12月11日説教「ヤコブからイスラエルへ」

2022年12月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記32章23~33節

    ルカによる福音書1章67~80節

説教題:「ヤコブからイスラエルへ」

 ヤコブはハランにいる叔父ラバンの家で過ごした20年間の逃亡生活を終えて、故郷の地カナンに帰ろうとしています。創世記32章1~22節までには、ハランから長い道のりを旅して、ヤボク川の近くのマハナイムまでやってきたヤコブが、その地で兄のエサウとの再会の準備をしていることが描かれています。後半の23節からは、ヤボク川を渡ろうとしたヤコブが何者かと一晩中格闘したことと、その時に彼の名前がヤコブからイスラエルに変えられたことが書かれています。きょうはこの32章全体のみ言葉から学びたいと思います。

 【2~3節】。「マハナイム」とは「二組の陣営」という意味だと2節で説明されていますが、なぜその名がつけられたのかについては8節と11節に暗示されています。マハナイムはヨルダン川の東側のヤボク川のそばにある町です。ハランからは直線距離でも800キロメートル以上あり、兄のエサウが住むエドムまでは100キロメートル足らずです。その場所に到着した時に、神のみ使いたちがヤコブに現れたと書かれています。ヤコブをその地へと導かれたのが、主なる神であることを示しています。ヤコブは20年前に、兄のエサウを欺いて長男の特権を奪い、そのことでエサウの怒りを買って、殺されそうになったために逃亡したのですが、ヤコブは兄と和解しようとして故郷の地へと帰ってきました。

 でも、兄と和解することだけがカナンの地に帰ってきたことの理由ではないということを、わたしたちはここから知らされます。この地は、神の約束の地なのです。「この地を、アブラハム・イサク・ヤコブに永遠の嗣業として受け継がせる」と約束された神のみ言葉が成就されるために、ヤコブはこの地に、神によって導かれてきたのです。神の約束は、人間たちのすべての偽りや憎しみ、争い、そして罪を超えて、必ずや成就していきます。

 ヤコブは20年ぶりで兄のエサウに再会するにあたり、あらかじめ使いの者を遣わして、ヤコブのご機嫌を伺おうとしています。その使いの者が帰ってきてヤコブに報告します。【7~9節】。ヤコブはエサウの怒りがまだ解けていないことを恐れています。自分や家族の命、また財産が奪われることを恐れています。ヤコブはここで、ハランに引き返してもよかったのかもしれません。これからもラバンの家で労苦することになるとしても、ここでエサウにすべてを奪い取られるよりはましかもしれません。

 しかし、ヤコブはそうしませんでした。あえて危険を冒してまでも、兄エサウがいるカナンへ帰る決意を変えません。なぜならば、そこが神の約束の地であるから、神の約束が成就される地であるからです。31章3節と13節で、神が彼に「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい、わたしはあなたと共にいる」とお命じになった神のみ言葉に従うべきだからです。「ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ」と8節に書かれているにもかかわらず、彼をこのような決断へと至らせたのは、この神の約束のみ言葉だったのです。

 兄エサウに対する恐れを取り除くために、ヤコブは知恵を発揮し、彼の一行を二組に分けました。しかし、この知恵は神やだれかを欺くための知恵ではありません。神から与えられた豊かな恵みを神に感謝し、その神のみ前に自らの貧しさを告白し、自分がそのような神の恵みを受け取るに値しない者であることを知らされるという、信仰による知恵だということが次のヤコブの祈りによって明らかになります。【10~13節】。

 あのヤコブの口からこのような告白を聞くとは、まったくの驚きというほかありません。わたしたちはヤコブがどのような人間であったかを知っています。彼は生まれたとき、先に生まれ出た兄エサウのかかとをつかんでいました。ヤコブという名前はヘブライ語の「かかと」の意味であり、実際に彼はそのかかとで兄のエサウを「押しのけ」ました。彼は母と組んで父イサクと兄エサウとを欺き、長男の特権を奪い取りました。ラバンの家に逃亡してからも、彼以上に悪賢いラバンと競いながら、互いにだましあいを続けていました。

 そのヤコブが、ラバンの家での20年間の試練の時を経て、また故郷に帰るにあたって、神の約束のみ言葉を何度も聞くことによって、傲慢で、人間的な知恵によって生きていたヤコブがこのように変えられていくのです。「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りないものです」。今や、ヤコブはこのように神のみ前で告白するのです。神から与えられた大きな恵みを、信仰をもって受け取り、それを心から感謝する人は、自分がその恵みを受け取るに値しない罪びとであることを知らされます。神の豊かな恵みと永遠に変わらない神の約束のみ言葉が、ヤコブを神のみ前でへりくだる者とし、罪を告白する信仰者としたのです。ヤコブの20年間の労苦に満ちた逃亡生活は、神が彼にお与えになった信仰の訓練の期間であったのだということが、今わたしたちにも明らかにされました。

 ヤコブが彼の家族と財産を二組に分けたのは、エサウに襲われた時に、どちらかが生き残るための知恵であったと8節に書かれていましたが、11節では、一本の杖だけを持ってこの地を出た自分が、今や二組の陣営を持つまでになったという、神の恵みの豊かさを強調するための知恵に変化しているのです。このようにして、ヤコブの人間的な知恵が、今や清められて、神から与えられた信仰による知恵へと変えられていったということに、わたしたちは気づかされます。

 次に、23節以下を見てみましょう。【23~25節】。ヤボク川はヨルダン川の支流であり、ヨルダン川東側を南北に分けている深い渓谷を流れる川です。その川を多くの家族や家畜を渡らせるのは大変な労苦でした。ヤコブは彼の家族や家畜を先にヤボク川を渡らせ、彼らが安全に渡り終えたことを見届けたのちに、彼は最後に渡りました。

その時、何者かが夜明けまで彼と格闘したと書かれています。この何者かとは、この場面では正体は明らかにされていませんが、これが神のみ使いであったということは、29節の「お前は神と人と闘って勝ったからだ」というその人自身の言葉から暗示されています。また、31節では、ヤコブ自身が「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と告白しています。ホセア書12章4~5節では、この場面を背景にしてこう語られています。「ヤコブは母の胎内にいたときから、兄のかかとをつかみ、力を尽くして神と争った。神の使いと争って勝ち、泣いて恵みを乞うた」。この何者かとは、神のみ使いであり、それは神ご自身を表しています。

 では、「ヤボクの渡しでの神との格闘」と言われるこの場面にはどのような意味が含まれているのでしょうか。いくつかのポイントにまとめてみましょう。一つには、ヤコブは今20年間の逃亡生活を終えて、兄エサウと再会し、彼と和解するという大きな課題を抱えて苦悩しているのですが、しかし本当に和解しなければならない相手はエサウなのではなく、神なのだということがここで明らかにされているのです。ヤコブは父イサクや兄エサウを欺き長男が受けるべき神の祝福を奪い取りました。しかし、それはイサクやエサウを欺いたというだけではなく、神ご自身を欺いていたのです。彼の傲慢でわがままな性格は、神に対する不従順であったのです。ヤコブはエサウと和解する前に、神と和解しなければなりません。神のみ前に立ち、神と向かい合い、神のみ前に自らのすべてをささげて、一晩中かけて、神の真実と取組まなければなりません。神と真実の、真剣な出会いをしなければなりません。それが、「ヤボクの渡しでの神との格闘」の第一の意味です。

 第二には、ヤコブは神との格闘の末に、自らの弱さと欠けを知らされたということです。ヤコブが怪力の持ち主であったことが29章10節で暗示されていました。そこには、数人で動かす大きな石をヤコブは一人で動かしたと書かれています。きょうの箇所でも、神のみ使いであるこの人はヤコブと格闘して勝ち目がなかったと26節に書かれています。さらに29節では、「神と人と闘って勝った」とも言われています。それほどの怪力の持ち主であったヤコブですが、最終的な結果としては神のみ使いによって腿の関節を外されました。32節には、「ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた」と書かれています。怪力の持ち主であったヤコブは、今や肉体の痛みと欠けを持つ人になりました。自らの弱さと破れを知る人とされたのです。

 使徒パウロは神から何かの肉体のとげを与えられていましたが、彼はそれを自分が思い上がらないために神から与えられた痛みだと、コリントの信徒への手紙二12章で書いています。そして、彼は続けて、「神の力は自分の弱さの中でこそ発揮されるのだから、わたしはむしろ自分の弱さを誇る。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからだ」とも言っています(12章7~10参照)。

 第三には、ヤコブはかつて父と兄を欺き、長男が受けるべき祝福を自分に奪い取りました。しかし、ここでは、ヤコブは神の祝福を受け取るために一晩中神のみ使いと格闘し、勝敗がついてからもなおもみ使いを離さず、ついに神の祝福を受け取りました。ヤコブの戦いは神の祝福を受け継ぐための戦いであったといってよいでしょう。これによって、ヤコブは事実上、神が初めにアブラハムに約束された万民のための祝福を受け継ぐ者となったのです。

最後にもう一つ、それは、ここで彼の名前がヤコブからイスラエルに変えられたということです。神によって名前が付けられること、また途中で変更されることは大きな意味を持っていました。その人自身が、その人の全体が、神によって変えられ、新しい人間とされ、新しい使命を与えられるということです。

ヤコブとはヘブライ語で「かかと」あるいは「押しのける者」という意味でした。その名のように、彼は兄エサウのかかとつかんで生まれ、彼を押しのけて長男の権利を奪いました。自己中心的に、自分の意思を押しとおし、自分の願いをかなえることが彼の生きる目的でした。けれども、これからはイスラエルという新しい名前が与えられます。イスラエルとはヘブライ語では、本来「神が支配されるように」という意味だと推測されていますが、ここでは、「神と闘う」あるいは「神が闘う」という意味で説明されています。いずれがより正確な意味なのかははっきりしていませんが、いずれにしても、彼の名前の中に「エル」すなわち「神」という名が付け加えられました。これからは、彼自身が彼の人生の主となるのではなく、神が彼の主となり、彼の人生のすべてがより明確に神のための人生となるのです。そして、彼の12人の子どもたちが神に選ばれた聖なる民、イスラエルとなり、イスラエルから出たメシア・キリストによって、教会の民が誕生するのです。

わたしたちが主イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受け、キリスト者という新しい名が与えられたこともまた、わたしが主キリストのものとなったということなのであり、パウロがガラテヤの信徒への手紙2章20節で言っているように、「生きているのはもはやわたしではなく、主キリストがわたしのうちに生きておられるのです」。わたしのために十字架に付けられ、死んで復活された主イエス・キリストにあって,主イエス・キリストのために生きるように召されているのが、わたしたちキリスト者です。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中にあって滅びにしか値しないこのわたしを、あなたがみ子の血によって罪と死から救い出してくださったことを、感謝いたします。どうか、わたしたちがあなたの救いの恵みにお答えし、あなたの栄光のためにお仕えするものとしてください。

〇待降節の中にあって、全世界があなたのみ子のご降誕を心から待ち望んでいます。どうか、この世界をお救いください。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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