5月29日説教「アブラハムからイサクへ受け継がれた契約」

2022年5月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記26章1~25節

    ヘブライ人への手紙11章17~22節

説教題:「アブラハムからイサクへ受け継がれた契約」

 創世記26章では、アブラハムの子イサクの生涯について描かれています。ほかの族長たちと比較して、イサクについてわたしたちが知ることができる箇所は非常に少なく、イサクを主人公として語っているのは、ほとんどこの26章に限られていると言ってもよいほどです。彼の父アブラハムについては12章から25章前半まで、彼の子ヤコブについては27章から36章にかけて、彼の孫の一人ヨセフについては37章以後創世記の終わりまでに描かれています。イサクについて語られている箇所は26章以外にもいくつかありますが、そこでは必ずしもイサク自身が主人公というわけではありません。

 イサクは偉大な父アブラハムと、兄弟で激しい相続争いをする個性の強い子ヤコブとの、いわば彼らの谷間にいる、目立たない、影の薄い人物であると言ってよいかもしれません。彼を主人公とするこの26章でも、すでに死んでいる父アブラハムの名前が10回近くも出てきます。たとえば、【1節】、【3節、5節】などです。イサクは、いわば父親の七光りによって、わずかにこの26章で、創世記全体の中で通りすがりに取り扱われているように思われます。

 実際、イサクは自分の意志で選び取った運命を歩むよりは、彼の父アブラハムや彼の双子の子どもたち、彼の妻といった、彼の周辺の人々の運命の中で翻弄された人生を歩んできました。イサクはまだ若かった時、父アブラハムによって、燔祭のたきぎの上に横たえられました。父親となってからは、双子の子、エサウとヤコブの相続争いと、それに加わった妻リベカのたくらみに対して、なすすべもなく、ついには年老いて盲人となり、次男ヤコブと妻リベカの策略によってだまされ、長男に与えるべき祝福を次男ヤコブに与えてしまうという失態を行うことになりました。そのことについては27章に語られています。イサクは人間として、父親として、また信仰者としても、破れや弱さをいっぱい持っていました。

 しかし、そうでありながらも、神は彼を決してお見捨てにはなりません。いな、神はそのようなイサクをお用いになって、ご自身の救いのみわざを前進させられます。3~4節にこのように書かれています。【3~4節】。そして、24節でも。【24節】。神の約束は、人間として、父親として、また信仰者として、弱さや欠けをたくさん持っているイサクに与えられます。神の祝福がそのようなイサクに受け継がれます。神の約束の地カナンが、そのようなイサクに約束されています。天の星の数ほどの子孫が、そのようなヤコブを父として持つと約束されています。父アブラハムに与えられた神の約束が何一つかけることなく、そのようなヤコブに完全に受け継がれていくのです。父アブラハムの主なる神は、全く同様にそのようなイサクの主なる神であられるのです。神は、そのような弱さや欠けを持つヤコブの神であられることによってこそ、ご自身の大きな恵みとご栄光とを明らかにされます。人間が弱い時にこそ、神はご自身の力を現わされます。

 では、【1~2節】を読みましょう。アブラハムもカナンに移り住んで間もなく飢饉にあいました。彼は食料を求めて家族と共にエジプトに移住しました。イサクも父と同じようにエジプト行きを考え、パレスチナ南方のゲラルへと向かいました。しかし、イサクの場合は、神によってエジプトへの道をさえぎられました。父アブラハムの場合には、神はあえて彼のエジプト行きを止めることはなさいませんでしたが、その子イサクにはエジプト行きをお許しにはなりませんでした。なぜ神はそうなさったのでしょうか。こう推測することができます。イサクは父アブラハムほどには人間としての意志も決断力も強くはないので、異教の地エジプトへ行ったらきっと信仰をなくしてしまうに違いないと神はお考えになり、イサクをその危険から守られたのだと。その推測は間違ってはいないだろうと思います。神は信仰の弱い人に対してはそれなりの手を打ってくださり、その人を守るために危機の時にみ言葉を語ってくださいます。それゆえに重要なことは、その人が強い人間であるか、弱い人間であるかではなく、神は常にその人に必要なみ言葉を語ってくださるゆえに、わたしたちがそれに聞き従うべきであるということなのです。イサクは神のみ言葉に従い、エジプト行きを思いとどまったゆえに、神との契約の中で生き続け、神の祝福を受け継ぐ人となったのです。

 多くの弱さと欠けを持っていたヤコブは、飢饉と空腹の中で主なる神のみ言葉にすべてを委ね、信頼すべきことを学ばされるのです。そのために、約束の地カナンに留められます。彼が神に服従し、その地に留まる時に、神は常に彼と共におられ、それゆえに神の祝福は彼を離れず、彼は神の約束のすべてを受け継ぐことになるのです。たとえ、彼がエジプトでその空腹が満たされ、富める者になったとしても、彼が神のみ言葉に聞き従わず、それゆえに神の祝福を受け継ぐことができなかったなら、彼は神なき空しい人生を送るほかになかったでしょう。

 主イエスはマタイ福音書5章の山上での説教で言われました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と。ここでわたしたちはこう言うことができます。「貧しさの中で神に聞き従ったイサクは何と幸いであることか」と。神は彼にこのように約束されるからです。もう一度、2~5節を読んでみましょう。【2~5節】。わたしたちはここで、神の約束がどのようにしてアブラハムからイサクへと受け継がれていくのかを、注意深く確認してみましょう。

 第一に言えることは、神の契約がアブラハムからイサクへと受け継がれるのは、イサク自身の何らかの条件や資格にはよらないということです。彼が強い人間であるか弱い人間であるかによらず、あえて言うならば、彼が弱く、欠けの多い人間であるにもかかわらず、また彼には何の業績もないのに、父アブラハムの信仰と従順によって、アブラハムへの神の約束が何一つ欠けることなくそのすべてが受け継がれるということです。先に、そのことを親の七光りと表現しましたけれど、しかし、本当にすべては父アブラハムのゆえになのでしょうか。わたしたちはそこを厳密にみていく必要があります。

 3~5節の文章の実際の主語、実質的な主語はすべて「わたし」、すなわち主なる神です。3節では、「わたしはあなたと共にいる」。「わたしがあなたを祝福する」。「わたしはこれらの土地のすべてをあなたとあなたの子孫とに与える」。「わたしがあなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを果たす」。4節も同様です。5節でも、「わたしの声に聞き従う」。「わたしの戒め、わたしの命令、わたしの掟、わたしの教え」と、わたしが何度も強調されています。すなわち、正確に言うならば、アブラハムのゆえにではなく、神が彼に語られたみ言葉のゆえに、神の約束のゆえに、その神のみ言葉が永遠に変わらないゆえに、アブラハムへの約束がそのまますべてイサクへと受け継がれているのです。親の七光りのゆえにではなく、アブラハムのゆえにではなく、アブラハムが信じた主なる神ゆえにと言うべきです。神の永遠に変わらない恵みと愛のゆえにと言うべきなのです。この神こそが偉大なのです。この神こそが、信じたアブラハムを偉大な信仰の父としているのです。そして、この神こそが、今ここで弱く欠けの多いイサクをも万国の祝福を受け継ぐ信仰者としているのです。

 7節からは、イサクがゲラルの王アビメレクに対して、妻のリベカを自分の妹だと偽ったことが書かれています。【7節】。父アブラハムはエジプトに移住した時に同じようなことをしたと12章10節以下に書かれていました。また、20章には、同じゲラルの王アビメレクの前でもアブラハムは妻のサラを自分の妹だと偽って自分の命を救おうとしたと書かれていました。アブラハムは同じ過ちを2度繰り返していましたが、その子イサクまでもがその父の欠点を受け継いで、同じ過ちを繰り返しています。

 アブラハムのところでも説明しましたように、定住の土地を持たない遊牧民であった族長たちは、新しい土地では特に住民としての法的な権利を持っていませんから、美しい奥さんを持っている男はその命をねらわれ、奥さんを奪われても何の保護も期待できません。そこで、アブラハムもイサクも自分の妻を妹だと偽って、その土地の王や指導者に気に入られ、その奥さんにしてもらえれば、自分もまた王からよい待遇を受けることができると考えたのでした。自分の命と利益を守るために自分の妻を売り渡し、犠牲にするような愛のない、非人間的な行為と言わざるを得ません。いや、それだけでなく、共に神の約束を担っている夫婦であり、「あなたがたの子どもから多くの子孫が生まれ、祝福が受け継がれていく」と言われた神の契約に背く不信仰であったということを、わたしたちはこれまでも確認してきました。

 けれども、今回もまた、神はイサクとその妻リベカを守られました。それによって、ご自身の契約を守られました。事態が悪化する前に、イサクとリベカが夫婦であることがアビメレク王に分かってしまい、王は二人を保護することになりました。ここにも、隠されたお姿で主なる神が働いておられるのに違いないとわたしたちには推測できます。

 実は、8節で「ペリシテ人の王アビメレクが窓から下を眺めると、イサクが妻のリベカと戯れていた」と書かれている「戯れる」というヘブライ語はイサクが誕生した時に、百歳のアブラハムが「神はわたしに笑いをお与えになった」と言ったときの「笑う」という言葉と同じです。神はイサクと妻リベカの信仰の危機の時にも彼らに「笑い」をお与えになったということがここでは暗示されているのです。

 【12~14節】。飢饉のあとには豊作がやってきます。飢饉も豊作も神のみわざです。神は違った方法によってではありますが、飢饉の時にも豊作の時にも恵みをお与えくださいます。しかしまた、飢饉の時もそうであるように、豊作の時もまた誘惑と試練が待っています。

 15節に「ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた」と書かれているのは、イサクを妬んだペリシテ人の報復だったと考えられます。豊かになったイサクはペリシテ人との争いに巻き込まれてしまうのでしょうか。

でも、多くの弱さと欠けがあってもたびたび神によって守られてきたイサクは、もはや争いによって勝利しようとはしません。「ここから出て行っていただきたい」とのアビメレク王の求めに応じて、彼はその土地を去ります。イサクはまだその土地の所有者ではありません。旅人、寄留者です。いつでもその土地を手放す用意があります。神の約束の確かさがあるからです。

 その後も、井戸を巡ってのペリシテ人との衝突が何度も続きますが、そのたびにイサクは彼らと争わず、平和の人としての放浪の旅を続けます。神によって豊かに富む人は、いつでもそれを神の平和のために捨てることができる人でもあります。そして、ついにイサクは神からの平和を与えられました。最後に22節以下をもう一度読みましょう。【22~25節】。これが、多くの人間的な弱さや欠けを持っていたイサクの生涯です。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが族長アブラハム、イサク、ヤコブの生涯をお導きくださったように、また、イスラエルの民の信仰の歩みをお導きくださったように、そしてまた主イエス・キリストによって建てられた秋田教会の130年の歩みをお導きくださいましたことを覚えて、心からの感謝をささげ、み名をほめたたえます。どうかこの群を憐れみ、豊かに祝福し、あなたのご栄光を現わす教会としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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