7月31日説教「神の委託事業」

マタイによる福音書25:14-30「神の委託事業」 2022.7.31 神学生 熱田洋子

今日の聖書の箇所は、「ある人が旅行に出かけるとき、しもべたちを呼んで自分の財産を預けた。」というところからはじまります。この直前を見ると「あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」いうたとえ話しがあって、その話につながって書かれています。ですから、この箇所も、天の国のたとえ話しであること、今は、天に上がられた主イエスが再び来られるのを待っている時ということができます。ここに、ある人、主人として登場するのは、主イエスのことで、しもべたちは、主イエスの弟子たちのことです。主人は出かけていて、ここにはいません、その時はわからないのですが、必ず帰って来ます。それまでの間、しもべたちだけが残されています。出かけるに当たり、主人はしもべたちに、自分の財産を預けます。主人が帰ってきた時に、それをどのように用いたのか、しもべたちは、主人の前で、清算をすることになります。その時は、弟子たち、そして、わたしたちキリスト者にとって終わりの日の審判の時です。主が来られた時に、わたしたちは、主の前に立って、キリスト者として生活してきたことを報告し、主イエスから、それが御心にかなっていたのかどうか判決を受けることになります。このたとえ話から、その時の備えとしてわたしたちに示してくれることを、ご一緒に聞いていきたいと思います。

このとき、しもべたちは主人に呼ばれて、主人からタラントンを預けられます。15節に、「それぞれの力に応じて」とありますので、主人は誰にも多すぎる要求をしていないことがわかります。そのことは、11章30節に、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われているとおりです。

さて、このタラントンとはなんでしょうか。タラントンは神の賜物のことで様々なものがあります。わたしたちは一人ひとり、顔や姿、性格、考えていること、役割などが違っています。それと同じように、神の賜物も一人ひとりそれぞれに種々あるということです。タラントンを額の大きさでいうと、1タラントンは、当時の1日の賃金の6,000日分に相当するくらい大きいものです。ここでは、教会と弟子たちに預けられた賜物がどれほど貴重なものであるかを気づかせるために額で示されています。それらのすべては神から預けられたものですから、主人のために用いるのはもちろんのことです。そのことを知っておくことが大事です

こうして、弟子たちは主イエスからタラントンを預けられましたが、これまで従ってきた主がいない今、どのような働きをすることになるのでしょう。まず、弟子たちは、主と共にいた時のこと、主がどのような方であったのかを振り返ります。そして、主が教えてくださったことにならうことになるのです。主イエスは弟子たちと一緒にいた時に、弟子たちの足を洗ってくださったことを思い出します。そのことによって、弟子たちに、互いに足を洗い合うようにと模範を示されました。ヨハネ13章に記されています。そして、神の独り子である主イエスは、父なる神の御心にまったく従われて、罪人のわたしたちを罪から救うため十字架にかかり、わたしたちを贖ってくださいました。わたしたちを愛し、わたしたちのために命を差し出してくださった主のことを弟子たちは思い出し、主の働きである神と隣人に仕えていくのです。

み言葉に、「自分の十字架を取って、わたしに従わない者はわたしにふさわしくない」とあります。10章39節です。働きをするに当たり、弟子たちは、このみ言葉によって、主に忠実に従っていくことを心に決め、時には自分の命の危険があるかもしれないことも覚悟したことでしょう。

 その際、主イエスは、弟子たちに、単に、タラントンを残しただけではありません。それとともに、主イエスご自身が持っておられたものを弟子たちに託されます。すなわち、主イエスの御霊により助けがあること、たくさんのみ言葉によって支えられること、主の平和と平安が残されていること、主イエスの御名で祈ること、また、一人ひとりは神の子とされているので神の憐れみのうちにあることも弟子たちに与えられます。

 この時、しもべたちには進むことのできる二つの道があります。

 5タラントン預けられたしもべと2タラントン預けられたしもべは主人の意図したことをよくわかっています。それで、二人のしもべたちは、主人から預けられた賜物を働きに生かし、新しいものを作り出すことであると真剣に受け止めています。主に服従し、主が来られるのが早くても遅くても関係なく、その時のために備えようという姿が見られます。二人は早速この働きを始めます。

16節に「商売する」とありますが、ここでは必ずしも金を稼ぐことではありません。神から預けられたものを有益に用いようとするとき、そのために努力したり力を発揮することになります。そのような努力や力というような賜物は商品とみなされます。そのことによって生み出される利益は、人々を救いへと導いて神の栄光を示すものとなり、それがさらにタラントンを増やしていくことになると考えられているからです。

 一方、1タラントンを預けられた第三のしもべは、このような二人とは違って主のために働くことを拒否します。このしもべは天の国に預かりたいと願ってはいますが、主イエスのものを増やそうとせず、主イエスを崇めようともしません。また、自分が預かったものを他に与えようともしていません。思うこと、行うことが他の二人のしもべとは正反対です。

主イエスは、ご自身の働きを共に行うようにすべての人を招いておられます。その際、働きがさまざまに違っていることを主はご存じですので、一人ひとりに授けられたものを知って、それを大切にして精一杯のことを行うことがわたしたちにできることです。主は働きの大小ではなくその人の心根をご覧になっています。そう考えると、第三のしもべのように、主から預けられた賜物を自分のためだけに持っていることはその福音を無にすることで、わたしたちがそれを広く隣人に与える時にのみ主のために用いたと言えるのです。

 やがて、長い時間が経ち、主人が来て、しもべたちと清算をはじめます。ここでしもべたちは主人に忠実であったかどうかが問われます。

まず、5タラントン預かったしもべと2タラントン預かったしもべは、主人の前に、働きの実を差し出します。そうすると、主人は、二人を忠実な者とみなされます。それまで働いて稼いだ額の大きさは関係なく、報酬は倍になり、主人と一緒に喜びに招かれます。二人は主人の意図したことに従って働いた奉仕者にすぎません。預けられたものはもともと主人のものであり、忠実であったことから生み出したものも含めて主人に返すことになります。このようにしもべたちの働きは自分たちの手柄ではありません。

二人は「少しのものに忠実であった」と言われています。この世での業、努めは、主イエスの持っておられるものや天の国におけるものと比べると少しのものなのです。そのように少しのものでも、主は忠実であったと受け取られ、天の国のはるかに大きな喜びと祝福を与えてくださいます。小さな働きに用いられた賜物も神の栄光のために生かされていくということを覚えておきたいと思います。これは、5章15節・16節のみ言葉に、「燭台の上にあなた方の光を輝かせなさい。あなた方の立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである」ということに表されています。

 一方、第三のしもべは、主人の厳しさを恐れたために働きをしなかったと言って、自分をよしとし、正しいとしています。キリスト者の義務を忘れ、それを厳しい働きとさえ呼んでいます。もとより主人が彼に財産を預けたことに感謝もありません。主を愛すること、主に服従することを嫌がり、命を脅かされるのは避けたいとして主に従おうとしない姿は、臆病なものと言われています。

 このしもべのように、わたしたちが主を愛することを忘れて主を非難するなら、主イエスが再び来られる時、わたしたちは、いのちと栄光を勝ち得るでしょうか。このしもべは、主人は厳しいと言っていますが、教会のキリスト者たちは、彼らの主が柔和で、彼の「軛は負いやすい」こと、湖で溺れ死にそうになった時には、ともにいて助けてくれることを知っています。そして、忠実なしもべたちを祝福し、彼らの働きのゆえに喜びを分かち合いさらに高い務めを授けているのですから、少しの働きでも無駄になることはないのです。

主から預けられたということは、その賜物は貴重なもので、それを十分に利用して主の働きのために生かすことをキリスト者に求められています。それは神の委託事業と言えるのではないでしょうか。神から信頼されてその事業を預けられたことを感謝して、自分のためではなく、主イエスのために働き、その結果を清算することになります。わたしたちは、主に対する愛をもって、神に仕え隣人にも忠実に倦むことなく仕えることに精一杯励みます。そのようにして神の委託に応えることになるからです。

さらに第三のしもべの言い逃れは難しいことが示されます。

第三のしもべについて詳しく書かれているのは、主に忠実でないということはどういうことで、その結果、清算のとき主の判決がどのようにくだされるのかをわたしたちに気づかせるためと考えられます。

このしもべのように、主から預けられたタラントンを地に埋めて隠すことはしてはならないのです。少なくとも銀行に持って行っていれば、利子を産んだろう、また、自分でしないなら他の人に渡して働かせることもできただろうに、と言われます。このことからも、主イエスからわたしたちの中に点された愛から出てくる愛の働きを覆い隠してはならない、おろそかにしてはならないことがわかります。み言葉に「神の戒めを守ること、これが神を愛することだからです。その戒めは難しいものではありません。」とあります。ヨハネの手紙一5章3節、訳は協会共同訳です。そのとおりです。

 そして、この不忠実なしもべにも判決が言い渡されます。他の二人の忠実なしもべに対する判決と正反対になっています。他の二人のしもべのために主人がその働きを祝福し、喜びを分かち合ったこととまったく逆に扱われていきます。第三のしもべは、預けられたものを取り上げられ、さらにそれまで持っているものまで取り上げられ、闇の中に放り出されます。忠実なしもべたちは、新たにもっと大きなものを与えられ、主人の喜びに招かれているのと比べて恐ろしいほどの違いです。主イエスは忠実なしもべたちをご自分のものとして御許に引き上げられますが、第三のしもべのように賜物を必要としないならば、その賜物まで取り上げられて、さらに天の国に入れられません。このようにならないためには、神の賜物を休んだままにしておいてはならないのです。それを生かし、わたしたちは働かなければならないということです。

このようにしもべたちに対する審判を見てくると、わたしたちキリスト者にとって、審判の時はとても大事な時としていつも備えていることが必要であることを思わされます。わたしたちは主の前で、この世でどのような生き方をしてきたのかによってさばきを受けることになるからです。主イエスがどのように判断をされるのか、聖書の中の、金持ちとラザロの話、ルカ福音書16章にありますが、その話が頭に浮かびます。ここでは、金持ちと、その門前に横たわっていた貧しく悲惨な状況のラザロが比べられます。やがて、ラザロは死んで、天の国の宴席に連れて行かれますが、一方の金持ちは死んで、陰府でさいなまれています。金持ちは、憐れみを大声で求めるのですが、金持ちに「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。」と言われて、ラザロには慰めが与えられているのに、金持ちは、憐れみから外され、もだえ苦しむままに置かれます。この時、主イエスは、金持ちに対して、そばにいたラザロに助けが差し迫って必要だったのに、愛の働きをする機会であることに気づかず、目もくれなかったことをさばいておられるのです。第三のしもべが、預けられた賜物を隠して、主の働きに用いようとしなかった姿に通じるものがあります。また、この話から、わたしたちは、もう一つ大事なことを気づかされます。天の国にはラザロにも喜びの宴席が用意されているということです。主イエスは、この世の業や働きをご覧になるだけではなく、そのようなことに関われないラザロのような一人ひとりにも目をとめておられ、そのままに天の国に迎え入れ、憐れみ、慰めを与えてくださっています。神はどのような一人をも分け隔てをなさらないで救いへ招き入れくださるのです。わたしたちにははかり知ることのできない神の恵みの深さを覚え主を崇めます。

29節に、「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」とは、どういうことを言っているのでしょうか。この時代、ローマ社会において、「金持ちはますます金持ちになり、貧しい人はますます貧しい人になる」と一般に言われていたようです。当時の資本主義社会では起こりえることだったのでしょう。ここでは主イエスは全く違って、わたしたちキリスト者に福音的な意味で語っておられます。わたしたちは与えられている恵みを感謝している一人ひとりです。たくさん与えられている人は、感謝が増していき、さらに恵みもより豊かになるのです。一方、恵みが感謝に価するものだと気づかなければ、感謝が乏しくなって、さらに無駄にしてしまうことになる、ということだと思われます。神からのタラントンについても、この世で多くあっても天の国では少ないものとはいえ、それは神から与えられるものです。そのことを神に感謝して生かしていくとき、タラントンは増えていくのです。

わたしたちは神からさまざまな賜物を授けられていることを感謝します。

わたしたちは神と人を愛し、神と隣人に仕えるために

わたしたちはそれぞれの賜物を十分に用いているでしょうか

わたしの持っているものは小さくて、とても役に立たないからと思って、しまっておいたりしてはいないでしょうか。

主は、今日の聖書の箇所に続く35節で「わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」、最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだと、言われます。そして、この働きをした正しい人たちは永遠の命にあずかるのです。

一人ひとりにその人の能力に応じたタラントンを授けられています、主に忠実に従って神と隣人に仕えていくとき神の国で祝福が用意されていきます。

わたしたちには小さいと思える働きも、神に感謝して行っていくとき、忠実なものとして喜んで受け入れ祝福してくださるということをこの箇所から学んできました。

主イエスがわたしたちに与えてくださったものを、たといそれが少なかろうと多かろうと信仰深く、感謝に満ちて忠実に受け止め、主の栄光のために役立てていきたいものです。

お祈りします。

天の父なる神様。わたしたちに委ねられた賜物を感謝して、神と隣人に仕えていくことができるよう、私たち一人ひとりに聖霊を注いでください。

世界の中、戦火のもとで、また虐げられて、嘆き苦しんでいる人々の声を

主よ、お聞き入れください。各国の為政者たちが、民の命を守り、平安な生活を支えることを第一として道を選ぶように、平和への働きかけをする人たちに力を与えてください。そして平和の神のご支配が世界中にあまねく行き渡りますように。私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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