3月17日説教「聖書と聖霊なる神」

2024年3月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(31)

聖 書:イザヤ書55章8~11節

    テモテへの手紙二3章10~17節

説教題:「聖書と聖霊なる神」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者で」。きょうはこの中の「その中で語っておられる聖霊は」という箇所について、聖書のみ言葉から学んでいきます。

 まず、1890年(明治23年)の旧『日本基督教会信仰の告白』と比較してみましょう。それはこうなっていました。「古(いにしえ)の預言者使徒および聖人は、聖霊に啓迪(けいてき)せられたり。新旧両約の聖書のうちに語り給う聖霊は宗教上のことにつき誤謬(あやまり)なき最上の審判者なり」。この最初の文章、「古の……せられたり」が新しい『信仰告白』では削除され、その代わりに、「主イエス・キリストを顕かに示し」という文が次の文章につけ加えられています。全体としては、内容的に大きな変化はないと言えます。預言者や使徒たちが聖霊によって導かれて語り、記した聖書は、旧約聖書も新約聖書も主イエス・キリストを証ししているということが、新しい『信仰告白』ではより明瞭に告白されていると言ってよいでしょう。きょうの説教のテーマである「聖書のうちに語っておられる聖霊は」という部分は全く変わっていません。日本キリスト教会はこの「聖書のうちに語っておられる聖霊は」という告白を130年以上持ち続けてきているということを、わたくし自身、今改めて驚きをもって再認識しているところです。と言いますのも、日本キリスト教会で、わたくしが神学校で学んだことや、牧師仲間で議論したことの中に、この告白に対する積極的な神学的意味を見いだすことはほとんどなかったからです。あるいは、改めて議論するまでもなく、当然のことのようにこの信仰告白を受け入れていたということなのかもしれません。

 そのようなわけで、きょうは聖書と聖霊なる神との関係をわたしたちの教会はどのようにとらえてきたのかを、わたくし自身もまた改めて再確認するつもりで、ご一緒に学んでいきたいと思います。

 この告白の特徴を別の言葉で表現すれば、「書かれた神の言葉である聖書は、今もなお聖霊なる神によって語り続けている」ということであり、また別の側面から表現すれば、「聖霊なる神は聖書のみ言葉によって、聖書のみ言葉をとおして今も語っておられ、働いておられる」という意味になるでしょう。ここでは、聖書の言葉と聖霊なる神のお働きとが分かちがたく、堅く結びついているということが強調されているのです。

 では、「聖書は聖霊によって語っている」ということについて、さらに詳しく見ていくことにしましょう。前回わたしたちが学んだように、聖書は神の霊感を受けて書かれたものであって、聖書の本来の著者は神であり、その中で神ご自身が語っておられる。それゆえに聖書は神の言葉である。これがわたしたちの教会の聖書論です。この聖書論と「聖書は今もなお聖霊によって語っている」ということは一つに結び合っています。それを教えている聖書をもう一度読んでみましょう。テモテへの手紙二3章15節以下にはこのように書かれています。「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」。また、ペテロの手紙二1章20節以下では、「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意思に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」とあります。

 このように、聖書はすべて聖霊なる神が第一の、本来の著者であり、それは神ご自身が語られた神の言葉であるということを証ししています。それゆえに、聖書は生ける神のみ言葉として、また今もわたしたちをまことの命に生かす神のみ言葉として語られるのであり、今もなお聖霊が、書かれた神の言葉である聖書の中でわたしたちに語っておられるということなのです。したがって、わたしたちが聖書のみ言葉を読む場合に、そこで今、神ご自身がわたしに対して語っておられる神のみ言葉として、聖霊のお導きによって読まなければならないということです。人間の知恵や知識によって聖書を読み、解釈するのではなく、聖霊なる神がお与えくださる神からの知恵によって聖書を読み、解釈すべきだということです。そのとき、神の命と救いの恵みに満ちた神のみ言葉が、わたしに信仰を与え、わたしを罪から救い、永遠の命へと至る道へとわたしを導くのです。聖霊なる神が聖書の第一の著者であると同時に、聖霊なる神が聖書の第一の語り手、また第一の解釈者なのです。

 聖書は今から数千年前に書かれた神の言葉です。しかしそれは、単に過去の記録ではありません。過去の神の救いの出来事の記録というのではありません。聖書は、今も生ける神のみ言葉として、今日のわたしたち一人一人に語りかけられている、生きた、また人を生かす神のみ言葉です。神は今もなお命のみ言葉によって、わたしたちの世界に、わたしたちの生活の中で、わたしの人生の中で、救いの出来事を引き起こしておられます。わたしたちは聖書を読むときには、「神語りたもう。僕(しもべ)聞く」という姿勢をもって読まなければなりません。と同時に、聖書を読むときには、また聖書の解き明かしであり、語られた神の言葉である説教を聞くときには、聖書の第一の著者であり、第一の語り手であり、また第一の解釈者であられる聖霊なる神のお導きを祈り求めつつ、読み、また聞かなければなりません。その時、人間の知恵や能力にはるかにまさった聖霊のお導きによって、この不信仰でかたくななわたしにも神の救いのみわざが起こされるのです。

 次に、「聖霊なる神は聖書のみ言葉をとおして、聖書のみ言葉の中で語られ、働かれる」という点についてさらに掘り下げて学んでいくことにしましょう。この告白においては、聖書のみ言葉と聖霊のお働きとが密接に結びつけられているということが大きな特徴です。このことについては二つの側面があります。一つには、聖霊なる神は聖書のみ言葉と結びつくときに、わたしたちのために最もよく働かれるということです。聖霊は自由な神であられ、場所や時代、手段、方法、いかなるものにも制限されることなく、いつでもどこでも自由にお働きになりますが、そうでありつつ、聖霊は聖書のみ言葉と結びつくときにこそ、最も力強く、最も有効に、わたしたち一人一人の救いのために働かれるということです。聖霊は、聖書に記されている神のみ言葉が、特にその中の主イエス・キリストの十字架と復活の福音が、わたしのための神の救いのみ言葉であることをわたしに信じさせてくださいます。主なる神が今わたしに語りかけてくださる神の命のみ言葉として聞き、それを信じることができるように、聖霊はわたしを導いてくださるのです。

 聖霊なる神のお働きが聖書のみ言葉と結びついているという例は、聖書の中に数多く見いだされます。マタイ福音書3章16節以下には、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった時のことが書かれています。【16~17節】(4ページ)。ここでは、聖霊の注ぎと神のみ言葉の語りかけとが一つに結び合わされています。また、使徒言行録2章4節では、最初のペンテコステの日の出来事がこのように言われています。「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国の言葉で話し出した」。さらには、ヨハネ福音書14章26節で、主イエスは弟子たちにこのように約束してくださいました。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。このように、聖霊は聖書に記された神の言葉と結びつくときに、また主イエスが語られたみ言葉と結びつくときに、最も力強く、わたしたちの救いのためにお働きくださるのです。

 もう一つの側面は、聖霊のお働きが書かれた神の言葉である聖書に結びつけられることによって、聖霊のお働きがある意味で制限をつけられるのではないかという懸念が生じるということです。制限づけられるという言い方は適当でないかもしれません。聖霊は何度も言うように、何ものによっても制限されることなく、自由にお働きになられるのですから、その意味では全く自由であられ、書かれた神の言葉である聖書に縛りつけられることなく、どこでも、どんな方法によっても、無制限に、自由にお働きになられます。そのことを認めながらも、わたしたちの教会は聖霊の自由を強調するだけでなく、あえて聖霊は聖書のみ言葉と結びついて働かれるということを、強調しているのです。

 なぜそうするのか。おそらくそれは、聖霊派とかペンテコステ派と言われる教派が聖霊を強調して、聖霊の働きを聖書のみ言葉から切り離して考えていることに対する批判があるように思われます。聖霊の自由なお働きを強調するあまり、聖書のみ言葉からは離れた霊の賜物とか、異言を語ることとか、病気をいやす力とか、あるいは個人の聖霊体験とかが重要視される、そのような運動に対する批判や警戒心があるように思われます。もちろん、そのような聖霊の賜物は重んじられるのですが、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一14章19節で、「教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語るべきです」と言っているように、聖霊によって主イエス・キリストの救いの福音を語り、信じることこそが重要だとわたしたちは考えているからです。

 わたしたちの教会が「聖書は神の言葉であり、そのなかで語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕かに示し」と告白している意味がここにあるのです。わたしたちは聖霊によって、聖書が神の言葉であることを信じ、その聖書がわたしたちの唯一の救い主であられる主イエス・キリストを証ししており、聖霊のお導きによってわたしたちがそのことを信じるときに、わたしに罪のゆるしと永遠の命の約束が与えられるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちは罪びとであり、あなたのみ言葉を悟るに鈍く、わたしたちの心はかたくなでありますから、どうか聖霊によってわたしたち魂を明るく照らしてください。あなたの救いと命のみ言葉が語られるとき、わたしたちが喜んでそれに聞き従い、あなたのみ言葉によって生きる者としてください。

○わたしたちの教会の愛する姉妹があなたのみもとへと召されました。あなたがその姉妹のすべての信仰の道を導かれ、祝福してくださいましたことを覚え、心からの感謝と讃美とをささげます。また、ご遺族の上に、主からの慰めと平安がありますようにお祈りいたします。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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