8月4日(日)説教「空と海と地の生き物の創造」

2019年8月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章20~25節

    使徒言行録10章9~16節

説教題:「空と海と地の生き物の創造」

 神は六日の間に天地万物とすべての生き物と人間とを創造され、七日目に休まれました。創世記1章に書かれている神の天地創造のみ言葉を19節まで、第4日目までを読んできました。わたしたちがこれまで何度も確認してきましたように、1章の天地創造の記録は1日1日が非常に整えられた形式で書かれ、しかも論理的で、よく考え抜かれた記述になっています。「神は言われた」という言葉で1日が始まり、神が「あれ」とお命じになるとそれが存在し、神がその存在したものに名前を付け、それぞれに役割を与え、「神はそれを見て、良しとされた」という言葉が最後にあり、「夕べがあり、朝があった。第何日である」という言葉で結ばれています。

1日1日が整えられた形式で書かれているだけでなく、六日間全体の構造も前半と後半で並行関係を持っています。それを見ていきましょう。第1日目に創造された3節の光に対して、後半の最初、第4日目には14~16節で、光を発する天体、太陽と月と星々が創造されました。第2日目、6~7節の大空と水に対して、第5日目、きょうの礼拝で朗読された20~21節の大空の鳥と水の中の生き物、そして第3日目、乾いた地とそこに芽生えた植物に対して、第6日目、24~27節、地の生き物、動物たちと人間、というように、前半の3日間と後半の3日間が対応しています。

このことは、神が一日一日の創造のみわざに、また一つ一つの造られたものに深い配慮と愛とをお示しになっておられるだけではなく、全体としても秩序と知恵をもって、神によって造られた被造世界全体の調和と関連性を十分に考慮されて創造のみわざをお進めになっておられることを明らかにしています。

神はまずすべての光の根源である光そのものを創造され、次に、発光体である太陽や月、星を創造されました。最初に創造された2節の光がどういうものであるのか、わたしたちには説明がつきませんが、第4日目に創造された発光体と深く関連していることは推測できます。光とは、聖書で光という言葉が用いられるときには常にそうなのですが、目で見て感じる明るさだけでなく、その中に神から与えられるもろもろの賜物、恵みが含まれているということを教えているのです。聖書が語る光は、すべての闇と言われるものを照らして、その闇を追い払う光であり、太陽や蛍光灯の明かりでは照らすことができないこの世の暗闇や人生の暗闇を、またわたしたちの魂を照らす光なのです。さらにこの光は、わたしたちの中に隠れ潜んでいる罪を明るみに出し、またその罪を追い払う光でもあります。主イエス・キリストはそのようなすべての人を照らすまことの光であると、ヨハネによる福音書1章で言われています。

第2日目に、神は大空を造り、大空の上の水と下の水とを分けられました。この二つの水は再び一緒になることはありません。どんなに雨が降っても、海の水が空の水に届くことはありません。そして、第5日目に神は空と海にそれぞれの場所にふさわしい生き物を創造されました。空の鳥が大空の上の水でおぼれて死ぬことはなく、海の魚は水が乾いて死ぬことはありません。彼らもまた神の創造の恵みにあずかり、神の愛と配慮によって守られているのです。

第3日目に、神は大空の下の水を集めて乾いた地を造り、またその地から植物を芽生えさせられました。第6日目には、乾いた地を自由に動き回る動物たちを創造されました。彼らは海の水に飲み込まれてしまうことはなく、また飢えて死ぬことがないために地の植物が食べ物として与えられました。神の創造の秩序に従うならば、地は植物に占領されることなく、動物たちが植物を食べつくしてそれを枯らしてしまうこともありません。今日、ある種の動物が絶滅の危機にあると言われるのは、人間がその貪欲のために神が創造された秩序を破壊しているからにほかなりません。

わたしたちはすでに、きょうのテキストである第5日目と第6日目の内容に入っていますが、第5日目の最初の20節と、第6日目の最初の24節はいずれも「神は言われた」という言葉で始まっています。第1日目から第4日目までもすべてそうでした。神はきのうもきょうも、そしてあすも、常に語り給う神です。わたしたちは神がお語りになられるみ言葉を常に新たに聞きつつ生きる者たちです。

神はいたずらに無駄なおしゃべりをなさるためにお語りになるのではありません。すでにわたしたちが何度も確認してきたように、神は最もふさわしいときに最もふさわしいみ言葉をお語りになります。神は上の水と下の水とを分けられ、下の水は海に集められ、上の水は大空の上に集められました。そして、こうお命じになります。【20~21節】。神はそれぞれにそれぞれの場所を備えてくださり、水の中と大空に、その場所にふさわしい命を創造され、そこに生きるべき使命を与えてくださいます。ここでもまた、「神はこれを見て、良しとされた」と書かれています。これは単なる決まり文句の繰り返しではありません。「神がなされることは皆その時にかなって美しい」とコヘレトの言葉3章11節(口語訳)にあるように、神はわたしたち一人一人に、その時その時にふさわしいみ言葉をもって、わたしたちを導いてくださいます。

21節に、水の中の大きな怪物が造られたと書かれていますが、これは古代近東諸国の神話が背景になっていると考えられています。古代の人々にとっては、海は人間の力では制御できない恐るべき魔力を持っていて、海の中には巨大な竜のような怪獣がいると考えられていました。けれども、聖書ではその巨大な竜もまた神によって造られた被造物であるとされています。神はこの世界のすべての神話的な力や魔力をもご支配しておられるということが強調されています。

同じ21節に「創造された」という言葉があります。この創造するという言葉については1節で説明しましたように、ヘブル語ではバーラーですが、神が主語の時以外には用いられない特別な言葉です。その特別な意味を持つ言葉が、第5日目の海と空の生き物の創造のときになって初めて用いられています。そしてこの後には、人間の創造のときに27節では3度続けて用いられます。

では、なぜここで特別な意味を持つバーラーという言葉が用いられているのかについて少し考えてみましょう。バーラーは神の創造のみわざの中で特別な深い意味を持つ言葉として用いられるのですが、それは、創造される神と創造された被造物との強く密接な関係を言い表しています。その一つは、神が命を創造され、その命を生き物にお与えになったということです。旧約聖書の民ユダヤ人は血の中に命があると考えました。その点で、第3日目に造られた植物と第5日目に創造された海と空の生き物、さらには第6日目の地上の生き物との間には大きな違いがあります。生き物には命があり、血が流れています。命である血は造り主なる神のものです。神がその命を生き物たちにお与えになり、またその命をご自身に取り上げられるのです。生き物たちの命は、彼ら自らのものではありません。神から与えられたもの、託されたものです。したがって、その命は神のために、神のご栄光のために用いられなければなりません。

この考え方は、特にイスラエルの神礼拝の中で、神に生き物の血をささげるという儀式の中で具体化されていきました。生き物の血は最も重要な神へのささげ物であり、礼拝者が自分自身の命を神にささげることを象徴的に言い表していました。そして、その頂点に、新約聖書の中で神のみ子主イエス・キリストが十字架で流された尊い、汚れなき血があります。主イエス・キリストの十字架の血は、すべての人の罪を贖う血であり、すべての罪から洗い清める聖なる血であり、すべての人の罪を永遠にゆるす力と命とを持っているのです。

バーラーという言葉が持つもう一つの特別な意味は、22節のみ言葉と関連しています。【22節】。ここで初めて、創造されたものへの神の祝福が語られます。この祝福の意味は「産めよ、増えよ」という神のみ言葉に関連しています。つまり、命あるものがその命を次の世代に受け継いでいくこと、そこに神の祝福があるということです。神の祝福のみ言葉が新しい命を生み出し、その命を保ち、存続させるということです。

わたしたちはここで二つのことを確認しておくことが大切です。その一つは、すべての命には神の祝福があるということです。神の祝福なしにこの世に誕生する命はありません。どのように小さな命であれ、小さな生き物であれ、あるいは傷ついた命であれ、すべての命には神の尊いみ心があり、祝福があるのです。神のみ心に背いてその命を自由に処理したり、奪い取ったりすることは許されません。ましてや、人間の命にこそ、そのことが当てはまります。

第二には、すべての命は神の祝福のうちにあって次の世代へと受け継がれ、増え、広がっていくということです。命の増殖や繁殖に神の祝福があります。生き物たちはこの神の祝福のうちにあって、自ら新しい命を生み出していくことをゆるされているのです。神の祝福を忘れ去った単なる細胞分裂を繰り返すだけの増殖や繁殖が神のみ心に沿っているかどうかをよく吟味してみることが大切です。それ以上に重要なことは、わたしたち人間には神の祝福を受け継ぐ次の世代へと信仰を継承していく使命が託されているということです。

創世記12章1節以下で、神はアブラハムを祝福してこのように言われました。【1~3節】(15ページ)。この神の祝福はアブラハムの子イサクへ、イサクの子ヤコブへ、そしてヤコブの12人の子どもたちであるイスラエルの民へと受け継がれていきました。さらには、わたしたちの救い主、主イエス・キリストによって、全世界の教会の民もまた、このアブラハムに約束された神の祝福を受け継ぐようにと招かれています。

1章24節からは第6日目の創造のみわざが始まりますが、その前半では地の生き物たちが創造されます。【24~25節】。この第6日目の創造で特徴的なことは、地が、陸地が生き物たちを生み出すようにと言われていることです。これは第3日目の11、12節と共通しています。ここには、地が、大地が命の母であるという古代人の考えが反映されていると推測されます。いずれにしても、地上にある命はすべて神によって創造されたもの、神の祝福によって誕生し、増え広がっていくものであるという原則は変わりません。

25節には、まだ第6日目の途中であるのに、「神はこれを見て、良しとされた」というみ言葉が語られています。第6日目の終わりの31節ではもう一度「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」と繰り返されています。つまり、第6日目には同じ言葉が2回繰り返されているのです。この日が天地創造の六日間で最も重要な日であることが、ここからもわかります。なぜならば、この日に、すべての被造物の冠としての人間が創造されるからです。その直前の25節で、この日の終わりを待たずに、「神はこれを見て、良しとされた」というみ言葉があらかじめ語られているのです。すなわち、最後の人間を創造するための舞台がすべて整ったということを、ここで確認しているのです。

最後に、わたしたちは主イエスのみ言葉のいくつかを思い起こします。主イエスはたびたび、神がお造りになった被造物に言及されました。ガリラヤ湖で魚を取っていた漁師のペトロたちに、「わたしに従ってきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にするから」と言われました。「一粒の種が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶようになる」とも言われました。「空の鳥を見よ、野の花を見よ。神は彼らを養っておられる。ましてや、あなたがた人間をどれほどに気にかけ、愛しておられることか」と言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました。事実、主イエスはわたしたち罪びとを罪から救うために十字架で死んでくださったのです。

(祈り)

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