4月30日説教「ペトロの信仰告白」

2023年4月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記26章5~11節

    ルカによる福音書9章18~20節

説教題:「ペトロの信仰告白」

ルカによる福音書9章18節から27節までを福音書前半のクライマックス、頂点と見ることができます。ここには、重要な3つのことが書かれています。

18~20節ではペトロの信仰告白、21~22節では主イエスの第1回目の受難予告、23~27節では十字架を背負って主イエスに従うというキリスト者の信仰生活。この3つのことは、それぞれが独立して語られているのではなく、互いに深く関連しあっているので、いつもこの3つを一緒に考えることが重要です。

 きょうは18~20節のペトロの信仰告白の箇所だけを読みましたが、この後で語られる主イエスの受難予告、また十字架を背負って主イエスに従って行くというわたしたちの信仰生活、この3つを関連付けながら学んでいくことが大切です。

 【18節】。わたしたちはここでも主イエスの祈りのお姿に出会います。主イエスの祈りの人であったということをこれまでも確認してきました。ルカ福音書は他の福音書よりも多く主イエスの祈りのお姿と祈りの言葉を伝えています。3章21節には、主イエスが洗礼をお受けになった時に祈っておられたと書かれていました。5章16節には、「イエスは人里離れたところに退いて祈っておられた」と書かれています。6章12節で、12弟子をお選びになった時には徹夜で祈られました。このあと、9章29節では、山に登って祈られた時に、主イエスのお姿が真っ白に輝いたという、山上の変貌が書かれています。11章1節では、主イエスが祈っておられるお姿を見た弟子たちが、「わたしたちにも祈りを教えてください」と願い、そこで「主の祈り」を教えられてことが書かれています。22章39節以下では、オリーブ山での受難週の祈り、ここには苦しみもだえながら汗を血の滴りのように地面に落としての祈りのお姿と、祈りの言葉、そして23章46節では、十字架上での最後の祈り、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」があります。

 このように、主イエスは重要な場面では必ず祈っておられました。父なる神に徹底して服従され、神のみ心を伺いつつ、それに従われました。祈りはまことの神であられ、まことの人となられた主イエスの行動と説教の源であったということを知らされます。わたしたちもまたこのような主イエスの祈りの姿勢にならいたいと願います。

 「ひとりで祈っておられた」いう表現には、父なる神と、その神の独り子なる主イエスとの、特別な関係が暗示されています。主イエスの祈りは父なる神との一対一の対話であり、父なる神のみ心を知ることですから、主イエスと父なる神との間には他の何ものも介在しません。しかし、わたしたち人間の場合は、神とわたしとの間には罪があって、その罪が神とわたしとの間を隔てていますから、わたしは自分の方からは神に近づくことはできません。けれども、主イエス・キリストの十字架によって罪をゆるされることによって、わたしたちは主イエス・キリストのみ名をとおして神に祈ることが許されるようになりました。わたしたちが祈りの最後に、「この祈りを主イエス・キリストのみ名によってみ前におささげします」と祈るのはそのためです。

 18節には続けて、「弟子たちは共にいた」と書かれていますが、主イエスが一人で祈られたことと「弟子たちが共にいた」ということが矛盾しないのは、その理由によります。12人の弟子たちも主イエスと一緒に、同じ場所で祈っていたのかもしれません。でも、主イエスの祈りと弟子たちの祈りは根本的な違いがありました。主イエスの祈りは神の御独り子の祈りであり、弟子たちの祈りは罪ゆるされている罪びとの祈りなのです。主イエスはただお一人、神のみ子として、わたしたちすべての罪びとたちに先立って、父なる神に特別な祈りをしておられるのです。その祈りによって、主イエスはここで「あなたは神のメシアです」と弟子たちによって告白されるのです。また、父なる神の救いのご計画にしたがい、ご受難と十字架への道を歩まれるのです。そして、それによって、すべての信仰者たちが喜んで十字架を背負って主イエスに従って行くことができる道をわたしたちのために備えられたのです。

 主イエスが弟子たちに「群衆はわたしを何者だと言っているか」と問われたのは、ご自分の評判を気にしておられたからでは決してありません。あるいは,それによって、これまでの神の国についての説教がどれほどの成果をあげているかを測ろうとされたのでもありません。主イエスはこの世の人々の評判や群衆の目を気にして、それによって行動したり、道を選んだりなさることはありません。主イエスは徹底して父なる神のみ心だけに従い、最後には人々に侮られ、ののしられ、辱められながら、ただお一人で十字架への道を進んで行かれました。まだだれ一人として、自分の罪の大きさに気づかず、その罪と戦うこともしていなかったときに、主イエスはただお一人だけ、わたしたちの罪のためにご自身の血を流されるほどに、戦われ、そして勝利されました。

 ではなぜ、主イエスは弟子たちに、「群衆はわたしをだれと言っているか」と尋ねられたのでしょうか。それは、次の問いの準備のためです。すなわち、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。この弟子たちに対する質問を強めるためです。他の人がどう言っているかとか、この世の人々がどう見ているか、政治家や学者がどう評論しているかではなくて、あなたがたは、あなた自身はどう考えるのか、どう信じるのか、ということを主イエス問うておられるのです。弟子たち一人一人が、またわたしたち一人一人が、主イエスのこの問いの前に立たされているのです。主イエスのみ前で、わたしの全存在をかけて、主イエスをわたしの救い主であると告白する、その告白へと招かれているのです。

 その前に、当時のユダヤ人が主イエスをどう見ていたかが19節に報告されています。【19節】。一つは、「洗礼者ヨハネが生き返った」という評判です。第二には、「旧約聖書時代の預言者エリヤ」の再来だという見方、三つめは、「旧約聖書時代に活躍していたほかの有名な預言者の一人が生き返った」という説、これら三つの評判についてはすでに7~8節に書かれていた内容と一致します。ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスがそれらの評判を耳にして戸惑い、恐れていた姿がそこでは描かれていました。

 当時のユダヤ人が主イエスをこのように見ていたことの背景には、メシア待望の機運のようなものがあったことと関係していると思われます。神の契約の民イスラエル・ユダヤ人は長く苦難と迫害の歴史を歩んできました。紀元前6世紀にイスラエル王国が滅び、民の多くが異国の地バビロンに捕虜として連れ去られました。その後、カナンの地に帰還してから、王国の再建を願ってきましたが、独立国家として立つことができず、預言者の活動も衰退し、政治的にも宗教的にも希望を見いだせないでいました。信仰熱心な人たちは、神がかつて約束された偉大なる預言者やメシア・救い主の到来を強く待ち望むようになっていました。また、実際に、「我こそはメシア」と名乗って、社会を驚かそうとした偽のメシアが何人にも登場していました。

 そのような時に、洗礼者ヨハネがユダの荒れ野で、近づきつつある神の国とメシア・救い主の到来を説教し、多くの信奉者を集めていましたので、もしかしたらこのヨハネこそが来るべきメシアではないかと考える人たちもいたようです。けれども、ヨハネ自身はそのことを否定し、わたしのあとにおいでになる方が待ち望まれていたメシアだと語りました。そのヨハネも領主ヘロデによって処刑されてしまい、人々のかすかなメシア待望の光も消えかけていたのでした。

 そのような状況の中で、主イエスは、「それでは、あなたがたはわたしを何者と言うのか」と問われました。20節の文章では、「あなたがたは」という言葉が文頭に置かれ、強調されています。ほかのだれかがどう言っているかではなく、あなたの家族や友人がどう思っているかでもなく、あなた自身は主イエスをどのような者だと言うのか、どのような方だと言い表すのか、と主イエスは問うておられます。それに対するわたしたちの答えが、信仰告白と言われるものです。

 ペトロはここで、「あなたは神からのメシアです」と答えます。ペトロは12弟子を代表して答えています。ペトロの信仰告白は弟子たちみんなの信仰告白です。

 「メシア」という言葉は、ヘブライ語で「油注がれた者」という意味です。「キリスト」はそのギリシャ語訳です。旧約聖書時代にイスラエルでは,預言者、祭司、王がそれぞれの職に任命される際には、頭からオリーブ油を注ぐという儀式を行いました。神はご自身の救いを完成させてくださる最後の時に、まことの預言者であり、まことの祭司であり、まことの王である救い主をこの世界に派遣してくださるという信仰が次第に成長して、その救い主をメシア、「油注がれた者」、「キリスト」と呼ぶようになりました。

 ペトロはここで、主イエスこそが旧約聖書で神が約束された真実の、永遠の、そしてすべての人の、唯一のメシア・キリスト・救い主であると告白しました。マタイ福音書16章13節以下には、主イエスはこのペトロの信仰告白を天の父なる神から与えられた信仰告白だと言われたことが書かれています。のちのすべての教会の民は、この信仰告白によって生きるのだとも言われました。

 このペトロの信仰告白は正しい信仰告白でしたが、それにもかかわらずペトロハは十字架の主イエスにつまずき、十字架の主イエスを3度「知らない」と否認しました。この時のペトロの信仰告白は、いわば、まだ未完成でした。この信仰告白が真実なわたしたちの信仰告白となるためには、次に続く主イエスの受難予告と密接に結びつけることが重要なのです。

 説教の最初で確認しましたように、このメシア・キリストがどのような方であるのか、どのようにしてその救いのみわざを成し遂げられるのかを、続く21節以下で語っているからです。すなわち、このメシア・キリストは、多くのユダヤ人が予想していたように、力と権力によって外国の支配をうち破り、立派な軍馬にまたがって登場する偉大な王様として神の救いを成し遂げるメシアなのではなく、ユダヤ人指導者たちによって排斥され、人々に見捨てられ、ご自身が受難と十字架への道を進まれることによって、ご自身の命をすべての人の罪を贖う供え物としておささげくださることによって、わたしたちの救いを成就してくださるメシア・キリストなのです。

それゆえに、わたしたちは罪ゆるされ、救われている者たちとして、感謝と喜びとをもって、主キリストの十字架を背負って、自分自身を神と隣人のためにささげる信仰者として、主キリストに従っていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたち全人類の罪のために苦しまれ、十字架への道を進み行かれた主イエスを、わたしの唯一の救い主と信じる信仰を、わたしにも与えてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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