8月7日説教「平和を告げ知らせる使者」

2022年8月7日(日) 秋田教会主日礼拝(世界平和記念礼拝)

聖 書:イザヤ書52章7~10節          (駒井利則牧師)

    エフェソの信徒への手紙2章14~22節

 8月6日は広島原爆記念日、8月9日は長崎原爆記念日、8月15日は終戦記念日、少しさかのぼって6月23日は沖縄戦の組織的戦闘が終結した記念日、わたしたちは日本に住む者として、これらの記念日を覚え、平和への願いと祈りとを特に強くしています。そして、いつの時代にも思うことは、わたしたちの祈りにもかかわらず、現実のこの世界は、いつもどこかで戦いと殺戮と破壊とが絶えることなく、今もまたそうであるということを、わたしたちは認めざるを得ないのです。しかし、たとえそうであるとしても、わたしたちは一人の地球人として、それ以上に一人のキリスト者として、日本とアジアと世界に、真の平和が訪れる時が来ることを信じつつ、祈り続けるようにと神に命じられています。

主イエスはマタイ福音書5章9節の山上の説教でこう言われました。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。キリスト者はすでに主イエス・キリストによって罪ゆるされ、神の子どもたちとされているのですから、平和を実現する幸いへと招かれているということを強く覚えたいと思います。きょうの世界平和記念礼拝では、聖書で教えられている真の平和についてご一緒に聞き、平和を実現する人としての祈りをより一層強くしたいと願います。

 イザヤ書52章7節にこのように書かれています。【7節】。ここには、イスラエルの民に良い知らせを伝える使者の足の美しさが強調されています。使徒パウロはローマの信徒への手紙10章15節でこのイザヤ書のみ言葉を引用して、主イエス・キリストの福音を宣べ伝える使者の足の美しさについて語っています。きょうは旧約聖書の良い知らせを伝える使者と、新約聖書の福音を宣べ伝える使者について、そのよい知らせ、その福音の内容は何か、またそれを伝える人の足が美しいと言われているのはなぜか、そのことを聖書のみ言葉から聞き取っていきたいと思います。

 ではまず、イザヤ書の方から読んでいきましょう。7節冒頭の「いかに美しいことか」は美しさを強調していますが、ヘブライ語では「まあ」と発音します。日本語とよく似ていますね。「まあ、なんて美しいんでしょう」「これほどに美しい足はほかにはない」と言う意味です。なぜ美しいんでしょう。それは、彼の足が「良い知らせ」を運んでいるから、その人が良い知らせを伝えているからです。

 では、そのよう知らせの内容は何か。次に続いて書かれているように、それは「平和」であり「恵みの良い知らせ」であり「あなたの神は王となられた」ということです。さらに8節以下に書かれているように、「主がシオンに帰られるから」であり、「主がその民を慰め、エルサレムを贖われた」からであり、「主は聖なる御腕の力を国々の民のめに現わされたから」であり、そしてまた「すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ」からであると説明されています。

 これは具体的にはバビロン捕囚からの帰還という出来事を語っていると考えられます。紀元前6世紀ころのイスラエルの歴史について少し説明しましょう。旧約聖書の民イスラエルは主なる神に選ばれ、神と契約を結び、主なるお一人の神だけを礼拝する信仰の民でしたが、やがて彼らは異国の神々をも礼拝するようになり、主なる神に背いて罪を犯したために、神の厳しい裁きを受けて、国は滅ぼされ、エルサレムの神殿は焼き払われ、王も指導者も民たちも捕虜となり、1千キロも離れたバビロンの地に捕らえ移されました。これをバビロン捕囚と言います。

 けれども、主なる神は罪のイスラエルをお見捨てにはならず、60年後には彼らを再び故郷の地イスラエルへ、神殿があったエルサレムへ(8節ではシオンと言われていますが)連れ戻すであろうという預言を、預言者イザヤの口を通してお語りになりました。その預言がイザヤ書40章から何度も繰り返して語られているのです。51章から52章のきょうの個所でもバビロン捕囚からの帰還が預言されています。そして、良い知らせを伝える者とは、このバビロン捕囚からの帰還、捕囚の地からの解放、神の救いのみわざを伝える預言者イザヤ自身のことを語っていると考えられます。

 では、その預言者イザヤの足がことさらに美しいと言われている理由について考えてみましょう。それは彼自身が健脚であるとか速く走れるからという理由によるのではなく、彼が持ち運んでいる知らせ、彼がイスラエルの民に伝えるようにと神から命じられている救いの恵みが何にもまして美しく、喜ばしく、高価で尊いものであるからにほかなりません。彼が持ち運んでいる神の救いの良い知らせこそが、彼の足を強くし、たくましくし、美しく光り輝く足にしているのです。

 ここで、足は象徴的な意味を持っています。つまり、預言者の足とは彼自身、彼全体を象徴していると考えられます。彼が一人の預言者として、一人の人間として美しい、尊い存在であるということです。それは彼が神の救いのみ言葉、解放のみ言葉、平和のみ言葉を神から託されているからであり、それをイスラエルの民に語るようにと命じられているからなのです。

イザヤ書を読むと、多くの場合、人々はイザヤの預言に耳を傾けませんでした。時に、彼は民から迫害を受け、大きな苦悩を味わいました。伝説によれば、彼は民に迫害され、殉教したと伝えられています。彼の生涯は決して美しくはなく、汗と涙と労苦とに染まっていたと言えます。けれども、そうであるにもかかわらず、彼が神の救いのみ言葉を持ち運ぶ務めに忠実である時に、彼は最も美しく、最も幸いであり、最も祝福されているのです。

 7節には、「良い知らせ」、「恵みの知らせ」、「救いを告げる」などの言葉と共にで「平和を告げ」という言葉があり、これらがこの1節の中に同じ意味を持つ言葉として並べられています。イザヤ書では、また聖書では「平和」をどのように教えているのかを、これらの言葉を参考に見ていきましょう。

 ヘブライ語の平和は「シャローム」と発音します。このヘブライ語は旧約聖書では非常に重要な言葉であり、230回余り用いられています。日本語では多くは「平和」と訳されていますが、「平安」「繁栄」「健康」「和解」などとも訳され、広い意味を持っています。欠けているところがない状態、満たされている状態を言い表している言葉です。ですから、単に戦争や争いがないというだけでなく、7節のほかの言葉のように、それは良い状態のこと、神の恵みに満ちている状態、神の救いと解放が実現している状態、そして主なる神が唯一の王なる神として支配している状態、それを平和、シャロームというのです。

 わたしたちはこの点から、今日の世界の平和とは何か、世界の平和のためにわたしたちはどう祈るべきか、そして主イエスが山上の説教で教えられた平和を実現する人々とはどのような人のことかをさらに深く探っていきましょう。

 新約聖書では平和についてどう教えられているのでしょうか。エフェソの信徒への手紙2章14節では、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と厳かに、力強く語られています。主イエス・キリストこそが唯一の、真実の、永遠の、わたしたちすべての人たちの平和であるという意味です。また、主キリストがわたしたちのために平和を創造し、わたしたちをその平和の中に招き入れ、あらゆる意味でのわたしたちの平和の源となられたということです。

 では、その主キリストの平和はどのようにして生み出され、与えられたのかについて、この手紙は14節後半から16節で、このように説明しています。【14節b~16節】(354ページ)。

 ここで教えられている重要なポイントをいくつかにまとめてみましょう。一つは、主キリストによる平和が実現される以前は、人間はみな互いに敵意という隔ての壁を持ち、二つに分断されていた。それゆえに、人間たちの間には、この世界には、平和がなかったということがあらかじめ暗示されているのです。聖書はそれを罪と言います。1章7節にこのように書かれています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪ゆるされました」。これが、神のみ子主イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖われ、罪をゆるされたわたしたちに与えられている恵みのことです。この恵みを与えられる以前には、わたしたちはみな神と敵対し、互いにも敵対していた罪びとたちであったのです。つまり、人間社会は、この世界は、罪に支配されており、互いに敵意を持ち、互いを分断し、そこには真の意味での平和はなかったということを聖書は言っているのです。真の平和とは何かを考えるにあたって、わたしたちはまず人間の罪の現実について知らなければならないということを教えられます。

 二つ目のポイントは、罪とは人間とこの世界の分断した状態を言うのですが、その罪の源は神と人間との分断にあるということです。18節に「神と和解させ」と書かれているように、主キリストは神とわたしたち人間とを和解させるために十字架で死んでくださったのです。神と人間との間を隔てていた罪という壁、断絶、分断を取り除き、神と人間を和解させるためには、罪のない神のみ子主イエス・キリストの清く尊い十字架の血が流されなければなりませんでした。その神のみ子の血によって、わたしたちの罪が完全にあがなわれ、わたしたちは罪の奴隷から解放され、神の子どもたちをされるのです。

 神と人間との和解があるところに、人間同士の真実の和解が成立します。共に一人の主なる神によって罪ゆるされている共同体としての和解と一致、平和が与えられるのです。人間と人間の間にあった敵意という壁は取り除かれ、お互いを神からの罪のゆるしの恵みをいただいている人たちとして認め合い、一つの罪ゆるされた共同体とされるからです。

 真の平和はこのようにして、主キリストの十字架の死による罪のゆるしを土台としているということをわたしたちは教えられます。イザヤ書で教えられていたバビロン捕囚からの帰還によって与えられる平和にも、イスラエルに対する神の罪のゆるしが土台となっていたことにあらためて気づかされます。真の平和は、旧約聖書においても新約聖書においても、神による罪のゆるしの恵みの上に基礎づけられていることをわたしたちは教えられます。

 預言者イザヤはイスラエルの救いの福音を携え、それを持ち運ぶ預言者であったので「その足は何と美しいことか」と言われていました。使徒パウロがそのみ言葉を引用したとき、主イエス・キリストによるすべての人の罪のゆるしの福音を宣べ伝える人の足はそれ以上に美しいことを強調していたのです。

 最後にもう一つのことを付け加えたいと思います。イザヤ書では救いの福音、平和と並んで、主なる神が王となられたことが言われていました。神が全世界の唯一の王としてご支配されるところ、そこに世界の平和が打ち立てられます。人間一人一人が小さな王となるところには、平和は成立しません。すべての人が主なる神のみ前にひれ伏し、恐れおののき、神のみ前に罪の自分が打ち砕かれなければなりません。神への真の恐れのあるところにこそ、真の平和が実現するのです。

 わたしたちは主イエス・キリストの十字架による罪のゆるしの福音を聞き、その福音を携えて、きょうの礼拝からこの世へと派遣されます。平和の福音に生きる人として、平和の福音の証し人として、平和の福音を宣べ伝える使者として、この世界へと派遣されていくのです。

(執り成しの祈り)

○ご一緒に「世界の平和を願う祈り」をささげましょう。

【世界の平和を願う祈り】

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 「聖フランシスコの平和の祈り」から

2022年8月7日

日本キリスト教会秋田教会「世界の平和を祈念する礼拝」

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