9月18日説教「風と荒波を静められた主イエス」

2022年9月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編107編23~32節

ルカによる福音書8章22~25節

説教題:「風と荒波を静められた主イエス」

 ルカによる福音書8章22節からこの章の終わりまでには、主イエスによる4つの奇跡のみわざについて語られています。22~25節には、ガリラヤ湖の風と荒波を静められた奇跡。26~39節には、ガリラヤ湖対岸ゲラサ人の地方で悪霊に取りつかれている男の人から悪霊を追い出し、いやされるという奇跡。次の40~56節には、12年間出血が止まらず、長血を患っていた婦人をいやされた奇跡と、会堂司ヤイロの娘を死からよみがえらせたという奇跡。

 主イエスはこれらの奇跡によって、ご自身が神のみ子としての主権と権威と力とを持っておられ、自然と世界のすべてを支配しておられること、また悪霊やすべての病気、そして人間の死をも支配しておられることをお示しになられました。それと同時に、神の国が、神の恵みのご支配が、主イエスの到来と共に始まったのだということをお示しになりました。

 きょうは、その最初の奇跡のみわざについて学んでいきましょう。【22節】。湖とはガリラヤ湖のことです。ガリラヤ湖の北西沿岸の町カファルナウムは主イエスのガリラヤ伝道の拠点でした。向こう岸とは、湖の東側の地方で、そこはデカポリス(10の都市という意味のギリシャ語)と呼ばれる地方で、多くはユダヤ人以外の異邦人が住んでおり、当時はローマ政府が直接支配していました。

 主イエスは何のためにこの地方へ行こうと言われたのでしょうか。続く26節以下には、「ガリラヤ湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」と書かれてあり、この地で悪霊に取りつかれている男の人から悪霊を追い出されたという奇跡のみわざが39節まで書かれていますので、これが主イエスの旅の目的であったと推測できます。主イエスが悪霊に取りつかれている男の人と出会ったのが偶然であったとしても、彼をおいやしになってからすぐにこの地方から立ち去っておられますので、結果的にはこの一人の人のいやしの奇跡を行うことが、この地にやって来られたことの目的であったことになります。

 ガリラヤ湖を舟で渡るという主イエスの旅は、観光目的とか、休息とか、何か他の目的のためではありません。主イエスが場所を移動される時、その目的は、ただ一つ、それは主イエスが天の父なる神のみもとからこの地に下って来られた目的と同じ、新しい地にも神の国の福音を宣べ伝えるため、人々を罪の支配から解放し、救うためにほかなりません。ガリラヤ湖の対岸がユダヤ人以外の異邦人の地であろうとも、そこではただ一人の人がいやされただけであろうとも、そこに救いを必要としている人が一人でもいる限り、主イエスはそこへと舟をこぎ出されます。たとえ、危険な航海が予想されるとしても、主イエスは一人の苦しむ人を救うために船出されます。

 ガリラヤ湖は海面よりも200メートルほど低い所にあり、夕方には周囲の山々から突然の吹き下ろしがあって、急激に気候が変化し、湖が荒れることがあると言います。そのような危険が待ち構えている海であっても、主イエスは神の国の福音を宣べ伝えるため、一人の傷つき病める人の魂を救うために、船出されます。

 その際に、主イエスは弟子たちを伴われます。弟子たちも主イエスと共に危険が待ち構えている海へ船出しなければなりません。主イエスの弟子である教会は、静かで安全な港の中にとどまっていることはできません。この世の荒波へと漕ぎ出さなければなりません。主イエスの十字架の福音を宣べ伝えるために、罪びとが一人でも救われるために、不信仰なこの時代のただ中へと漕ぎ出し、厳しい信仰の戦いを続けていかなければなりません。もし、わたしたちの信仰が自分を守るためだけの信仰であるならば、危険な海へと漕ぎ出して行き、他の人の救いのために命をかけて仕える信仰でないなら、わたしたちは主イエスの弟子ではありませんし、そのような信仰はやがて衰え、あるいは歪み、ついには命を失ってしまうほかないでしょう。主イエスはわたしたちにも呼びかけて言われます。「わたしと一緒に向こう岸に渡ろう」と。

 【23節】。「イエスは眠られた」と書かれているのは聖書の中でここだけです。これは意味深い一節です。二つの意味を考えてみましょう。一つには、この一句は主イエスの人間性を言い表しています。主イエスは神のみ子であられますが、いわば超人的な強さや完全さをもってこの世においでになられたのではありません。主イエスはわたしたち人間と全く同じように、人間としての肉体を持ち、肉の弱さを持って生まれ、生きられました。主イエスはわたしたちの人間としての弱さや、疲れや、痛み、悲しみのすべてを知っておられました。時には、空腹を覚えられ、疲れて眠られ、時には涙を流され、時には怒り、叫ばれました。主イエスはまことの人間として、人の子として、わたしたち人間が持つすべての弱さを経験されました。それゆえに、主イエスはわたしたちの弱さを思いやることがおできになるのです。

 もう一つは、主イエスが眠られたということは、父なる神への全き信頼のお姿を表しています。詩編4編の詩人は、主なる神が苦難の中にあるわたしの祈りを聞いてくださるゆえに、「わたしは平和のうちに身を横たえ、眠ります」(詩編4編9節参照)と告白しています。安らかな眠りは神への全き信頼によります。神の守りと導きとを信じる信仰によって、主イエスは波風に揺れ動く舟の中で、すべてを神にお委ねして、安らかに眠っておられます。

 けれども、主イエスの眠りは怠けている人の惰眠ではありませんし、一緒に舟に乗っている弟子たちに無関心であったり、彼らをお見捨てになったのでもありません。主イエスは目覚めるべき時には、たとえ弟子たちがみな眠っていても、ただお一人目覚めておられます。わたしたちは受難週の木曜日の夜、ゲツセマネの園でのことを思い起こします。弟子たちは疲労と恐れと緊張のあまり、みな眠ってしまい、主イエスによって3度も起こされましたが、起きて祈っていることができませんでした。その間、主イエスだけがお一人目覚めておられ、汗を血の滴りのように流され、父なる神に祈られ、激しい信仰の戦いをされ、ご自身に備えられた十字架への道を進み行く決意をされました。主イエスはわたしたちがみな罪の中で眠りこけていた時に、ただお一人目覚めておられ、わたしたちの罪のために戦われ、祈られ、そして罪に勝利されたのです。

 23節から、もう一つのことを教えられます。わたしたちが主イエスと共に、主イエスに従って信仰の旅路に船出する時には、激しい嵐に出会うことがあるということです。キリスト者となって主イエスに従って生きるということは、人生の悩みや試練、苦難には決して出会わないという保証を得ることではありません。この世の偽りの宗教やご利益宗教は、この世での安全や繁栄を約束します。多くの人たちはそのような宗教に飛びつきます。けれども、それは人間の欲望や自己追及を満足させ、利己主義的な生き方を認めるだけであって、そこには本当の救いはありませんし、人間が共に生きる幸いや、互いに重荷を負い合う喜びはありません。

 わたしたちが主イエスに従い、信仰の道を歩むということは、むしろ荒波の中に漕ぎ出していくことであり、苦難や試練の中で主イエスが共にいてくださることを教えられ、希望と勇気を与えられ、また実際に主イエスの助けと守り、導きを経験し、いつもどのような時でも神に感謝することができる生き方に変えられ、主イエスのためには試練や苦難を少しも恐れず、それらに耐え、ついには主イエスの勝利にあずかる、これがわたしたちの信仰の歩みなのです。

 次に【24節】。激しい嵐の中でも目を覚まさなかった主イエスでしたが、弟子たちの助けを呼び求める声をお聞きになります。そして、目を覚まされ、起き上がられます。主イエスはいつまでも眠っておられるのではありません。わたしたちの苦悩の叫びをお聞きになられます。わたしたちを救うために、目覚め、立ち上がってくださいます。わたしたちをすべての苦難から、死の危険から、救い出してくださいます。

 弟子たちは嵐を恐れています。12弟子の中の少なくとも4人はこのガリラヤ湖の漁師でした。ここを仕事場にし、湖のことや舟の扱い方をよく知っていました。しかし、このような状況になって、彼らの経験や知識は少しも助けにはなりませんでした。死の危険の前で、彼らはあわてふためき、なすすべを失っていました。彼らを死の危険から救い出してくれるものは、何もないかのようでした。

 その時にこそ、主イエスは立ち上がられます。弟子たちの叫びにお答えになります。そして、彼らを死の危険から救い出されます。人間の知識や経験、知恵や力のすべてが無効になった時でも、いやその時にこそ、主イエスはわたしたちの救いとなってくださるのです。

 主イエスは直接に風と荒波にお命じになりました。ルカ福音書にはその時の主イエスのお言葉は書かれていませんが、マルコ福音書4章では、「黙れ、静まれ」とお命じになったとあります。すると、風も波も静まって、なぎになりました。これは、主イエスが主なる神と同じ権威と力とを持っておられ、自然を支配しておられる神であることを明らかにしています。

 古代社会では、旧約聖書と新約聖書の世界でもそうですが、海や水は人間がコントロールできない大きな魔力を持つと考えられ、恐れられていました。創世記1章に書かれている神の天地創造のみわざの中で、神が第二日に天の水と地の水とを分けられ、第三日に陸と海とを分けられましたが、ここでは海とその水とを支配される神の偉大な力が暗示されています。また、詩編では、しばしば大きな苦難が「大水、大波」にたとえられ、神は信じる人をそのすべての大水、大波から守ってくださることが告白されています。

 主イエスはここで直接に風と荒波とのお命じになり、それを静められました。主イエスは神の権威と力とをもって、この世界とそこに住む人間たちを支配しておられ、救いのみわざを行ってくださるのです。

 最後に、【25節】。主イエスはここで弟子たちの信仰を問題にしておられます。重要なのは、人間の経験とか知識、あるいは知恵や技術ではありません。信仰こそがあらゆる試練と苦難の中で、わたしたちを恐れや不安から解放し、救うのです。主イエスがわたしと共にいてくださる、わたしの人生という舟に共に乗っていてくださる、わたしたちの福音宣教の旅路に伴っていてくださるという信仰が、わたしたちの険しい信仰の歩みを守り導くのです。主イエスがわたしと共にいてくださるのなら、わたしはすべての試練と苦難とにすでに勝利しているのです。死の危険にも勝利しているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、大きな試練と苦難の中にある世界の教会と、全世界のすべての国民とをお救いください。この地において、あなたのみ名があがめられ、み心が行われ、み国が来ますように。

○神よ、この秋田の地で、福音宣教を開始して130年目を迎えたわたしたちの教会を、あなたがいつの時代にも必要なものを備えてくださり、新しい信仰者を生み出してくださり、今日に至るまでお導きくださいましたことを、心から感謝いたします。さまざまな欠けや破れを持ち、弱く小さな群れですが、あなたがこの教会を憐れんでくださり、この教会をお用いくださって、み国の福音を宣べ伝える務めを果たさせてください。今集められているわたしたち一人一人を祝福し、恵みと平安をお与えください。さらに新しい信仰者を増し加えてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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