6月13日説教「神のひとり子イエス・キリスト」

2021年6月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:詩編2編1~12節

    ヨハネによる福音書1章14~18節

説教題:「神のひとり子イエス・キリスト」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして連続で学んでいます。わたしたちが属している日本キリスト教会にはどのような特徴があるのか、どのような信仰を告白し、どのように教会を形成し、宣教活動をしようとしているのかをご一緒に学んでいきたいと思います。きょうはその3回目、信仰告白の最初の文章「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真(まこと)の神であり真の人です」の「神のひとり子イエス・キリスト」の個所について学びます。

 信仰告白の冒頭にはその信仰告白の最も大きな特徴、一番強調したい内容が語られます。その一つが、「わたしたちが主とあがめる」という「主告白」であるということを前回学びました。わたしたちが信じ、あがめ、礼拝している救い主イエス・キリストは、教会と世界における唯一の主である。ほかに主はいない。国家であれ、天皇であれ、軍隊であれ、あるいは自分自身であれ、他のいかなるものであれ、それらは決して主ではない。主とはなり得ない、という「主告白」が、戦後新しい日本キリスト教会を建設した先輩たちの熱い思いだったということを確認しました。

 それに続いて「神のひとり子イエス・キリスト」という告白がなされています。ここにも、信仰告白の特徴が表されています。「神のひとり子イエス・キリスト」は信仰告白の後半の『使徒信条』の第二項、「わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」という告白と一致しています。つまり、『日本キリスト教会信仰の告白』の冒頭で『使徒信条』の中心的な告白との共通性が強調されているということが分かります。日本キリスト教会は、初代教会、中世の教会、宗教改革の教会、近代の教会との連続性の中に建てられているということをここで確認できます。

 日本キリスト教会は、戦後日本基督教団から離脱して以来70年、旧日本基督教会時代から数えても150年足らず、世界の教会の歴史と規模からみれば幼く未熟で小さな教派に過ぎませんが、その信仰的伝統は2千年の世界の教会に連なっている教会であり、使徒的教会、公同の教会であるということをここで告白しているのです。秋田教会もその枝枝の一つです。きょうのわたしたちの礼拝も、2千年の教会の歴史に連なり、全世界の諸教会の礼拝に連なっているということを覚えたいと思います。さらに言うならば、きょうのわたしたちの礼拝は終わりの日のみ国が完成される日の神の国における盛大な祝宴へと連なっているということも覚えたいと思います。

 では次に、告白の内容ですが、「神のひとり子」とは、父なる神と子なる神イエス・キリストとの特別な関係を言い表しています。その意味は、第一には、主イエス・キリストは神からお生まれになった神であるということです。第二には、主イエス・キリストはただお一人、神からお生まれになった神のみ子であるということです。

 第一の意味についてもう少し詳しく見ていきましょう。神からお生まれになった神のみ子であるということは、主イエスは父なる神と本質を同じくする神であるということ、人間から生まれた子が人間であるように、神からお生まれになった神のみ子イエス・キリストは神であられます。

 その関係はいつから始まったのでしょうか。永遠の昔からです。父なる神が永遠の昔からおられたように、み子もまた永遠の昔から父なる神と共におられました。ヨハネによる福音書1章1節以下では、神のみ子が「言(ことば)」(ギリシャ語ではロゴス)と言われています。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1~2節)。永遠から永遠に父なる神と共におられた「言」である主イエス・キリストが、時が満ちて、人間となられてこの世にお生まれになったことを、14節では「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と表現しています。これが、クリスマスの出来事です。永遠の昔から父なる神と共におられた神のみ子が、肉となられ、人間のお姿でこの世においでになり、マリアの胎内から人間としてお生まれになりました。神のみ子は人間となられたのちにも、神のみ子であり、神であることには変わりはありません。そのことについては、次の「真(まこと)の神であり、真の人です」という告白で学ぶことになります。

 「ひとり子」という告白のもう一つの意味は、ひとり子であるから、ほかには神の子はいないということです。主イエス・キリストだけが神の子どもであり、ほかにはだれ一人神の子である者は存在しない、神と本質を同じくする者はいないということです。人間であれ、他の生き物であれ、他の何かであれ、それは神ではありません。他のすべてのものは、自らそう名のろうとも、他からそのように名づけられようとも、それは神以外のものであって、それらはすべて神によって創造された被造物であり、したがってわたしたちの信仰の対象ではなく、礼拝の対象でもありません。この告白もまた「主告白」と並んで重要な意味を持つ告白です。

 「ひとり子」のもう一つの意味をつけ加えるとすれば、神はご自身のひとり子によって、ご自身を最もよく、最もはっきりと、わたしたちにお示しになられたということです。ヨハネ福音書1章18節ではこのように語られています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。神はご自身のひとり子である主イエス・キリストによって、ご自身がどのような神であられるのかを最も完全に啓示されました。わたしたちは神のひとり子であられ、人となってこの世においでになられた主イエス・キリストによって、彼の地上でのご生涯と、お語りになったみ言葉、みわざによって、特にそのご受難と十字架の死と復活によって、神とはどのようなお方であるのか、神がわたしたち人間をどのように愛しておられるか、そしてわたしたち人間を罪から救うためにどのような救いのみわざをなされたのかを、最もはっきりと知らされ、信じることができるようにされているのです。

 神のひとり子なる主イエス・キリスト以外によっては、わたしたちは神を正しく知ることはできません。神がお造りになった被造世界によっても、幾分は神について知ることができます。しかし、それは不十分です。自然や宇宙、あるいは歴史や世界の出来事から、哲学とかその他の学問によっても、神について知りうることは不十分です。ただ、聖書に証しされている主イエス・キリスト、人となられた神、神のひとり子あられる主イエス・キリストからのみ、わたしたちは神についてはっきりと、そしてすべてを知ることができるのです。したがって、わたしたちは主イエス・キリスト以外のところには神を尋ね求める必要がないのであり、また尋ね求めるべきでもありません。主イエスはヨハネ福音書14章6節で、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。神の一人り子なる主イエス・キリストによってこそ、この主によってのみ、わたしたちは神に至る道を進むことができ、神の真理と神の命に至る道を見いだすことができるのです。

 「神のひとり子」という告白にはもう一つの意味が込められています。わたしたち人間にとっても、ひとり子は親である者にとっては、大切で欠けがえのない、尊い宝であり、自分の命そのものにも等しいと言えます。神にとっても当然そうでしょう。神はそのひとり子なる主イエス・キリストを、わたしたち罪びとである人間の救いのために、十字架におささげくださるほどにわたしたちを愛されたのです。神のひとり子という言葉は、そのような神の偉大な愛を表す言葉でもあるのです。ヨハネ福音書3章16節に次のようなよく知られたみ言葉があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。神はご自身の最愛のみ子を、ご自身の命そのものであるひとり子なる主イエス・キリストを、わたしたちを罪から救うために、十字架の死に引き渡されました。わたしたちはこれほどに大きな神の愛によって愛されているのです。これほどの大きな愛によって、罪から救われているのです。わたしたちが「神のひとり子イエス・キリスト」と告白する時、このような救い主をわたしの主と信じ告白するのであり、この信仰によって救いにあずかるのです。

 主イエス・キリストだけが神のみ子ですが、聖書では信仰者が神の子、神の子たちと呼ばれている箇所がいくつかあります。ローマの信徒への手紙8章15節、エフェソの信徒への手紙1章5節などです。そこでは、わたしたちは神のひとり子なる主イエス・キリストによって、神の愛と豊かな恵みによって罪ゆるされ、神の子とされていると言われています。わたしたち人間は神から生まれたのではなく、神によって造られた被造物です。しかも、父なる神の家を離れ、神を知らず、時に神に反逆し、罪と死と滅びの中をさまよっていた罪びとでした。そのようなわたしたちを、神はひとり子なる主イエス・キリストによって与えられた大きな愛と恵みとによって、見いだしてくださり、神の家に招き入れてくださり、神の子としてくださったのです。信仰によって父なる神との、いわば養子の関係に入れられたということです。

 したがって、わたしたちはもはや罪の子たちではありません。滅びの子たちではありません。神から与えられた新しい命によって生かされている神の子たちです。罪の奴隷から解放され主イエス・キリストの僕(しもべ)として、喜んでわたしの新しい主にお仕えしていく、神の子たちです。わたしたちはもはや闇の子たちではありません。主イエス・キリストによって真の光に照らされ、光の中を歩む者とされている神の子たちです。主イエス・キリストによって神の家に招き入れられ、神の国の民とされている神の子たちです。

 最後に、イエス・キリストについてですが、イエス・キリストとは、苗字と名前ではありません。これ自体が「イエスはキリストである」という、信仰告白なのです。おとめマリアの胎からお生まれになり、ナザレの町に住まわれたイエス、最後に十字架で死なれ、三日目に復活されたイエスこそが、キリストである、メシア・救い主であるという最も原初的で根本的な信仰告白なのです。

 イエス、これはユダヤ人には一般的な名前です。旧約聖書のヘブル語ではヨシュア、ヨシア、「神は救い」と言う意味です。ルカによる福音書1章およびマタイによる福音書1章によれば、主イエスの誕生の時に、神ご自身が命名されました。神の強い意志、永遠の救いのご計画が表されていました。神は実際に、このイエスによってご自身の救いのご計画を実現されたのです。

キリスト、これはヘブル語ではメシア、油注がれた者という意味です。イスラエルにおいては、預言者・祭司・王がその務めに任じられるときには、頭からオリブ油を注がれました。それは、神からの恵みと祝福が注がれるしるしであり、神の選びによって、神からの務めを託されたしるしです。主イエスは、真の預言者、真の祭司、真の王として、旧約聖書で待ち望まれていたメシア・救い主であるという意味で、キリストと呼ばれます。

この主イエス・キリストによって、わたしたちの救いが成就され、わたしたちは神の子たちとされ、神の国の民とされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、父の家を失い、父から遠く離れて暗黒と死の中をさまよっていたわたしたちを、あなたはみ子主イエス・キリストによって見いだしてくださり、あなたの子どもたちとしてくださった幸いを、心から感謝いたします。わたしたちが再び魂の父であられるあなたを離れて、失われることがありませんように、あなたの生けるみ言葉によってわたしたちをつなぎとめてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月6日説教「貧しい人々は、幸いである」

2021年6月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編126編1~6節

    ルカによる福音書6章20~26節

説教題:「貧しい人々は、幸いである」

 ルカによる福音書7章20~49節が主イエスの「平地の説教」と呼ばれるのに対して、マタイ福音書5章1節~7章までは「山上の説教」と呼ばれます。ルカ福音書7章17節に、「イエスは山から下りて、平らなところにお立ちになった」とあるのに対して、マタイ福音書5章1節に、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」と書かれていることから、主イエスの説教の場所が両福音書では違っています。どちらが本当なのかと問う必要はありません。主イエスは山の上でも、平地でも、たびたび弟子たちや群衆に説教されたと思われるからです。それをルカ福音書は平地での説教としてまとめ、マタイ福音書では山上での説教としてまとめたと考えられるからです。

 ここには、二つの福音書の神学の違いが反映されていると思われます。マタイ福音書では、山の上から説教される主イエスの神のみ子としての権威が強調されています。主イエスは偉大な宗教家とか哲学者、あるいは知恵ある学者として説教されたのではありませんでした。人間となられた神が、天の権威をもって、この世の倫理とか秩序をはるかに超えた、神のみ言葉を説教されたのです。それゆえに、わたしたちは主イエスの説教を人間の言葉としてではなく、神のみ言葉として聞き、これに全精神を傾け、わたしの命を懸けて従っていくようにと招かれているということをマタイ福音書は強調しているのです。

 ルカ福音書が強調しているのは、主イエスは神のみ子でありながら、ご自身を低くされて、人間のお姿で、わたしたち罪びとの中に入ってきてくださり、わたしたちのために仕えてくださった、そのようなわたしたち人間と連帯される救い主として説教されたということです。しかしながら、主イエスがわたしたち罪びとのただ中に入って来られ、いわばわたしたちと同じ地平に立たれたということは、それによって主イエスの説教が神の権威を失い、この世的なものになったということでは全くありません。むしろ、主イエスの説教はわたしたちに直接に語りかけられることによって、その鋭さ、その厳しさがより増してくるのです。主イエスの説教はまさにわたしたちの現実に対して直接に鋭い挑戦状となって迫ってくるのです。これがルカ福音書の平地の説教の大きな特徴なのです。

 マタイ福音書では、「幸いである」という言葉が9回語られています。それに対して、ルカ福音書では4つの「幸いである」と、24節からの後半ではそれどれに対応して4つの「不幸である」が語られます。また、マタイでは「これこれの人は幸いである。その人たちは何々だから」と三人称で語られているのに対して、ルカでは「あなたがたは何々だから」と二人称で語られています。ここに、今挙げたルカ福音書の特徴が現れていると考えられます。主イエスは直接にわたしに対して「あなたは幸いだ」、「あなたは不幸だ」と語りかけ、しかも「幸い」と「不幸」の違いを際立たせているのです。今主イエスの説教を聞いているあなたがた、すなわち弟子たちや群衆に対して、それだけでなく聖書のみ言葉を聞くすべての時代のすべての人たち、きょうのわたしたちに対しても、直接に迫ってくる語りかけなのです。それは、わたしたちの現実に対する鋭く、厳しい挑戦だと言ってよいでしょう。

 では、その最初の鋭く、厳しい挑戦を読んでみましょう。「貧しい人々は、幸いである」(20節)。それに対して、「しかし、富んでいるあなた方は、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている」(24節a)。ここで主イエスが言われる「幸い」と「不幸」は、その内容を正反対にすべきだと多くの人は、いやすべての人は考えるでしょう。貧しいよりは富んでいる方がより幸いだとだれもが考えるのではないでしょうか。一般的に言ってそうだというのではなく、これがわたし自身に対して語られているのだとしたら、なおさらのこと、わたしにとっては貧しいよりはやはり富むことの方が幸いだと、だれもが考えるのではないでしょうか。いつの時代の人たちも、貧しさから抜け出すために一生懸命に働いてきた、幸いを求めて努力してきた、特にわたしはだれよりも頑張ってきたと言うのではないでしょうか。

 しかし、主イエスの説教は、そのようなわたしたちに対して、「いやそうではない、あなたの考えやあなたの生き方は正しくはない。そこには幸いはない」と言われるのです。これは、わたしの現実に対する主イエスの鋭く厳しい挑戦状です。

富を求めることに幸いを見いだそうとしてきたわたしの考えや生き方だけがここで問われているのではありません。さらに続けて読んでいきましょう。「今飢えている人々は、幸いである。あなた方は満たされる」(21節a)。これに対して、「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる」(25節a)。三つ目は、「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」(21節b)。これに対して、「今笑っている人々は不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」(25節b)。そして4つ目には、【22~23節】。これに対して、【26節】。

 主イエスは4つの「幸いである」に対して4つの「不幸である」を対比しておられます。それらのいずれもが、わたしたちの常識的な価値判断とは正反対な内容が並べられています。飢えているよりは満腹している方がよいと多くの人は考えます。泣いているよりは笑っている方がよいし、人々に憎まれるよりはすべての人にほめられる方がよいと、だれもが考えます。主イエスの説教はそのようなわたしたちの常識や価値判断に対する鋭く厳しい挑戦です。挑戦と言うだけでは不十分かもしれません。わたしたちの常識や価値判断の否定だと言うべきでしょう。

 なぜ、そうなのでしょうか。なぜ、主イエスはそう言われるのでしょうか。4つの例に共通していることがあるのに気づきます。幸いだと言われているのは、何かに不足している状態、満たされていない未完の状態、それゆえに何かを求めて手を差し伸べている人であるのに対して、不幸だと言われているのは、すでにそれを手に入れている、満たされている、それゆえにもはやこれ以上求める必要がなく、現状に満足している人のことであると言えるのではないでしょうか。

そこからさらに言えることは、主イエスは前者に対して約束を与えておられるということです。20節では、「神の国はあなたがたのものである」。21節では、「あなたがたは満たされる」。「あなたがたは笑うようになる」。そして23節では、「その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある」。これら4つの文章には、日本語訳では省略されていますが、「なぜならば」というはっきりとした理由づけの言葉がついています。

 それらのことを考慮してきょうの個所を言い換えるならば、このようになるでしょう。「貧しい人々は、幸いである。なぜならば、神はあなたがたに神の国を約束してくださるから。今飢えている人々は、幸いである。なぜならば、あなたがたは神によって満たされるから。今泣いている人々は、幸いである。なぜならば、神はあなたがたに笑いをくださるから。人々に憎まれとき、また、人の子(これは主イエス・キリストご自身のことですが)のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。なぜならば、その日には、天におられる神があなたがたに大きな報いをお与えくださるから。だから喜び踊りなさい」。主イエスはこのように言われるのです。

 ここから教えられることは、幸いだと言われている人とは、いつも神に対して開かれている人のことであるということです。自らは貧しい者、餓え乾いている者、悲しむ者であることを知っている、また、主イエス・キリストを信じる信仰のゆえに、この世にあっては憎しみや迫害を受けなければならず、それゆえにただひたすら主なる神の助けと救いとを願い求めなければならず、必死に神にしがみつき、神からすべてを与えられることを信じるほかにない人、神の憐れみによらなければ生きていけないことを知っている人、そのような人こそが幸いだと言われているのです。

反対に、富んでいる人は、その富に頼り、富の中に安住して、もはや神を求める必要性も覚えず、次第に富に心を奪われて神から遠ざかってしまう。それゆえに、神からは何も与えられず、受け取ることができないゆえに、あなたは不幸だと言われているのです。今満腹している人は、神から何も期待しなくなり、神なしで生きていこうとするゆえに、やがて飢えるようになった時に、神から見捨てられるゆえに、あなたは不幸だと言われています。今笑っている人は、今の生活を楽しみ、それに満足しているゆえに、真剣に神のみ心を尋ね求めようとせず、自分の思いのままに生きることができると考えているゆえに、やがて悲しみが襲ってくるときに、たちまちに倒れてしまうほかないから、あなたは不幸だと言われています。世の人からの誉れだけを求めている人は、神の真理や神の栄光のために心を砕いて生きることをしないゆえに、神からの報いを何も与えられず、だからあなたは不幸だと言われています。このような人たちは、たとえ自分自身がどれだけ豊かであり、今幸福感に充たされていようとも、神に対して心が開かれていない、神から何かを期待しようとしない、神のみ心と神の真理に少しも心を向けないので、神から与えられる幸いを受け取ることができないのです。

ここで改めて「幸いである」という主イエスの呼びかけを注目してみましょう。この言葉は文章の冒頭に置かれていて強調されています。その点を考慮して翻訳すれば、「何と幸いなことでしょう」と訳すのがよいと思われます。詩編1編1節や2編12節などでは、「いかに幸いなことか」と訳されています。

では、主イエスが「幸いである」を強調しているのはなぜでしょうか。それは、この幸いは人がこの地上で、日常生活の中で感じたり手に入れたりできる幸いとは比べものにはならないほどに、それらのどれよりもはるかに勝った、大きな幸いであるということなのです。

よりはっきりと言うならば、この幸いは、天から、神から与えられる幸いだということです。主イエスが言われる約束の言葉がそのことを証明しています。「神の国はあなたがたのものである」。神が唯一の王として支配しておられる神の国、そこでは罪と死とサタンの支配は終わりを告げられ、神の救いの恵みだけが支配している、そのような神の国が貧しいあなたがたに約束されているのです。また、神が飢えている人をなくてならない命のパンで満たしてくださり、神が泣いている人の悲しみと憂いを喜びと希望に変えてくださり、また神が迫害を受けている人の傍らに立っていてくださり、最後の勝利を約束していてくださる、そのようにしてあなたがたに天からの永遠の命を約束していてくださるのだから、あなたがたは幸いであると主イエスは言われるのです。この幸いは主イエスご自身が信じるわたしたちのために獲得してくださり、お与えくださる幸いなのだということが分かります。「あなたは幸いだ」と呼びかけてくださる主イエスご自身が、わたしのためにその幸いを創り出してくださり、その幸いの中へとわたしを招き入れてくださるのです。

主イエスはこの幸いへとわたしたち一人一人を招き入れるために、十字架の道を歩まれました。そして、十字架の死と三日目の復活によって、わたしたちにこの天にある幸いをお与えくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちを常にあなたと共にある永遠の幸いへと招きいれてください。わたしたちがあなたを離れて、この世の過ぎ去りゆくものに心を奪われることなく、固くあなたのみ言葉に結びつけてください。

〇大きな試練と苦悩の中にある日本の国と全世界のすべての人々を憐れみ、顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月30日説教「神の契約と割礼のしるし」

2021年5月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:創世記17章1~19節

    ローマの信徒への手紙4章9~12節

説教題:「神の契約と割礼のしるし」

 創世記17章で、アブラハムは神の二つの約束を聞きます。一つは、【1~6節】。もう一つは、【7~8節】。アブラハムがこの二つの神の約束を聞くのは、実にこれが4度目なのです。最初は12章1~3節と7節、彼が70歳になった時、神の召命を受けて故郷をいで、約束の地カナンに着いた時でした。二度目は13章14~17節、一緒に旅立った甥のロトと別れた後でした。三度目は15章4~7節、ここでアブラハムは古い契約の儀式に従って神と正式な契約締結をしました。そして、きょうの17章が4度めということになります。なぜ神は同じ約束をこのように繰り返してお語りになるのでしょうか。

 その理由の一つは、わたしたちがこれまでアブラハムの生涯について読んできたことから知らされるように、彼がしばしば神との約束を忘れ、時には約束の地カナンを離れてエジプトにパンを求めたり、時には自分たち夫婦に子どもが与えられないことにしびれを切らして、自分たちで勝手に家族計画を立てたりして、神の約束を投げ捨てるというようなことを繰り返してきたからです。アブラハムの罪と弱さ、疑いと背きが繰り返されてきたから、神は何度も同じ約束を語らなければならなかったのでした。しかしまたそこには、アブラハムの繰り返しての罪と背きにもかかわらず、神の忍耐とゆるし、神の約束のみ言葉の確かさがあったということをも、わたしたちは聞いてきました。アブラハムの繰り返しの罪と背きにもかかわらず、神の約束は廃棄されることはありません。神は忍耐とゆるしとをもって、アブラハムを導かれました。

 もう一つの理由は1節から推測できます。「アブラムが九十九歳になった時」と書かれています。彼が12章で最初に神の約束を聞いたのが75歳の時、それから24年の歳月が過ぎました。すぐ前の16章3節にはカナン地方に住んで10年後と書かれていますので、あの彼らの家族計画の失敗から14年が過ぎていたことになります。この間、相変わらず神の約束は二つともに果たされてはいません。アブラハムとサラ夫妻には子どもは与えられず、約束の地カナンではその地の一角をも所有しておらず、旅人、寄留者のままです。しかも、アブラハムもサラも年老いています。彼は17節でこう言っています。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」。人間の側の可能性が全く消え去ってしまったあとにこそ、神の約束のみ言葉が語られ、それが成就するのだということをわたしたちはここで知らされるのです。そのことのために、神は今一度、4度目に同じ約束をアブラハムに語られるのです。

 1節で神は「わたしは全能の神である」と言われるのはその意味からです。神を「全能の神」と表現するのは創世記ではこれが最初です。このあと、創世記や出エジプト記などでたびたび用いられます。イスラエルの古い時代の神の呼び名であったと推測されています。全能の神というイスラエルの古い伝統的な神の呼び名が、そのままわたしたちキリスト者の信仰に受け継がれています。神の全能のみ力がアブラハムとサラの人間的な可能性が全く消え去ってしまったときにこそ、最もよく現わされるということは、わたしたちの信仰でもあります。それゆえに、わたしたちは弱った時にこそ神のみ力に頼り、絶望しかないときにもなおも希望をもって前進することがゆるされているのです。

 「わたしは全能の神」という神の自己宣言に続いて、「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」というアブラハムへの命令が語られます。「全き者」とは人格的・道徳的な意味ではなく、神との関係において完全であるということです。神と自分との間に何か第三者の中間的な存在を置かない、あるいは主イエスが教えられたように、神とこの世の富の両方に仕えることをしない、ただ神にのみ従って生きるということです。99歳になったアブラハムの残りの人生はこの神の命令によって規定されています。彼の残りの人生は神によって、いわば差し押さえられているのです。アブラハム自身は、もう残りの人生には何の希望もない、神の約束を担っていく可能性もないと考えていたのかもしれません。けれども、神にとっては彼はもう御用済みの人間なのではありません。神はなおも彼をお用いになります。のちの世のすべて信じる者たちの信仰の父となるべく、アブラハムはなおも神の約束を担い、それを信じ続けていくために、今99歳になって再び、いや四度(よたび)、神に呼び出され、神の命令を聞かされているのです。

 4度目の契約更新となるこの章には、「契約を立てる」「契約」という言葉が何度も用いられています。一般にアブラハム契約と呼ばれる神とアブラハムとの契約について、その特徴などをここから学んでいきましょう。第一の特徴は、この契約のイニシャチブ・主導権はすべて神の側にあるということです。2節では、「わたし(神)はわたしの契約を立てる」、4節でも、「わたしがあなたと結ぶわたしの契約」と神は言われます。この契約を結ばれるのは神です。また、この契約を実行し、実現するのも神です。アブラハムとサラにはまだ子どもがおらず、二人ともすでに年老い、人間的には子どもが生まれる可能性はほとんどなくなっているのですが、にもかかわらず神が、この契約をお立てになった神が、アブラハムの子孫を増やし、彼を多くの国民の父とされると言われます。アブラハムはこの契約のために神によって選び出されました。神の契約にはこのような神の側の恵みの選びがあり、また神ご自身がその契約を実行されるという確かな約束があるのです。アブラハムはその神の契約のみ言葉を聞き、それを信じる以外にありません。また、それで十分なのです。

 カナンの地を受け継がせるという契約についても、7節では「わたしはあなたと子孫との間に契約を立てる」と神は言われます。アブラハムはカナンの地に来て24年、しかし未だその地の一角をも所有しておらず、旅人・寄留者のままですが、神はアブラハムをご自身が定められた国の民として、すべての必要な物を備えて彼を導かれます。アブラハムは地上では旅人・寄留者のままですが、すでに神の嗣業を受け継いでいるのです。わたしたちキリスト者が今すでに来るべき神の国の世継ぎとされ、神の国の民として生きる者とされているように。

 第二の特徴は、7節に「永遠の契約とする」、13節、19節でも「永遠の契約」といわれているように、契約の永遠性です。この契約の永遠性は、子孫を増やすという約束にも、カナンの地を受け継がせるという約束にも共通する特徴です。それはまた、神のすべての契約にも共通しています。「ノアの契約」にも、「アブラハム契約」、「ダビデ契約」にも、そして主イエス・キリストによって教会の民に与えられた「新しい契約」にも、この永遠性はみな共通しています。

 神はある時代のある特定の人物や特定の民を選んで契約を結ばれます。でも、その人物の生涯が終わり、その民の歴史が終われば、その契約は無効になってしまうということはありません。あるいは、その人物やその民が神の契約に違反したり、その契約を忘れてしまえば、それで契約が無効になってしまうということでもありません。たとえ、人間の側がそうなったとしても、神は決してご自身の契約をお忘れになったり、廃棄されたりすることはありません。神は人間たちのすべての不従順や、不信仰を超えて、あるいはまた、人間の死をも超えて、ご自身の契約を最後まで守られ、それを成就してくださいます。それゆえに、わたしたちは神の永遠の契約を覚えて、いつでも神に立ち返ることができます。死をも恐れることなく。

 神とアブラハムとの契約のもう一つの特徴は、その契約にはしるしが伴っているということです。【9~11節】。アブラハム契約には割礼というしるしが伴っています。このしるしには二つの役割があります。一つは、神とアブラハムの契約がアブラハムとのちの子孫とにとって永遠で確かな目に見えるしるしとなるということです。のちの子孫は割礼を受けることによって、神の契約が確かに自分たちの契約であるということを確認するしるしとなるのです。二つには、この割礼のしるしはアブラハムとのちの子孫とが神の契約に対して忠実であることのしるしとなるということです。割礼のしるしはアブラハムとのちの子孫とが神の契約を忠実に守り、その契約を喜びとし、神に応答し、服従し、信仰の歩みを続けていく目に見えるしるしとなるのです。

 割礼については11節以下に説明されているように、アブラハムの子孫として生まれた男子と、イスラエルの民の中に加えられた男子が、子どもの場合は生まれて8日目に、男性の性器の皮の一部を切り取るという儀式です。古代社会ではエジプト人やアラビア人の間で広く行われていました。古代社会では男子の成人式の儀式として行われていたのではないかと推測されていますが、アブラハムとその子孫にとっては全く違った意味を持っていました。生後8日目に行われると定められていますので、人間の成長段階とは関係なく、神との関係の中で、神が一方的に選び、神との契約の相手とされたという、人間のわざや意志や決断に先行する神の恵みの選びを表すしるしなのです。今日の教会は、小児洗礼の意義もまたそこにあると考えています。神の選びと神の恵みの契約は人間のあらゆるわざに先立っている、またそれを超えています。そのことは、大人になってから神の選びを受け、神の契約の民の中に加えられた人にとっても同様です。

 終わりに、もう一つここで特徴的なことについて触れておきます。それは、この4度目の契約更新の時にアブラハムとサラの名前が変えられたことです。【5節】。「アブラム」という前の名前の意味は、「わたしの父は高い、あるいは偉大である」という意味だろうと考えられています。「アブラハム」はそこで説明されているように「多くの民の父」という意味に理解されています。また、妻サラについては、【15~16節】。サライもサラもその正確な意味の違いは分かっていません。両方とも「女性の王、女性の君主」という意味だろうと考えられています。アブラハムの場合にもサラの場合にも、その名前の意味の違いがはっきりとは分かっていませんが、重要なことは二人ともここで神から新しい名前が与えられたということです。

 一般に古代社会に共通していることですが、特に聖書の民にとっては、名前はその人自身と、その人格、またその運命、生き方と深く結びついています。神から新しい名前が与えられるということは、神から新しい務め、使命が託されるということを意味します。100歳近くなったアブラハムと90歳近くなった妻サラとに今改めて神の使命が授けられ、彼らは共に神の契約を担って、その契約の成就に向かって進んでいくのです。わたしたちもまた、老いた者も若い者も共に、神の約束の民として、神の国の完成の時に向かって前進していくのです。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたがみ子イエス・キリストによってわたしたちと新しい契約を結んでくださり、わたしたちがあなたの福音を聞いて、罪ゆるされ救われた民として、み国の到来の時までみ手によって導かれておりますことを感謝いたします。わたしたちは時として迷い、疑い、また不安や恐れによって心を悩ます者ですが、どうかあなたのみ言葉によって、わたしたちを強くとらえてください。

み子、主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月23日説教「主イエスによる聖霊派遣の約束」

2021年5月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(聖霊降臨日)

聖 書:イザヤ書32章15~20節

    ヨハネによる福音書16章1~15節

説教題:「主イエスによる聖霊派遣の約束」

 教会の暦では、きょうはペンテコステ・聖霊降臨日です。ペンテコステとはギリシャ語で50日目という意味で、ユダヤ人の最大の祭りである過ぎ越しの祭りの翌日から数えて50日目に祝う祭りです。旧約聖書のレビ記23章や申命記16章などによれば、「七週の祭り」とか「初穂の祭り」とも言われる収穫祭でした。主なる神によって約束の地に導きいれられたイスラエルの民が、その地での小麦の初穂や家畜の初子(ういご)を神にささげ、感謝する祭りです。使徒言行録2章に書かれているように、このペンテコステの日に、エルサレムに集まっていた弟子たちの群れの上に聖霊が注がれ、その聖霊なる神のお働きによって、世界最初の教会が誕生しました。ペンテコステは教会の民にとっては聖霊が注がれた日であり、また教会が誕生した日です。

 旧約聖書時代の二つの祭りが新約聖書時代になって新しい意味と内容を持つようになりました。主イエスが十字架につけられ、三日目に復活したのが過ぎ越しの祭りの時でした。過ぎ越しの祭りはイスラエルの民がエジプトの奴隷の家から主なる神によって解放された救いの恵みを祝い、感謝する祭りでした。主イエスの十字架と復活は、すべての人の罪を贖い、罪の支配から解放する神の救いの恵みの完成です。次に、ペンテコステは救われた民が約束の地で与えられた収穫の恵みを神にささげ、感謝する祭りでした。主イエスの弟子たちに聖霊が注がれ、エルサレムに教会が誕生したことによって、主イエスの福音によって救われた信仰者たちが自分たちの救われた体と魂とを神にささげる新しい礼拝の時が始まったのです。神の救のみわざは過ぎ越しの祭りからペンテコステの収穫祭へ、主イエスの十字架と復活からペンテコステの教会の誕生へと前進していったのです。

 きょうの礼拝で朗読されたヨハネによる福音書16章1節以下は、主イエスが十字架につけられる直前に弟子たちに語られた、いわゆる「決別の説教」の個所です。決別の説教は14章から始まり、17章の「大祭司の祈り」まで続きます。主イエスはこの決別の説教の中で、ご自身が十字架と復活ののちに天に昇られてから、弟子たちに聖霊を派遣されることを繰り返して約束しておられます。その主な個所を読んでみましょう。

 【14章15~19節】(197ページ)。【14章25~29節】。【15章26~27節】(199ページ)。そして、【16章7~13節】。

では、これらの個所で主イエスが約束しておられる聖霊の派遣について、それが今日の教会とわたしたちにとってどのような意味があるのかを、いくつかにまとめてみていきましょう。

 第一に考えておくべきことは、聖霊とは聖霊なる神のことであり、キリスト教教理の最も重要な「三位一体論」で扱われる神の三つの位格の中の一つであるということです。神は、旧約聖書の神、イスラエルの神も新約聖書の神、すなわち主イエスの父なる神も同じですが、その本質と実体においては永遠にお一人の神であるというのがキリスト教信仰の基本です。本質・実体においては一つですが、神には三つの位格がある。すなわち、父なる神としての位格、子なる神・イエス・キリストとしての位格、そして聖霊なる神としての位格がある。この三つの位格は分かちがたく、分離されることなく、また混同されることもなく、永遠に一つの実体を形成している。これが「三位一体論」です。位格とは、ラテン語でペルソナ、英語ではパーソンですから、神には三つの人格、あるいは神格、あるいは顔、働きがあると理解してよいでしょう。神はその三つの神格、お働きによって、わたしたちの救いのみわざを完璧になしてくださいます。父なる神として、み子なる神として、そして聖霊なる神として、いわばご自身の全人格をお用いになって、ご自身の全存在をかけて、わたしたちの救いを完成させてくださる。それが「三位一体論」の中心的な意味です。したがって、この三位一体論が崩れれば、わたしたちの救いは不完全になってしまいます。

 この三位一体論から理解すれば、聖霊なる神は永遠の昔から神の本質の一つであったのであり、もちろん旧約聖書の中にも聖霊なる神のお働きについて数多く書かれています。イザヤ書32章15節以下には、神の霊が注がれて荒れ野が園に、園が森になると書かれていますが、実はこの聖句は1872年(明治5年)3月10日に日本で最初のプロテスタントとして建てられた日本基督公会(横浜海岸教会)の建設式で選ばれたみ言葉です。今日、横浜海岸教会の庭に野の聖句が刻まれた石碑を見ることができます。新約聖書での聖霊なる神のお働きは、その神の救いのみわざの完成であると言ってよいでしょう。主イエスがヨハネ福音書で約束しておられる聖霊の派遣は、神が主イエスによって成就された全人類の救いのみわざを最終的に完成されるためであったのです。

 では次に、主イエスが約束しておられる聖霊のお働きについて、その主なものを取り上げていきましょう。16章7節で聖霊が「弁護者」と言われています。14章でも15章でもそうです。弁護者とは、元のギリシャ語の意味を直訳すれば、「そばに呼びだされた人」という意味です。口語訳では「助け主」と訳されていました。弱い立場にある人や困っている人を弁護したり助けたりするために、その人の傍らにいる人のことです。宗教改革者ルターは聖書を母国語であるドイツ語に最初に翻訳した人ですが、彼はこれを「慰め主(ぬし)」と訳したことが知られています。

 聖霊はどのようにして弁護者、助け主、慰め主としての役割を果たすのでしょうか。14章16節では、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と主イエスは言われました。「別の弁護者」と言われているのは、主イエスご自身が第一の弁護者であるということです。主イエスが地上におられる間は、主イエスはいつも弟子たちと共におられ、彼らを罪の誘惑から退けられ、不信仰な敵対者たちの攻撃から守られ、彼らに必要なすべての物を備えられました。主イエスこそが弟子たちにとっての第一の弁護者、助け主、慰め主であられました。けれども、主イエスは間もなく地上でのお働きを終えて天にお帰りになられます。そうすれば、弟子たちだけがこの世に取り残されることになります。しかし、主イエスは14章18節で、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と言われました。つまり、天に昇られた主イエスが天の父なる神のもとからお遣わしになる聖霊が別の助け主、いわば第二の主イエスとして弟子たちと共にいてくださるという約束なのです。

 この別の弁護者、いわば第二の主イエスである聖霊は永遠に弟子たちと共にいてくださると約束されています。地上におられた時の主イエスは、パレスチナ地方の限られた地域で、限られた弟子たちと共におられ、彼らの弁護者、助け主、慰め主であられました。しかし、天に昇られた主イエスがお遣わしになる聖霊は、全世界のすべての人と、いつまでも永遠に共にいてくださるのです。そこで主イエスは、16章7節でこのように言われました。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところには来ないからである」と。それゆえに、主イエスの十字架の死と三日目の復活、そして40日目の昇天は弟子たちにとって、教会の民にとって、大きな喜びになるのだと主イエスは言われるのです。聖霊なる神のお働きによって、救いが完成へと導かれるからです。聖霊が信じる人たちと永遠に共にいてくださるという約束は、聖霊なる神がわたしたちの信仰を終わりの日まで支え、導いてくださる、神の国が完成される終末の時まで永遠にわたしたちと共にいてくださり、決してわたしたちをお見捨てにはならず、わたしたちの信仰を完成させてくださるという固い約束なのです。

 聖霊は天におられる父なる神と天に昇られた主イエスの両方から派遣されるというのがわたしたちの教会の理解です。14章16節では、父なる神が弁護者なる聖霊を遣わすと言われており、15章26節では、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき」と言われています。聖霊が父なる神からだけ出るのか、それともみ子からも出るのかということが中世の教会で論議され、西方教会と東方教会が分離するきっかけとなりました。興味深い論争ですが、きょうはこれ以上触れることはしません。

 聖霊なる神のお働きについて、更にみていきましょう。聖霊は14章17節では「真理の霊」と言われ、15章26節では「真理の霊はわたしについてあかしをなさる」と言われ、また16章13節では「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と言われています。聖霊は神の真理であられる主イエスを証しし、わたしたちに主イエスの福音を悟らせ、主イエスが開かれた真理への道へとわたしたちを導きます。主イエスは14章6節で、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われ、また8章32節では、「真理はあなたたちを自由にする」と言われました。聖霊はわたしたちに真理であられる主イエスを悟らせ、主イエスの十字架の福音を信じさせ、その信仰によってわたしたちを罪の奴隷から自由にし、すべての束縛から解き放ち、心から喜んで神にお仕えする人とします。

 聖霊なる神のもう一つのお働きは、不信仰な罪のこの世を裁くということと、信じる人を聖化する(聖なる存在へと変えていく)ということです。【14章17節】。また、【16章8~11節】。聖霊はわたしたちを主イエスの福音を悟らせ、信じさせ、主イエスのみ名を告白させます。聖霊はわたしたち信仰者を父なる神とみ子主イエス・キリストに固く結びつけます。しかしまた同時に、聖霊は信じない人たちの不信仰と罪を明らかにし、裁きます。聖霊は両者をはっきりと区別します。信じる人々には神の国での永遠の命の約束を固くし、信じない人々には滅びの道が備えられます。

 それは、わたしたち信仰者にとっては聖化への道です。聖化とは、わたしがいよいよ罪のこの世から離れ、おのれの罪を憎み、神の義を愛し、神の救いを願い求め、悔い改めの思いを強くし、いよいよ神と主キリストへと近づいていく、これがわたしたちの聖化への道です。聖霊はわたしたちをこの道へと導いてくださいます。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたがみ子主イエス・キリストによってわたしたちのためになしてくださった救いを、聖霊によって固く信じさせてください。わたしたちの教会と全世界の教会に聖霊を注ぎ、福音宣教の働きを強めてください。

〇多くの不安や恐れの中で希望を失っている人たちを顧みてください。病や貧困や紛争によって命をおびやかされている人たちを顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月16日説教「主イエスの復活を宣べ伝える」

2021年5月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:エゼキエル書37章1~10節

使徒言行録4章1~10節

説教題:「主イエスの復活を宣べ伝える」

 使徒言行録4章1節以下には、エルサレムに誕生した初代教会が経験した最初の迫害について書かれています。エルサレム教会のペトロとヨハネが主イエスの復活について説教したためにユダヤ人指導者によって逮捕され、投獄され、ユダヤ最高議会での裁判を受けたということが書かれています。わたしたちがすでに学んだように、3章1節からはエルサレム初代教会の最初の伝道活動が書かれていました。それにすぐ続いて、4章では最初の迫害の記録です。キリスト教会は誕生してすぐに、その最初の宣教活動のあとにその最初の迫害が続いたのだということを、わたしたちはここで気づかされます。この時以来、教会の2千年の歩みは、さまざまなかたちでの教会の迫害の歴史でもあったと言ってよいでしょう。教会の宣教活動は教会の迫害の歴史でもあったのです。

 けれども、このことを起こるはずがない、あるいは起こってはならない、予想外のことと考えるには及びません。否、むしろこのことは教会の建設者、また教会の頭であられる主イエス・キリストご自身が弟子たちに語っておられた預言の成就であり、神のみ心なのです。主イエスはマルコによる福音書13章9節以下でこのように言われました。ご一緒に読んでみましょう。【9~13節】(88ページ)。主イエスを信じ、主イエスに従う信仰者の道はその最初から、人々からの反対と憎しみと迫害の道であるのだということを主イエスは言われました。そして、それはまた主イエスご自身が歩まれた道でもありました。主イエスはすべての人を照らすまことの光として、神が約束しておられた世の救い主としてこの世においでになりましたが、この世の民は彼を受け入れず、使徒言行録3章のペトロの説教によれば、ユダヤ人たちは「このイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前で彼を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求しました」(13~14節参照)。神がメシア・キリストとしてこの世にお遣わしになった主イエスは罪のこの世の反対と憎しみの中で十字架への道を進まざるを得なくされました。主イエスを信じる信仰者もまた同じ道を歩まざるを得ません。

 なぜそうなのでしょうか。それは、主イエスが神の国の福音を宣教され、救いのみ言葉をお語りになる時、この世の罪が明らかにされるからです。神から離れ、神を失って、罪と死と滅びとに支配されているこの世の罪が明らかにされ、主イエスの福音を信じない罪、差し出されている救いの恵みを喜んで受け入れることをせず、かたくなで不従順で悔い改めることをしない人間の罪がそこであらわにされるからです。

使徒言行録3章と4章でも、同じようなことが起こっているのをわたしたちは見ることができます。ペトロが生まれつき足の不自由な男の人に、「ナザレの人イエス・キリストのみ名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じると、40年間一歩も歩いたことがなかったその人がすぐに躍り上がって立ち、神を賛美しながら神殿に入っていきました。けれども、その奇跡を見たエルサレムの人々は長く病んでいた一人の人が主イエス・キリストのみ名によっていやされ救われたという大きな恵みを喜ぶことができず、ペテロが語った主イエス・キリストの福音を信じ受け入れることをせず、かえって憎しみや怒りを覚え、ペトロとヨハネを逮捕したのです。主イエスの福音が語られ、救いのみわざが行われる時、それを喜ばず、受け入れず、反対に主イエスの福音に対して敵対するという人間の罪が浮き彫りにされるということが起こるのです。いつの時代にも、このようにして、主イエス・キリストの十字架の福音は罪に支配されているこの世の人々の疑いや反対や迫害に出会わざるを得ないのです。

 しかし、それにもかかわらず、「神の言葉は決してつながれてはいない」(テモテへの手紙二2章9節参照)という実例をもわたしたちはここで同時に見ることができます。4節にこのように書かれています。【4節】。神の救いのみ言葉はどのような人間の反対や迫害の中でも、むなしく消え去ってしまうことはありません。神のみ言葉は必ず成就します。実を結びます。人間の罪を打ち砕き、人間のかたくなさを打ち砕き、信仰を生み出していくのだということをわたしたちは知らされます。

 さて、ペトロとヨハネが逮捕された直接の理由は2節によれば、「彼らが民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えていた」からであると書かれています。これにはサドカイ派が深く関与していたと思われます。と言うのは、ファリサイ派と並んで当時のユダヤ教の二大勢力であったサドカイ派は、人間の復活や天使に関する教理を否定していたからです。サドカイ派は貴族階級や祭司階級が多く属しており、彼らの信仰は現実主義・保守主義で、当時イスラエルを支配していたローマ帝国とも手を結び、現在の秩序を乱すような運動には反対していました。ペトロとヨハネが不思議な奇跡によって人々を騒がせたり、主イエスの復活について説教して民衆の心をひきつけていることは、自分たちの立場や身分に危険を与えることになるのではないかと考えて、二人を逮捕させたと考えられます。ここにも、人間の罪やかたくなさが潜んでいます。現実の安易な生活や偽りの平和に安住するために、主イエス・キリストの福音によって自分が変えられることを願わない。自分の罪を認めず、罪の中にとどまっているために心を閉ざし、自分の身の安全を守ろうとする、そのような人間の罪がここにもあります。

 ペトロとヨハネは初代教会の最初の逮捕者となり、獄につながれました。しかし、すぐ続けて4節に先ほども読んだ【4節】というみ言葉が語られていることには特別な意味があるように思われます。本来ならばこの4節は、ペトロの説教が終わった3章26節のあとに書かれるべきなのですが、彼らが逮捕された後に書かれているのは、彼らの逮捕を、いわば無意味にし、否定する意図があるように思われます。たとえ、この世の権力がペトロとヨハネを獄につないだとしても、神のみ言葉は決してこの世の鎖によってはつながれることはない。否、むしろ神のみ言葉は人間たちの反対や迫害、この世の権力や暴力、そして人間の罪という鎖を断ち切って、救いのみわざを前進させ、主イエスの福音を信じる信仰者を生み出していくのだということを聖書は語っているのです。

 まさに、このことこそが主イエスの復活の福音にほかなりません。ユダヤ人たちがこぞって罪なき神のみ子であられる主イエスを犯罪人、神を冒涜する者として断罪し、ユダヤ人にとっては神に呪われた忌まわしい十字架刑にひきわたしたという彼らの恐るべき罪にもかかわらず、その罪が最後に勝利するのではなく、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順な僕(しもべ)として父なる神への服従を貫き通された主イエスが、ついにはすべての罪と死とに勝利されて、三日目に死の墓から復活されたという、復活の命と力がここでは働いているのです。

 翌日、エルサレム最高議会が招集されました。この最高議会はサンヘドリンと言われ、大祭司と70人の議員からなるイスラエルの政治・宗教の最高議決機関であり、また裁判の最高法廷の役割も果たしていました。主イエスもここで裁かれました。大祭司を議長とし、そのメンバーが5、6節に紹介されています。ペトロとヨハネの逮捕理由について7節でこう言われています。【7節】。「ああいうことをしたのか」とは3章に書かれていた生まれつき足が不自由な人を主イエスのみ名によって立ち上がらせたという奇跡を問題にしていると考えられます。そうだとすれば、2節に書かれていた逮捕理由とは違うことになります。2節では、サドカイ派が逮捕に深くかかわっていたので、自分たちが否定していた復活について語ったことを問題にしていましたが、裁判で多数派を占めていたファリサイ派は復活を信じていたので、実際の裁判では、ペトロとヨハネが何か悪魔的な力とか魔術とかによって奇跡を行ったのか、あるいは神のお名前を冒涜したのではないかということを問題にしていると考えられます。ここにも、人間の罪の姿が見え隠れします。サドカイ派とファリサ派は聖書の理解や教えに違いがあり、政治的立場も違っており、それぞれの利益を守ることを裁判の目的にしています。そして、彼らのそのような違いにもかかわらず、主イエスの福音に反対し、ペトロとヨハネを裁くということにおいては一致しているのです。このことで一致するためには、多少の自分たちの意見や主張を捨てようとしています。これもまた、聖書の中で、あるいは現実の人間社会でしばしば起こる罪びとたちの現象であると言えます。人間はみな主イエス・キリストの福音に反対し、悔い改めることをしないという罪においては一致します。結束します。

 しかし、ここでもまた、そのような人間の罪の結束を破るかのようにしてペトロが説教します。【8~10節】。ペトロは今鎖につながれ、自由を奪われています。多くのこの世の権力者たちの疑いや憎しみの目にさらされています。しかし、彼は少しも恐れず、たじろがず、彼らの真ん中に立ち、主イエス・キリストの福音を語り、自分の信仰を告白しています。彼は数カ月前に、この同じ場所で主イエスが裁判にかけられていた時に、彼は中庭に身を潜めていましたが、「あなたもあの男の仲間ではないか」と問われて、「いや、わたしたあの男を知らない」と三度も否定したのでしたが、あの弱くつまずいたペトロが今は迫害の中にあっても、しっかりと立っている姿をわたしたちは見るのです。

 それは、聖霊なる神が彼と共におられ、彼を支えていてくださるからにほかなりません。福音書で主イエスがすでに約束しておられたとおりです。「あなたがたは裁判所に引き渡され、鞭うたれるであろう。その時、あなたがたはわたしのために証しするであろう。しかし、何を言おうかと心配するには及ばない。聖霊なる神が語るべき言葉を授けてくださるであろう」。この主イエスのみ言葉がここで成就しているのです。

 8節からのペトロの説教は、これまでの二度の説教と同様に、その中心的主題は主イエス・キリストの十字架の死と復活です。また、ここでも同じように、裁く人と裁かれる人との立場が逆転していることに気づきます。被告席についているのはペトロです。裁いているのは大祭司と70人の議員たちです。しかし、ペトロは語ります。「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人イエス・キリストの名によるものです」と。本当に裁かれるべきは、あなたがたであり、すべての罪びとなのです。本当の裁きは地上の法廷での裁きではなく、天にある神の法廷での裁きです。神はその天にある法廷で、み子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、わたしたちに無罪を宣告してくださり、わたしたちの罪をすべてゆるしてくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの裁きを受けて滅びなければならなかったわたしたちを、み子の贖いによってすべての罪をゆるし、あなたにある義と平安と祝福とをお与えくださいましたことを、心から感謝いたします。主イエス・キリストの十字架と復活の福音が、全世界のすべての人々に宣べ伝えられますように。世界にまことの義と平和とが与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月9日説教「わたしたちが主とあがめるイエス・キリスト」

2021年5月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:エレミヤ書33章1~9節

    ローマの信徒への手紙10章5~13節

説教題:「わたしたちが主とあがめるイエス・キリスト」

 きょうから月1回程度の割合で『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストに学んでいくことにします。信仰告白は聖書のみ言葉に対する信仰の応答であり、聖書の教えの要約・まとめですから、信仰告白を学ぶということは聖書そのものを学ぶことにほかなりません。また、わたしたちが属する日本キリスト教会が今日のこの日本の状況の中で聖書をどのように読み、そのみ言葉にどのように応答して伝道活動と教会形成をしているかを確認することでもあります。すでに洗礼を受けた教会員は、自分たちの信仰をより深め強めるために、また、まだ洗礼を受けていない求道中の人は、この信仰告白をわたしの信仰として告白し、受洗へと導かれることを願って、ご一緒に学んでいきたいと思います。

 秋田教会が日本基督教団を離脱して新しく創立された日本キリスト教会に加入する決議をしたのが1951年(昭和26年)5月20日の定期総会でした。間もなく70回目の記念日を迎えることになります。2年後の1953年10月開催の第3回大会で『日本キリスト教会信仰の告白』が制定されました。これが「文語文」です。今わたしたちが礼拝で用いているのがその「口語文」で、2007年10月開催の第57回大会で制定されたものです。

 『日本キリスト教会信仰の告白』の特徴の一つが、簡単信条であるということです。基本信条と言われる『使徒信条』に前文をつけるという、比較的短い文章です。これは、旧日本基督教会が1890年(明治23年)に制定した『日本基督教会信仰告白』の形式を受け継いでいます。宗教改革時代やそれ以後に作られた諸教会の信仰告白、信条、あるいは信仰問答書に比べるとずいぶん短くなっています。簡単信条では、聖書全体の教えをごくごく短くまとめてありますから、こまかな教理を正確に言い表すことができないという欠点がありますが、暗誦しやすい、礼拝などで朗読しやすいという利点もあります。「日本キリスト教会憲法」では、簡単信条を補うものとして信仰問答を保有すると規定していますが、まだ正式な信仰問答書は制定されていません。今の時代の中で、絶えず新しく神のみ言葉に応答して信仰を告白していくというのがわたしたちの教会、改革教会の特徴ですから、今後新たに信仰告白や信仰問答書を作成していくという務めがわたしたちに課せられています。

 では、信仰告白の本文に入ります。座席の前のボックスにあるプリントを参考にしてください。「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真(まこと)の神であり真(まこと)の人です」。これが信仰告白冒頭の文章です。冒頭にあるということは、この告白がわたしたちの信仰の核心、最も重要な部分であるということを意味します。この個所を数回に分けて学んでいくことにします。きょうは「わたしたちが主とあがめる」という箇所です。

 この冒頭部分は、1890年(明治23年)の(旧)『日本基督教会信仰告白』では、「我等が神と崇むる主耶蘇基督(しゅやそきりすと)は神の独子(ひとりご)にして」と告白されていましたが、新日本キリスト教会では「神と崇むる」が「主とあがめる」に変更されました。その変更の背景にあることについてはあとで触れますが、イエス・キリストを特に意識して「主」と告白することを「主告白」と言います。信仰告白の冒頭に「主告白」が置かれているということが、わたしたちの信仰告白の最も大きな特徴です。

 次に注目したいことは、この冒頭の文章では主イエス・キリストが主語であるということです。「わたしたちが主とあがめる」のわたしたちがこの文章全体の主語なのではありません。主イエス・キリストが最初の文章の主語であり、それだけでなく、この信仰告白のすべての文章の主語でもあります。それは、イエス・キリストが聖書全体の唯一の主語であるのと同様です。わたしたちが信仰を告白するということは、わたしが常に、どのような時にも、わたし自身を主として生きるのではなく、わたしのために十字架で死んでくださった、わたしの救い主であられる主イエス・キリストをわたしの唯一の主として生きるということなのです。

 「主」という言葉は、聖書の中で数多く用いられており、また多くの意味を持っています。旧約聖書での一般的な意味としては、土地や財産などの所有者、年長者、奴隷の所有者、妻に対する夫、家の主(あるじ)などが主と呼ばれます。イスラエルの王、預言者も主と呼ばれます。圧倒的に頻度が多いのは、神です。神を主と言い表す場合、二種類あります。一つは、旧約聖書ヘブライ語原典で神のお名前が書いてある部分、英語の表記に言い換えれば、YHVHの4つのヘブライ語の子音が書いてあるのですが、それを「主」と読むのが決まりになっています。というのは、神のお名前をどのように発音するのかを忘れてしまったからです。もう一つは、神がヘブライ語で主を意味する「アドナイ」と言われている箇所です。日本語の訳では神のお名前もアドナイも同じ「主」となりますから、そのどちらであるかを判断することはできません。

 旧約聖書で神を主と言い表す場合、そこには神に対する信仰告白が含まれています。神が天地万物の創造者であるという信仰、神が全世界と全被造物、すべての歴史、出来事の主であり、導き手であるという信仰、そして神が人間の生と死、生きることと死ぬことのすべての主であり、支配者であるという信仰、更にはイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から強いみ手をもって導き出されたという信仰が言い表されています。

 新約聖書では、主はもっぱらイエス・キリストに対して用いられます。イエス・キリストが主であると告白される場合には、旧約聖書で神が主であると告白される例とは少し違った意味が込められています。その何個所かを読んでみましょう。【ローマの信徒への手紙10章9~13節】(288ページ)。同じ【14章8~9節】(294ページ)。もう一個所【フィリピの信徒への手紙2章7~11節】(363ページ)。これらの箇所に共通している点は、主イエス・キリストの死と復活です。イエス・キリストはご自身の死と復活をとおして主となられた、ご自身が唯一の主であられることを最もはっきりとお示しになったと、新約聖書は繰り返し語っています。

 主イエスは神のみ子であられたが、人間の姿となり、罪のこの世においでになった。しかも、主としてのすべての威厳も栄光をもお捨てになり、僕(しもべ)となって、わたしたち罪びとたちのためにお仕えくださった。そして、十字架の死に至るまで、従順に父なる神に服従され、ご自身の尊い命を十字架に犠牲としておささげになった。それによって、わたしたちの罪を完全に贖い、わたしたちを罪の奴隷から救い出してくださった。父なる神は主イエスを三日目に死の墓から復活させられ,天に引き上げられ、ご自身の右の座につかせられた。それによって、主イエス・キリストは罪と死とに勝利された唯一の主となられ、今も生きてわたしたちの主として、わたしたち一人一人の上に君臨しておられ、わたしたちを愛によって支配され、命の道へと導いておられる。これが、わたしたちの主イエス・キリストです。

 それゆえに、このイエス・キリストを主とあがめ、わたしの救い主としてそのみ名を呼び、信じる人はすべて罪と死の支配から解放され、救われるのだと、聖書は告げています。そして、わたしがイエス・キリストはわたしの主であると信じ、告白するとき、主イエス・キリストの救いのみわざがわたしのための救いのみわざとなり、わたしの救いとなるのです。

 今読んだローマの信徒への手紙10章9節とフィリピの信徒への手紙2章11節に、「イエス・キリストは主であると告白し」と書かれています。コリントの信徒への手紙一12章3節やその他にも同じような言い方が記されています。「イエス・キリストは主である」という告白が、初代教会の最初の信仰告白であったと考えられています。「イエス・キリストは主である」という信仰告白を中心にして、それを核として、それに他の告白がつけ加えられていき、内容が豊かになって、『使徒信条』やその他の古代教会の信条が作成されていったと考えられています。

 わたしたちが普段に、主イエス・キリストと言う場合には、実は「イエスは主であり、キリスト、すなわちメシア・救い主である」という信仰告白を言い表しているのです。

 初代教会の「イエスは主である」という告白は、十字架と復活をとおして罪と死とに勝利された主イエス・キリストという意味と、もう一つの重要な意味が込められていました。紀元64年、ローマ皇帝ネロによるキリスト教徒の迫害がありました。その後、90年代になって、皇帝ドミティアヌスによる大規模な迫害が始まりました。皇帝は自らを主と称し、各地に自分の像を造り、人々にそれを礼拝するように強要しました。キリスト教徒にも皇帝礼拝を迫りました。しかし、キリスト者は、皇帝は主ではない、ただおひとり十字架につけられ復活されたイエス・キリストだけが主であるという告白を貫き、皇帝礼拝を拒否しました。そのために多くのキリスト者が殉教しました。「イエス・キリストは主である」という信仰告白は、このように、キリスト者の命をかけた信仰の戦いを背景にしているのです。初代教会でもそうであったように、いつの時代でも、今日のわたしたちにとっても、「イエスは主である」という信仰告白は、厳しく激しい、わたしの全存在をかけた、文字通り命をかけた信仰の戦いを伴う告白なのです。

 1951年に新しく日本キリスト教会を建設した先輩たちは、1953年に制定した『信仰の告白』の冒頭で、「我等が神と崇むる」という古い告白を「わたしたちが主とあがめるイエス・キリスト」に変更したことを前に紹介しましたが、その背景について簡単に説明しておきます。戦時中、日本国家が「皇国史観」に基づいて、アジア侵略戦争を推進していったことに対して日本キリスト教会は明確に反対の姿勢をとらずに、戦争に協力していったのは、信仰告白が弱かったからである、特にイエス・キリスト以外のだれをも主とはしないという「主告白」が弱かったという反省があったから、冒頭に「主告白」を置いたのだと先輩の諸先生から聞いています。

 「あがめる」とは礼拝するという意味です。他の何ものの前でも決して膝をかがめない、礼拝しない、イエス・キリストのみがわたしの唯一の主であり、わたしが生涯かけて礼拝すべき唯一の主であると告白し、礼拝し続けていく。それによって、わたしたちもまた今の時代の中で、力強く信仰の戦いを続けていくことができるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの罪のために十字架で死なれ、三日目に復活された主イエス・キリストだけをわたしの唯一の主とし、また全世界の唯一の主とする信仰をお与えください。

〇神よ、日本とこの世界を憐れみ、お救いください。あなたのみ心が行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月2日説教「12弟子の選びと主イエスの福音宣教の働き」

2021年5月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編103編1~13節

    ルカによる福音書6章12~19節

説教題:「12弟子の選びと主イエスの福音宣教の働き」

 前回わたしたちはルカ福音書6章12節以下のみ言葉から、主イエスが12人の弟子をお選びになったことの意味やその目的について学びました。12弟子の選びには、すでに教会の本質が言い表されていることを確認しました。きょうは13節の「使徒」という名前について、更に一つ付け加えておきたいと思います。使徒とは遣わされた者という意味です。この言葉を同じ節の「呼び集める」という言葉との関連で考えると、わたしたちの教会の本質が見えてくるように思います。つまり、教会とは呼び集められ、そして遣わされる信仰者の群れだということです。わたしたちは主の日ごとにそれぞれの場所から主イエス・キリストによってこの教会へ、礼拝の場へと呼び集められます。この礼拝で神のみ言葉を聞き、主イエスの救いの恵みにあずかり、新しい命を注ぎ込まれ、そして再び主イエス・キリストによってこの世へと派遣されていきます。罪ゆるされた者として、主イエスの救いの恵みに生かされている者として、この世へと派遣されていきます。このように、招集と派遣を繰り返していくのが教会です。わたしたち一人一人はこのような招集と派遣を繰り返していくことによって、信仰者として生き続けるのです。

 次に、選ばれた12人のリストについて考えてみましょう。最初の4人「イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、ヤコブ、ヨハネ」はガリラヤ湖の漁師でした。彼らが主イエスの弟子になった次第については、すでに5章1節以下に書かれていました。その個所によれば、ヤコブとヨハネの父はゼベダイと言い、二人は兄弟でした。彼ら4人は舟に乗って魚をとる漁師でしたが、主イエスの弟子となったことによって、主イエスの福音によって人間の魂をすなどる伝道者に変えられました。彼らは朽ちるパンを得るために働くのではなく、永遠の命に至る神のみ言葉のために働く人となったのです。

 ペトロという名は主イエスが付けられたとありますが、これはペトロの信仰告白と関連していると思われます。マタイ福音書16章13節以下には、ペトロが主イエスに対して「あなたこそがメシア・神のみ子です」と告白した時、主イエスが「あなたはペトロ、すなわち岩である。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたことが書かれています。それは、ペトロ自身が堅い岩であるという意味ではありません。主イエスをメシア・キリストと信じる信仰の上に、またその信仰告白の上に、主イエスは教会をお立てくださるという意味です。メシア・救い主なるイエス・キリストこそがわたしたちの教会の固い土台です。その土台の上にわたしたちの信仰があり、また信仰告白があるということです。

 フィリポ、バルトロマイについては何も知られていません。マタイは5章27節以下の徴税人レビと同一人物と考えられています。この当時の徴税人は、異邦人であるローマの皇帝のために働く罪びとと考えられていました。主イエスは罪びとをお招きになり、お救いくださる救い主であることを、弟子の選びにおいてもはっきりとお示しになりました。トマスはヨハネ福音書によれば、またの名をディドモと言い、他の弟子たちが「わたしたちは復活の主イエスと出会った」と言った時に、「わたしはあの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、決して信じない」(ヨハネ福音書20章25節参照)と答えたトマスと同一人物と考えられます。復活された主イエスは彼に、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。見ないで信じる人は、幸いである」と言われたことがヨハネ福音書20章に書かれています。今日のわたしたちもまた見ないで信じる幸いに招かれているのです。

 10人目の「熱心党と呼ばれたシモン」についてですが、熱心党はゼロテ党という名で、過激な宗教運動・政治運動をしていたグループでした。イスラエルの主なる神のみに熱心に仕え、異邦人であるローマが神の民イスラエルを支配していることに対しては武力をもってでも抵抗すべきだと主張していました。実際に彼らがローマからの独立を掲げて何度か暴動を起こしたことが記録に残っています。しかし、主イエスの12弟子のシモンについては、彼自身がどのような政治的な思想を持っていたのかとか、弟子たちの中で何か運動を起こしたというようなことは、聖書には全く書かれていません。また、主イエスご自身は当時のイスラエルの宗教的・政治的運動とは一線を画していたことは明らかです。ということから推測すれば、シモンは最初は宗教的・政治的運動に与(くみ)していましたが、主イエスと出会ってからは、本当の自由、本当の平和とは、そのような社会的運動によって得られるのではなく、人間の根本的な存在、魂の問題であり、神と人間との正しい関係から与えられるものであり、罪のゆるしこそが真の自由と平和の源であることを知らされていったのだと言えるでしょう。

 最後に挙げられている「裏切り者となったイスカリオテのユダ」については、主イエスの受難週の記録の中で重要な役割を果たしていることをわたしたちは知っています。イスカリオテの意味については二通りがあります。一つは、カリオテという町、あるいは地方の出身の人という意味、もう一つは熱心党と同じような過激な政治団体に属する人という意味ですが、はっきりとは分かっていません。ユダがなぜ主イエスを裏切るようになったのか、その理由と関連付けて考える研究者もいますが、ユダが主イエスをわずかなお金のためにユダヤ人指導者たちに売り渡したその理由は何だったのか、わたしたちには大きな疑問です。また、それ以上に、主イエスがなぜそのような可能性があるユダを12弟子に選ばれたのか、わたしたちを大いに悩ます疑問です。それにもかかわらず、わたしたちは最終的には、主イエスはそのようなすべての人間的な疑いや迷い、弱さや欠け、あるいは裏切りや憎しみ、それらのすべてをお用いになって、それらのすべてをはるかに超えて、ご自身の救いのみわざを成し遂げられたのだと言うべきでしょう。

 【17~19節】。山の上で徹夜の祈りをささげられ、12弟子をお選びになった主イエスは、彼らと共に平地に戻られました。実は、この個所は20節以下の主イエスの平地での説教の導入になっています。マタイ福音書では5章1節で、主イエスは山に登られて、山の上から弟子たちや群衆に説教をされたという設定になっています。いわゆる、山上の説教が始まるのですが、ルカ福音書では20節から同じような主イエスの説教が語られますが、それは平地での説教と言われています。マタイとルカでは説教の場所が違っていますが、ここには両者の神学、信仰理解の強調点の違いが反映されていると言われています。マタイ福音書では、主イエスは山の上から、天の神の権威によってみ言葉を説教されますが、ルカ福音書では主イエスは山から下りて来られ、いわば天から地に下って来られ、民衆と同じ場に立たれた神のみ子として説教しておられます。 

 主イエスは山の上で、天におられる父なる神に親しく祈りをされました。また、その山で神のみ心にかなった12人を選ばれ、彼らに使徒としての権威をお与えになりました。12~16節は山の上での出来事でした。主イエスはそのまま山の上にとどまっておられるのではありません。お選びになった弟子たちと共に山から下り、平地に立たれます。罪が支配しているこの地上に、死や汚れた霊、病、悩みに満ちているこの世に、主イエスは再び入って来られ、その中で神の僕(しもべ)としてお働きになるのです。選ばれた弟子たちも同じです。「彼らと一緒に」と書かれています。彼らもまた、主イエスと共に、主イエスの福音を携えて、病んでいるこの世へと、暗闇と死とが支配しているこの世界へと派遣されていくのです。ルカ福音書では実際に12弟子が派遣されることについては9章に、また72人の伝道者が派遣されることについては10章に書かれています。

 17節には、イスラエル全域から多くの民衆が主イエスの説教を聞くために、また病気をいやしていただくために集まって来ていたことが書かれています。主イエスはこの時はまだ故郷のガリラヤ地方で宣教活動をしておられましたが、主イエスのお名前はすでに首都エルサレムにまで知れ渡っていたようです。ティルス、シドンはイスラエル北西の地中海に面した町々で、そこはイスラエルの民以外の異邦人が多く住んでいる地域でした。主イエスの福音がイスラエルの国を超えて、異邦人へ、全世界へと宣べ伝えられるということが、ここですでに暗示されています。主イエスはイスラエルの民だけでなく、全世界のすべての人々の救い主であられます。

 18節では、主イエスのお働きが教えを語ることと病気をいやすことにまとめられています。これまでもそうであったように、主イエスは神の国の福音を説教されるとともに、神の国がすでに到来しているしるしとして、人々を苦しめていた病気や汚れた霊から人々を解放されました。神から遣わされたメシア・キリストであられる主イエスが神の救いの福音を携えてこの世においでくださったことによって、神の救いの時が始まりました。罪の支配と汚れた悪しき霊の支配に終わりが告げられたのです。主イエスがさまざまな病をいやし、汚れた霊に取りつかれている人を解放されたのは、その神の恵みのご支配のしるしなのです。

 神の国が到来していることのしるしは、主イエスの十字架の死と復活によって最終的に実証されました。神のみ子主イエス・キリストが十字架で流された清い聖なる血が、全人類を罪から贖い、すべての罪びとの罪を洗い清めます。そして、三日目に死者の中から復活され主イエスは罪と死とに勝利され、信じる者たちに来るべき神の国における永遠の命を約束してくださいます。

 19節に「イエスから力が出て」と書かれています。主イエスの福音を聞き、罪ゆるされ、神の国の民とされること、またその信仰のしるしとして病気がいやされること、その力はすべて主イエスから出ています。主イエスは父なる神の全能の力によって、今もなおすべて信じる信仰者に罪のゆるしと永遠の命をお与えくださるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中にあって滅びるほかないわたしたちを憐れみ、お救いください。多くの弱さや欠けや破れを持ち、病んでいるわたしたちの心と体とをお救いください。あなたがみ子主イエス・キリストによってわたしたちにお与えくださる罪のゆるしと永遠の命の約束を、固く信じさせてください。

〇神よ、今厳しい試練の中で苦悩している日本の国と世界の諸国を憐れみ、お救いください。あなたがみ心によって創造されたこの世界が、あなたのみ心に背いて滅びることがありませんように。

〇平和と安全が求められている地域に、あなたによる真実の和解と分かち合う心をお与えください。パンが必要とされている地域には、すべての人々に分配されるパンをお与えください。医療と水を必要としている地域には、人々の命を支えるための支援の手が差し伸べられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月25日説教「アブラハムとサラの家族計画」

2021年4月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記16章1~16節

    ガラテヤの信徒への手紙4章21~31節

説教題:「アブラハムとサラの家族計画」

 きょうの礼拝で朗読された創世記16章には、アブラハムが神の約束の地カナンについてから10年後のことが書かれています。3節後半にこうあります。【3節b】。12章に書かれていたように、アブラハムは75歳の時に神の約束のみ言葉を聞き、それに従ってこの地にやって来ました。妻のサライ(のちにサラに変えられます)も一緒でした。

アブラハムが聞いた神の約束は二つ、一つはカナンの土地を彼と彼の子孫とに受け継がせるという約束、もう一つは彼の子孫が増し加えられ、その子孫に神の祝福が受け継がれるという約束でした。16章ではその第二の約束が問題になります。すなわち、アブラハムとサラ夫妻に子どもが与えられ、その子にまた子どもが与えられ、更にその子孫が増し加えられ、全地に増え広がり、それとともに神の祝福がアブラハムからその子へ、その子孫へと受け継がれていく。ついには、全世界の民が神の祝福に入るようになるという約束です。

当然のことながら、この約束を担っているのはアブラハム一人だけではなく、妻サラも一緒です。二人でこの約束を担っています。二人一緒でなければこの約束を担うことはできません。ところが、この約束が危険にさらされる事態が、かつてあったということを、わたしたちは思い起こします。12章10節以下に書かれていたエジプト行きがそのきっかけでした。飢饉を避けてエジプト行きを決断したアブラハムは、美しい妻がエジプト人にねらわれた場合、自分が夫だと分かればエジプト人は自分を殺して妻を奪うであろう。しかし、妹だと言えば、その危険性がなくなるだけでなく、兄として優遇されるに違いないと考え、妻のサラを妹と偽り、しかもサラが王宮に召し入れられるのをよしとしました。アブラハムは自分の命を守るために夫婦の関係を投げ捨てたのです。妻サラをエジプト王に売り渡したのです。それだけではありません。神の約束をも投げ捨てたのでした。このようなアブラハムの大きな過ちにもかかわらず、神は寸前のところでアブラハムとサラを危機から救い、二人は共にカナンの地へと帰ることができました。神はアブラハムとサラをお守りになり、またご自身の約束をも守られました。

そのような夫婦の危機を共に乗り越えてきたアブラハムとサラでしたが、あれから10年が過ぎ、再び危機が迫ってきました。サラには未だ子どもが与えられません。「あなたの子どもが神の祝福を受け継ぐであろう」と言われた神の約束は未だ果たされません。そこでサラは夫アブラハムに一つの提案をします。【1~2節】。これまではアブラハムが主体的に行動していましたが、ここでは妻サラの方が先に行動します。このサラの提案は、古代近東諸国では法的に認められていた慣習でした。紀元前18世紀ころの古代バビロンの法律集であるハムラビ法典や15世紀の古代アッシリアのヌズ文書には、夫婦に子どもがなく、その責任が妻に帰せられる場合、妻は自分の所有する女奴隷の一人を第二の妻として夫に与え、彼女によって子どもをもうけなければならないと定められていました。創世記30章でも同じような慣習について書かれていますが、そこでは女奴隷に生まれた子を女主人の膝に置くことによって、その子どもが女主人から生まれた子どもと見なされることが説明されています。15章2、3節によれば、アブラハムは彼の家で仕える奴隷の子が跡継ぎになるであろうと言っていました。

しかしながら、当時の慣習に合っているとしても、夫の考えと一致しているとしても、そしてそれが夫に対する妻の配慮であるとしても、それは神のご計画、神の契約とは合致してはいないと言わざるを得ません。神はすでに15章4節でアブラハムに対して「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」とはっきりと言っておられます。サラのこの提案が神のご計画に一致しているとは言えません。

ところが2節の終わりには「アブラムは、サライの願いを聞き入れた」と書かれています。アブラハムも妻サラの家族計画に同意します。彼は15章4節で神が言われた約束を早くも忘れてしまったのでしょうか。あの時神の約束のみ言葉を聞き、夜空に瞬く無数の星空を見て、「あなたの子孫はこのようになる」と言われた神のみ言葉を信じたはずなのに、そしてその信仰が神に義と認められたのに。彼の信仰は何だったのかと改めて問わざるを得ません。

わたしたちはこの疑問をそのままにしてはおけませんので、ここでアブラハムとサラはどうすべきだったのかを、わたしたちなりに少し考えてみたいと思います。まず、結婚については創世記1章、2章が教えているように、神のみ心によって男と女とに創造された人間が、神の導きによって出会い、互いにふさわしい助ける者となり、父と母の家から独立して一体となることです。アブラハムとサラもそのようにして夫婦となったのですが、彼らにはさらなる神からの選びが、召しがありました。「あなたから生まれる子が神の祝福を受け継ぎ、更にその子孫へと受け継がれるであろう」という神の約束を共に担っていく夫婦であるということです。彼らは共にこの神の約束を聞きつつ、夫婦であり続けるのです。したがって、未だに子どもが与えられないとすれば、それは神のみ心だと理解すべきでしょう。2節でサラは「主はわたしに子供を授けてくださいません」と言っているように、子どもを授けるのは神です。とすれば、子どもが未だに授けられなのも神のみ心です。そうであるとすれば、忍耐強く、信仰をもって、神の約束の時を待つべきだったのではないでしょうか。

しかしながら、サラは神の約束を信じて待つことができませんでした。アブラハムもそうでした。彼らは自分たちの考えや知恵で、いわば神の約束を無理やりに引き寄せようとしているのです。それは神に対する不信仰です。不従順です。特に、信仰の父と言われるアブラハムには、その罪の責任が問われなければなりません。彼は神のみ言葉を聞くことによって生きるべきでした。けれども、ここではサラの言葉に同意しています。共に、一緒になって神のみ言葉を聞く夫婦こそが幸いです。けれども、共に神のみ言葉を聞くことをせずに、夫や妻の言葉だけを聞くならば、その夫婦は必ずしも幸いではありません。アブラハムとサラの夫婦にも直ちに不幸がやってきました。

【4~5節】。女奴隷ハガルのこの反応は、当初はサラの家族計画の中には入っていなかったのかもしれません。5節のサラのアブラハムに対する抗議からもそれがうかがい知ることができます。サラはハガルが自分を軽んじるようになったのはアブラハムのせいだと言っています。サラ自身が提案したにもかかわらず、それを夫のせいにしているのです。ここでは、夫婦の関係は破綻しています。互いに助ける者とはなっていません。

けれども、わたしたちがあらかじめ考えたように、これは神に聞き従わなかった夫婦の当然の成り行きだと言ってよいでしょう。この夫婦の家から平和が消え去りました。共に神の約束を担っていく夫婦ではもはやなくなりました。女主人と女奴隷との間に、夫と妻との間に、嫉妬、争い、分裂が生じました、神なしで始められた家族計画は、ついにはこのような結果になるほかありません。

【6節】。サラは夫であるアブラハムに訴え、このトラブルの処理を願っています。アブラハムは部族の長として部族内でのトラブルを調停する責任があり、家庭の長として家庭内のトラブルを解決する責任があります。けれども、彼にはそれができません。彼は二人の女たちの間を執りなすことができません。彼は二人の女たちの間に立って、全く哀れで無力な男でしかありません。神に服従しない人間は、人間同士の争いを真に解決できないのです。

ハガルは女主人サラから逃れるためにアブラハムの家を出ました。彼女は故郷のエジプトを目指していたと思われます。シュル街道はカナンの地から砂漠地帯を抜けエジプトに続いていました。その道の途中で、ハガルは主なる神と出会います。7節に、「主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会った」と書かれています。

この時のハガルの心境を考えてみましょう。奴隷の身でありながらアブラハムの子どもを宿すことになった大きな喜び、しかし女主人の辛い仕打ち。奴隷は主人の所有物と考えられ、生かすも殺すも主人次第。何の抵抗もできず、頼みのアブラハムも全く助けてくれない。孤独と不安の中で砂漠をさまようほかないハガル。けれども、アブラハムの神、イスラエルの神であられる主は、選びの民ではなかった異邦人ハガルをも決してお見捨てにはなりませんでした。神はイスラエルの神であるだけでなく、異邦人の神でもあられます。神は全人類の唯一の主なる神であるということを、わたしたちはここでも知らされます。

【8~12節】。アブラハムとサラの家族計画によって破壊されてしまった家族の関係を神が修正されます。女奴隷ハガルが女主人サラのもとに帰ることによって、奴隷と主人との関係が修復されました。それだけではありません。アブラハムとサラの夫婦の関係も修復されるのです。わたしたちはこのあと15節でそのことをはっきりと知るでしょう。そこには、「アブラハムはハガルが産んだ子をイシュマエルと名付けた」とあります。名前を付けるのは家の主人の務めでした。アブラハムはここで、11節の神の命令に従っているのです。アブラハムはここで再び神のみ言葉に従順に聞き従い、それによって、「あなたの子孫が星の数ほどに増え広がるであろう」と言われた神の約束をサラと共に担っていく者とされているのです。

ハガルの子イシュマエルは神の選びの民ではありませんが、その子孫が数えきれないほどに増えるであろうと10節に書かれています。旧約聖書においては、神は選ばれた民イスラエルによってご自身の救いのみわざをなし続けられますが、選ばれなかった民もまた神の救いのご計画の中で用いられます。それによって、新約聖書に至って、神は主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって、全世界のすべての民を教会の民として召し集めてくださるのです。

イシュマエルとは「主がお聞きくださる」という意味です。13節のエル・ロイとは「神はわたしを見ておられる」と言う意味です。神はアブラハムとサラの不従順で不信仰な家族計画という失敗を通しても、また異邦人の奴隷であったハガルを通しても、ご自身がわたしたちの願いをお聞きくださる主なる神であられ、わたしたちをいつも見ておられ、顧みてくださる主なる神であられることをお示しくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたはわたしたちの不信仰や貧しさや困窮のすべてを見ておられます。わたしたちの迷いや不安や重荷のすべてを知っておられます。どうか、わたしたちを憐れみ、顧みてください。わたしたちをなくてならないあなたの真理のみ言葉で導いてください。

〇神よ、日本と世界を憐れみ、顧みてください。恐れや不安、混乱、痛み、争いの中で苦悩する一人一人の叫びと祈りをお聞きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月18日説教「神の契約の子である教会の民」

2021年4月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記12章1~4節

    使徒言行録3章11~26節

説教題:「神の契約の子である教会の民」

 使徒言行録3章には、ペンテコステの日に誕生したエルサレム教会の最初の宣教活動について描かれています。ペトロが生まれながら足の不自由だった人に「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じ、彼の手を取って立ち上がらせると、彼は躍り上がって立ち、神を賛美しながら、神殿に入っていったと書かれています。ペトロを始め、初代教会の使徒たち、伝道者、教師たちには、神のみ言葉と主イエス・キリストの福音を語って人々を罪から救う権限と力が与えられていたと同時に、その罪のゆるしの目に見えるしるしとしての肉体的ないやしの能力をも与えられていました。使徒言行録やパウロの手紙にそれらの実例が数多く報告されています。これは福音書の中で主イエスご自身が持っておられた権限、力と同様です。使徒たちはその権能を託されました。

 エルサレム神殿での奇跡を見た民衆は、「我を忘れるほど驚いた」と10節に書かれていました。11節にも「民衆は皆非常に驚いた」と書かれています。ここで二度も民衆の驚きが強調されていることには理由があるように思われます。彼らの驚きは、彼ら自身はまだその本当の意味を理解してはいなかったのですが、それは実は、今や新しい救いの時が到来したことに対する驚きだったと言ってよいでしょう。旧約聖書に預言されていた神の救いが成就する時が、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって今到来したのです。罪の支配が終わり、神の救いと恵みが、すべての信じる人たちを支配する新しい救いの時が、このエルサレムから始まって全世界へと拡大していくのです。

 民衆の目は歩き出した人とペトロたちに向けられていました。彼らはまだ神の救いのみわざそのものを見てはいません。そこでペトロは、その驚きの本当の意味を明らかにします。12節からのペトロの説教がその真の意味を語っています。この説教は、2章12節以下の説教に続くペトロの二度目の説教です。わたしたちはこの個所からも、初代教会の説教の特徴を知ることができます。そしてそれは、その後今日に至るまでの2千年間の教会の説教の特徴ともなりました。

 説教の前半の12~16節では、主イエス・キリストの十字架の死と復活が語られ、それが罪のゆるしと救いを与える福音であることが語られています。後半の17節以下では、主イエスの福音は旧約聖書で預言されていた神の救いのみわざの成就であり、神が初めにお選びになったイスラエルの民に約束された祝福がいまや全世界のすべての国民に与えられていること、そして終末の時に、主イエスの再臨によって神の救いのみわざが完成され、永遠の慰めが神の契約の民すべてに与えられるということが語られています。この二つの説教のテーマは2章12節以下の最初の説教とも一致しています。今日のすべての教会の説教のテーマとも一致します。わたしたちは主の日ごとの礼拝で、聖書の至る所から、同じテーマの説教を繰り返し聞いているのです。

 ではまず、12節と16節を読んでみましょう。【12節、16節】。ペトロはここで民衆があれほどに驚いたその真の意味を明らかにします。それは、ペトロたちが何か大きな力や魔術を用いて行ったことではなく、主イエス・キリストのみ名を信じる信仰によって、神がなしてくださった奇跡でなのであると説明します。生まれながらにして全く歩いたことがなかったこの人が、彼らの見ている前で起き上がり、踊りだし、神を賛美し礼拝するために神殿に走っていったのは、十字架につけられ、三日目に復活された主イエスが、彼の罪をゆるし、彼を支配していた悪の力から彼を解放し、彼を新しい命によって生かしてくださったからであると、ペトロは語ります。ペトロは驚いている彼らの目を、歩き出した男の人とペトロたちに注がれていた彼らの目を、主イエス・キリストへと向けさせるのです。主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって歩き出す、新しい救いの時が今始まったのです。そのことをこそ、彼らは、すべての人は驚くべきなのです。

 16節では、「イエスの名」という言葉と「信仰」という言葉がそれぞれ二度用いられており、強調されています。つまり、主イエスのみ名こそが、またそれを信じる信仰こそが、この人の足をいやし、立ち上がらせるという奇跡を生み出し、罪から救われた感謝と喜びに生きるという新しい歩みを生み出しているのだということが強調されているのです。

 主イエスのみ名とは、主イエスの存在と行為の全体、その救いのみわざ全体を言い表しています。主イエスの十字架と復活の福音という救いの恵みと力とのすべてが主イエスのみ名に結びついています。主イエスを信じる信仰においては、主イエスのお名前とその実体とその救いの恵みとは分かちがたく結合しているのです。

 「その名を信じる信仰」がだれの信仰を意味しているのかはこの文章からははっきりしません。不自由な足をいやされた男の人の信仰か、それとも主イエスの福音を語ったペトロの信仰かをここで区別することはできません。おそらくその両方を含んでいると理解すべきでしょう。と同時に、「イエスによる信仰が」という言い方で暗示されているように、その両者の信仰は主イエスによって与えられ、造り出された信仰であるということが強調されているように思われます。

 次に13~15節で、ペテロは主イエスの十字架の死と死者の中からの復活について語ります。これが説教の第一のテーマです。13節に「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という神の呼び名が書かれていますが、これは出エジプト記3章15節などで用いられているイスラエルの神の呼び名です。その神のお名前が「その僕イエス」と結びつけられています。イスラエルの民をお選びになり、この民によってご自身の救いのみわざをお始めになった旧約聖書の神が、今や神の愛された僕(しもべ)であられる主イエス・キリストによって、その救いのみわざを全人類のために成就され、完成されたのです。

 主イエスの救いのみわざは、その十字架の死と死者の中からの復活によって成就されました。それがどのような状況の中で起こったのかをペトロは語っています。神がその愛する僕である主イエスに栄光をお与えになりましたが、神に選ばれた民であるあなたがたエルサレムの住民は主イエスに与えられた神の栄光を見ることを拒み、主イエスを異邦人の支配者であるピラトに引き渡した。それだけでなく、異邦人ピラトでさえも無罪と判断して釈放しようとした主イエスを、あなたがたは十字架の死へと追いやった。更には、死刑になって当然の罪を犯した犯罪人の方をあなたがたはゆるし、すべての人にまことの命をお与えくださるお方である主イエスを殺してしまった。あなたがたエルサレムの住民はこのように何度も判断を誤り、神のみ心に背いて罪を犯したのではなかったのかという、彼らの罪に対する厳しい告発がここにはあります。

 しかし、このペトロの告発は彼らの罪を責めるためのものでは決してありませんでした。「神はこの方を死者の中から復活させてくださいました」とペトロは説教します。神は人間たちのたび重なる過ちや背きの罪にもかかわらず、その罪をはるかに超えて、救いのみわざをなしたもうのです。人間の無知や反逆や罪にもかかわらず、神の救いのご計画は変更されることも中止されることもなく、主イエスのご受難と十字架の死と復活によって、その最終目的へと進んでいったのです。

 15節でペトロは「わたしたちは、このことの証人です」と言っています。使徒たちは主イエスの死と復活の証人として立てられました。そして、使徒たちの宣教によって、その説教を聞いた人たちが新たに主イエスの復活の証人として立てられていくのです。わたしたちもまたその一人です。

 ペトロの説教の後半を読みましょう。【17~19節】。主イエスのご受難と十字架の死はエルサレムのユダヤ人たちの無知の罪が勝利した結果ではありません。そうではなく、それは神が旧約聖書の中であらかじめ預言者たちを通してお語りになった預言の成就だったとペトロは語ります。イザヤ書53章の「苦難の主の僕」の預言が主イエスのご受難によって成就したのです。旧約聖書と新約聖書とは神の永遠の救いのご計画の中で一つに結ばれます。イスラエルのつまずきと人間たちの罪を超えて、神の救いのみわざは成就されます。

 そのことを知らされた会衆に必要なことはただ一つ、自らの罪を知り、それを悔い改めて神に立ち返ることです。救い主・主イエスを信じることです。そうすれば、神は信じる人すべての罪をおゆるしくださり、慰めと平安をお与えくださいます。16節では信仰が強調されていたということをすでに学びましたが、主イエスの福音によって与えられる救いをわたしたちが受け取るのは、ただ信仰によってです。旧約聖書の民イスラエルは神の律法によって導かれてきました。彼らは神の律法を守り行うことによって神の救いの道を歩んできました。けれども、その道にはまだ本当の救いは与えられていませんでした。なぜならば、だれも神の律法を完全に行うことができる人はおらず、かえって律法に違反する罪が増すだけだからです。しかし今や、神はメシア・救い主・主イエスを世にお遣わしになり、主イエスの十字架と復活によって人間の罪を贖い、ゆるし、主イエスの福音を信じる信仰によって、全き救いお与えくださいました。

 ペトロの説教の後半は、終わりの日、終末の完成を目指しています。【20~21節】。ここでは、主イエスの再臨のことが預言されています。地上での救いのみわざをなし終えられた主イエスは、今は天の父なる神の右に座しておられ、全地を支配しておられます。その主イエスが再び地上においでくださる終末の時、救いは完成し、神の国での完全な慰め、永遠の安息が実現します。もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない、新しい天と地が到来します。神がイスラエルの民をお選びになって始められた救いのみわざは、主イエスによって全世界の教会の民へと受け継がれ、終末の時の神の国の到来によって完成するのです。わたしたちの信仰の歩みはその終末の時を目指しています。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、「み国を来たらせ給え」とのわたしたちの祈りを更に強めてください。わたしたちの信仰の歩みを、来るべきみ国に向けて整えてください。わたしたちが移り行き、過ぎ去りゆくものに目と心とを奪われることなく、常に永遠なるものを追い求めることができますように、お導きください。

〇神よ、わたしたち一人一人を主イエス・キリストの復活の証人として立て、この世へ派遣してください。罪と死と滅びに支配されているこの世界に、復活の福音を持ち運ぶ者としてください。

〇神よ、この世界を憐れんでください。恐れや不安、病や痛み、試練や重荷に苦しむ人たちを助けてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月11日説教「信仰告白によって建てられる教会」

2021年4月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(教会建設記念日)

聖 書:申命記26章1~11節

    コリントの信徒への手紙一15章1~11節

説教題:「信仰告白によって建てられる教会」

 秋田教会は1934年(昭和9年)4月15日に教会建設式を行い、自給独立の教会となりました。(旧)日本基督教会が秋田に初めて伝道を開始し、秋田講義所(今の伝道所に当たります)を開設したのが1892年(明治25年)、それから秋田伝道教会建設が1906年(明治39年)、その40数年間、秋田教会はアメリカ・ドイツ改革派教会ミッションという外国の教会からの経済的・人的支援を受けていましたが、教会建設によって自給独立の教会となったわけです。今年はそれから87年目になります。

 きょうの礼拝でもう一つ覚えたい記念日は、1951年(昭和26年)5月20日の秋田教会臨時総会で日本キリスト教会加入の決議をしたことです。第二次世界大戦中の1941年(昭16年)6月、日本のプロテスタント教会は当時の国策に従って日本基督教団に合同しましたが、この合同教会は諸教派の集まりであり、信仰告白を持たず、教会政治の在り方も定まっていませんでした。そこで、(旧)日本基督教会に属していた一部の教会が、一つの信仰告白を持った長老制の教会を建設しようとして、日本基督教団を離脱し、新しい日本キリスト教会を創設することになりました。秋田教会も東京中会の9教会の中に加わりました。

 新しく創設された日本キリスト教会は1953年10月に開催の第3回大会で『日本キリスト教会信仰の告白』を制定し、2007年10月の第57回大会ではその口語文を制定しました。わたしたちが礼拝で告白しているものです。きょうから月1回ほどの割合で『日本キリスト教会信仰の告白』を説教で取り上げ、その連続講解をする予定です。これによって、わたしたちの教会がこの日本の地に、この秋田の地に、どのような教会を建てようとしているのかを皆さんで再確認していきたいと願っています。

 第1回目のきょうは、聖書と信仰告白との関係について学んでいきましょう。信仰告白は聖書に書かれている神のみ言葉、主イエス・キリストの福音に対する信仰による応答です。またそれは聖書全体の要約、まとめでもあります。言うまでもなく、聖書が主であり、源泉であり、信仰告白は従であり、その下流です。したがって、わたしたちが『日本キリスト教会信仰の告白』を学ぶということは、その信仰告白を生み出した源泉である聖書を学ぶということにほかなりません。

 そのような聖書と信仰告白との関係を次のように言い表します。「聖書は規範づける規範であり、信仰告白は規範づけられた規範である」。つまり、聖書はわたしたちの信仰そのものの基準であり、それを導く手本であり、また信仰告白や教会の在り方、すべての信仰生活と教会の営みの基準、手本、規範であるということ。それに対して、信仰告白は神のみ言葉である聖書によって規範づけられたものであり、同時にそれはわたしたちの信仰の在り方や聖書の読み方、教会形成の在り方などを具体的に規範づける、第二の規範であるという意味です。

 たとえば、聖書を読む場合、信仰告白という規範がなければ、その人その人によって理解が大きく異なって、自分勝手な理解になり、聖書の本来の意図からそれてしまうことにもなりかねません。信仰告白は教会の長い歴史の中で、異端的な教えや間違った聖書理解との戦いの中でまとめられたものですから、わたしたちが聖書を正しく読むための助けになります。わたしたちは『日本キリスト教会信仰の告白』という第二の規範によって信仰の訓練を受けていますから、おのずとその信仰告白の助けと導きによって聖書を読むことができます。もちろん、わたくしの説教も『日本キリスト教会信仰の告白』に規範づけられています。

 では、聖書の中では信仰告白はどのようにして生み出されてきたのでしょうか。旧約聖書と新約聖書の中から、信仰告白の代表的な個所を読んでみましょう。旧約聖書は申命記26章5~9節です。【5~11節】(320ページ)。ここでは、族長アブラハムの時代からエジプト移住とそこでの苦難の生活、そして出エジプトと約束の地カナンでの土地取得に至るまでのイスラエルの民に対するの神の導きと救いの歴史について告白されています。このようなイスラエルの信仰告白は旧約聖書の至る所に見いだすことができます。彼らはこのような信仰告白を安息日の礼拝で、また特に季節ごとの大きな祭りで、繰り返し告白し、神の救いの恵みを感謝したのです。信仰告白によってイスラエルは信仰の民として強められていきました。

 ここから、信仰告白が持っている役割について三つのことを確認することができます。一つには、信仰告白は長い神の救いの歴史を、その中心的な内容を短くまとめ、礼拝で告白したり、信仰の教育と継承のために用いることができるようにしたものであるということです。二つ目は、その信仰告白を今この時代の信仰者が礼拝で告白することによって、かつての神の救いのみわざを今ここに生きているわたしたちのための救いのみわざとして再体験し、神への信仰と感謝とをより強くするということです。三つ目は、同じ信仰告白を礼拝で共に唱和することによって、一つの群れ、一つの信仰告白共同体が形成されていくということです。これらはみなわたしたちの信仰告白にも共通することです。

 新約聖書の時代になって、更に新しい信仰告白の役割が付け加えられました。そのことを教えるのがコリントの信徒への手紙15章1節以下です。【3節~5節】(320ページ)。これは初代教会時代の最も整った信仰告白と言えます。使徒パウロはこの信仰告白を彼自身が初代教会から受け取ったものだと言っています。パウロがこの手紙を書いたのは、エルサレムに世界最初の教会が誕生してからおよそ20年後の紀元51、2年です。わずか20年の間にこのような信仰告白が作成されていたということは驚きに値します。初代教会もイスラエルの民と同様に、信仰告白を生み出し、信仰告白によって生きる教会であったということが分かります。ちなみに、わたしたちが告白している『日本キリスト教会信仰の告白』の後半部分の『使徒信条』は紀元4、5世紀ころに完成されたと考えられていますが、この手紙に書かれている信仰告白がその原型となっていることは明らかです。

 パウロがここで初代教会の信仰告白を取り上げたことには理由がありました。それは、コリント教会の一部の人たちが主イエス・キリストの復活を正しく理解せず、それによってキリスト者の復活を否定するという誤った信仰へとそれていっていたからです。しかし、初代教会の信仰告白が主イエス・キリストの復活についてこれほどに明確に告白しているのだから、主イエスを信じる信仰者の体の復活がそれに続いていることは確かであると、パウロは15章全体で力説しています。

 このことからわたしたちは信仰告白のもう一つの重要な役割を見いだします。それは、信仰告白が間違った教えや異端的な教えとの戦いの中で生み出され、またその間違った教えと戦うための正統的な信仰の武具として、正しい信仰を守るための役割りを果たすということです。パウロ以後、5世紀ころまでのキリスト教会はさまざまな異端との戦いに明け暮れました、教会は何度も世界規模の教会会議を開催し、異端を退けてきました。今日、基本信条あるいは世界信条(信条とは信仰告白と同じ意味ですが)と呼ばれている『使徒信条』『ニカイア信条』『カルケドン信条』のほとんどは、異端との戦いの中で、世界教会会議によって制定された信仰告白です。

 初代教会・古代教会時代以後にも、宗教改革期、そして近代においても、さまざまな異端的な教えが現れ、教会はそれらとの戦いの中で新しい信仰告白を生み出し、またその信仰告白によって異端的教えと戦ってきました。人間はいつの時代にも、自分勝手に、自分の好みに合わせて、聖書を読もうとします。あるいは、聖書の理解がその時代に流行した思想、哲学などに影響されてきました。信仰告白は歴史の中で教会が勝ち取り、確定してきた正しい信仰を言い表したもので、わたしたちを間違った聖書の読み方や信仰理解から守り、正しい聖書理解を規範づけ、導くという役割を果たしています。

さらには、わたしたちを異教的な偶像礼拝やこの世的な世俗主義的な生き方から守る盾となり、またそれらと勇気を持って戦うための武具ともなるのです。

『日本キリスト教会教会員の生活』の中で、わたしたちの教会の特徴として三つ挙げられています。その第一が、信仰告白に生きる教会であるということ、第二には長老制の教会であるということ、第三には独立性と公同性とを重んじる教会であるということです。

信仰告白に生きる教会とは、信仰告白の源泉である聖書、神のみ言葉を重んじ、それによって生きる教会であるということです。聖書のみ言葉を聞いて信じること以外の何かによって生きるのではないということです。たとえば、教会の伝統とか伝承、人間の言い伝え、あるいは教会の制度や儀式、教会の社会的な活動、人間的な利益や利便性などによって生きるのではないということです。ただ神のみ言葉によって生きる教会であるということです。

信仰告白によって生きる教会とは、信仰告白が聖書のみ言葉に対する信仰の応答であるように、わたしたちがそれぞれの生きている時代の中で、それぞれの生活の現場で、神のみ言葉に積極的に応答して生きる、日々の信仰生活そのものが信仰告白として生きるということです。わたしたちの信仰は、何らかの思想とか知識とかではありません。わたしの生き方そのものが信仰告白によって変革されていく、信仰告白を証ししていく、それがわたしたちの信仰告白的生活です。

信仰告白によって生きる教会とは、信仰告白によって教会が一つの生ける群れとして建てられていくということです。教会は神のみ言葉への応答である信仰告白によってのみ真実に建てられていきます。組織や制度を強固にすることによって建てられていくのではありません。一人の強力なリーダーによって建てられるのでもありません。共に一つの信仰告白を告白し、その信仰告白によって一つに結び合わされ、主キリストの体なる教会が建てられていくのです。

わたしが一人の信仰者、キリスト者となるということは、具体的にはわたしが『日本キリスト教会信仰の告白』をわたしの信仰として受け入れ、すでに告白している告白共同体の中にわたしもまた加えられるということなのです。その告白共同体の中でわたしの信仰が守られ、導かれ、養われていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、一つの信仰告白のもとに集められている日本キリスト教会を、あなたのみ心にかなった教会として、この地にあって真実の主キリストの体なる教会として、託されている福音宣教の使命を果たしていくことができますように、お導きください。秋田の地に立てられているわたしたちの教会を祝福し、導いてください。群れに連なる一人一人をお守りください。また、全世界に立てられている主キリストの教会を強めてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。