エサウの子孫であるエドム人です。エドム人は死海(塩の海)の南方に住み着いて、その後イスラエルと長く争いを繰り広げることになります。

二つには、先に生まれた長男ではなく、後に生まれた次男がより強い民になり、兄を支配するようになるということ。この神のお答えには、驚くべき大逆転が語られています。当時の慣習からすれば長男がその家の家督権を持つのが当然で、その家全体を治める権利を有しているにもかかわらず、「兄が弟に仕えるであろう」と預言されているからです。先に生まれたエサウの子孫エドム人ではなく、後で生まれたヤコブの子孫であるイスラエルの民を神は選ばれたのです。

 ここには不思議な神の選びがあります。使徒パウロはこの神の不思議な選びについて、ローマの信徒への手紙9章で語っています。【10~13節】(286ページ)。これは神の憐れみによる選びです(16節以下参照)。人間の善悪や意志やすべてのわざに関係なく、また社会的秩序とか慣習にも関係なく、それらのすべてに先立つ、神の側からの一方的な恵みと憐れみによる選び、それが神の選びであることがここでは強調されています。それゆえに、神に選ばれた人は、神の救いのご計画のために用いられ、神の救いのみわざのために仕える者とされるのです。選ばれた人は、神への感謝と恐れとをもって、神から託された務めを担うことによって、神の選びに応えるのです。これが、アブラハムの選びでした。また、これがヤコブの選びであり、イスラエルの民の選びであり、預言者エレミヤの選びであり、そして使徒パウロの選びでもありました。

 イスラエルの選びについては、申命記7章6節以下にこのように書かれています。【6~8節】(292ページ)。この変わることのない神の永遠の愛がイスラエルの全歴史を導いていました。預言者エレミヤの選びについては、エレミヤ書1章5節にこのように書かれています。【5節】(1172ページ)。それゆえに、エレミヤはたびたびの同民族から迫害の中でも恐れることなく神のみ言葉を語り続けることができました。そして、使徒パウロの選びつついて、彼自身がガラテヤの信徒への手紙1章15節でこのように言っています。【15~15節】(343ページ)。それゆえに、パウロもまた多くの困難や試練の中で、なおも力強く主イエス・キリストの福音を語り続けることができました。

 今日のわたしたち一人一人の選びもまた同様です。わたし自身の何らかの能力とか価値によらず、ただ一方的な神の愛と憐れみによって、この貧しい者であり弱い者であるわたしが神の選びを受け、主イエス・キリストの福音へと導き入れられ、救いへと招き入れられ、神の民とされているのです。ここにこそ、わたしたちの救いの確かさがあり、救われている喜びがあり、そして福音宣教の使命を果たしていく力と希望があるのです。

 では、もう一度創世記25章に戻りましょう。23節には、双子の兄弟であるエサウとヤコブの逆転の運命が、彼らの誕生する前からすでに神によって決定されていることが語られているのですが、その後の二人の生涯は実際にどのようになっていくのでしょうか。

 【24~26節】。先に生まれた兄エサウの説明が「赤い」(これはヘブライ語ではアドモーニー)、「毛深い」(ヘブライ語ではシェーアール)となっていますが、この二つはいずれもヘブライ語の発音がエサウとは一致しません。30節で空腹だった彼が「赤いものを食べさせてほし」と願ったことや、後のエドム人の子孫となったということと関連していると思われます。ヤコブの方は、ヘブライ語のかかとを意味するアーケーブに関連づけられています。ヤコブが生まれた時に兄エサウのかかとをつかんでいたということは、この時からすでに兄エサウを長男の位置から引きずり下ろそうとしていたことをにおわせています。23節の神の預言の成就がすでにここに暗示されているように思われます。ヤコブの本来のヘブル語の意味は「主は守られる」であると考えられます。

 成長した二人の関係はどうなったでしょうか。【27~34節】。わたしたちはここに確かに23節の神の預言がその成就に向かいつつあるということを予感します。それには両親の二人の子どもたちに対する別々の愛、偏愛が大きく作用していることをわたしたちは知らされます。27章で最終的に起こるであろうエサウとヤコブの地位の大逆転がここから始まります。父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛しました。両親の分裂した愛、偏愛が、それは決して子どもの健全な成長にとっては良くないのですが、しかしそのような破れた人間の愛をお用いになって、あるいは人間の破れや罪をもお用いになって、神はご自身のご計画を推し進められるのです。

 狩りから帰って来たエサウは、空腹に耐えきれずに、ヤコブが調理していたレンズ豆の煮ものを、中身が何であるのかも知ろうとせず、「その赤いものを食べさせてほしい」と懇願します。そして、ヤコブの悪だくみに乗せられ長子の権利を放棄しました。ヘブライ人への手紙12章16節では、「ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないように気をつけるべきである」と警告されているように、人間は自分の腹を満たすために神の祝福を捨て、時に人の命をも奪うのです。

 荒れ野で40日間断食をされたのちに悪魔の試みを受けられた主イエスは、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。わたしたちは朽ち果てるもののために生きるのではなく、永遠の命に至る神のみ言葉によってこそ生きるべきであることを、ここで改めて教えられます。

 他方、弟のヤコブは抜け目のない悪賢さを発揮しています。この時とばかりに、兄の長子の権利を奪おうとします。しかも、兄に誓いまでさせて、自分の利益を確保しようとしています。ヤコブのこの行動は、道義的には決して許されるものではありません。兄弟を欺いてまで長子の権利を手に入れることを聖書が勧めているのでもありません。悪や不正を用いてでも神の祝福を手に入れるべきだと聖書が教えているのでもありません。それは、神への忠実な信仰によって、神から賜るものであることをわたしたちは知っています。

 そうであるとしても、神は両親の偏った愛をもご自身のご計画のためにお用いになったように、ここでも兄を出し抜こうとするヤコブの悪だくみをお用いになって、23節のご自身のみ言葉の成就に向けて、あの不思議な神の選びに向けて、救いのみわざをお進めになるのです。

 そのようにして、神はイスカリオテのユダの裏切りや弟子たちの逃亡や、そしてわたしたち人間の罪をもお用いになって、主イエス・キリストの十字架と復活によってご自身の救いのみわざを成就してくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが主イエス・キリストの十字架の血によってわたしたちと結んでくださった新しい契約は、全世界のすべての国民、すべての人々にとっての永遠の真理であり、まことの救いです。神よ、どうかあなたの愛と義と平和がこの世界を支配し、深く病み、傷ついているこの世界をいやしてくださいますように。

主エス・キリストのみ名によって。アーメン。

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