9月22日(日)説教「第七日の安息」

2019年9月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記2章1~3節

    マタイによる福音書12章9~14節

説教題:「第七日の安息」

 神の天地創造のみわざは、第六日目の人間創造を最後に、完了しました。1章31節にこう書かれています。【31節】。これまでにも、一日の創造のみわざの終わりに、「神はこれを見て、良しとされた」と繰り返されてきましたが、ここでは「見よ、極めて良かった」と言われています。「見よ」とは、注意をうながしたり強調したりするときに用いられる言葉です。「極めて」も強調していますから、二重に強調されていることになります。

 神が創造されたすべてのものは、第一日目の光から第六日目の人間に至るまで、そのすべてが神のみ心に適い、神の良き創造のみわざであり、しかも創られたもの全体としても、構造や秩序、調和、互いの関係、あらゆる点において完璧であり、美しく、何一つとして欠点なく、不足もなく、汚れや歪み、悪もなく、「極めて良かった」と聖書は語っています。

 聖書がそのことを強調する理由は何でしょうか。また、わたしたちがそのことを信じる意義はどこにあるのでしょうか。それは、3章で人間の堕落、罪について語っている箇所でより明らかになるのですが、ここでいくつかのことを挙げておきましょう。第一に重要な点は、神は全能の神であられ、全く善であり完全であり、神には汚れとか悪とか欠点や不足というものが全くないということをわたしたちが信じるためです。したがって、神の創造のみわざはもちろん、神がなさるすべてのみわざは良きものであり、少しの欠点も不足もないということを、わたしたちが信じるためです。

 第二には、しかしながら現実にわたしたちが見たり経験したりしている現実世界では、さまざまな混乱や破れ、悪や罪があふれているとするならば、それは神以外のところから出てきたのであり、まさに人間の罪に起因しているのだということをわたしたちが知り、認め、その罪を神のみ前に告白して、悔い改め、神のゆるしを願い求める者となるためです。

 第三には、すべての被造物の頭として創造され、神のかたちに似せて創造された人間が、神から託された他の被造物を治める務めを忠実に果たすためです。この被造世界、自然、地球、宇宙全体の混乱や破壊、破れに対して、責任を自覚しつつ、神が創造された良き世界を回復するために、世界の平和を創り出し、社会秩序を正しく維持し、自然環境を守るという務めを果たすことがわたしたち人間に求められています。

 そして第四に、神が創造された良き世界を、神は終わりの日に必ずや完成させてくださることを信じ、神の国を待ち望む信仰を持ち続けるためです。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」。

 2章1節からは、第七日目について語られます。【1~3節】。ここでまず確認しておくべきことは、第七日目にも神が主語となられ、ただ神だけが行動されるということです。2節に「神は」「神は」と2度繰り返され、3節でも「神は」「神は」とあり、すべて神が主語の文章です。被造物である人間も他の生き物も、ここではまだ全く姿を現していません。何の活動もしていません。これまでの六日間にも、すべて神が主語となって、神がみ言葉をお語りになってすべてのものを創造されましたが、この第七日目にも、神が主語となられ、神が創られたすべてのものを支配しておられます。このことは、このあとで安息日について考える際に重要な意味を持ってきます。

 もう一つここで確認しておくべきことは、神の創造のみわざは第七日目で完成されるということです。1節に「完成された」とあり、2節でも「神はご自分の仕事を完成された」と書かれています。神の創造のみわざは、第七日目に神が創造のみわざを終えて休まれたことによって、またこの日を祝福され、聖別されたことによって、完成されたのです。つまり、6日間にわたって創造されたものがすべてそろって、そこに存在していたとしても、それで終わりではなく、まだ完成ではなく、神が第七日目に創造のわざを終えて休息され、その日を神の特別な日として祝福され、聖別されることによって、そのようにして初めて神の創造のみわざは完成されるのだということです。このこともまた、わたしたちが安息日の意味を考える際に深い意味を持ってきます。

 さらにもう一つのことを確認しておきたいと思います。それは、神の創造のみわざは完成したということです。1節と2節に2度「完成された」と繰り返されているように、神の創造のみわざは未完成ではなく、途中で終わったのでもなく、神がご計画なさったように、その最終目的に達したということです。神の創造のみわざは他の何かによって補われなければならないのではありません。神の創造のみわざが未熟なために、この世界に欠けや不足や歪みがあるのでもありません。1章31節でも言われていたように、神の創造のみわざは第一日目の光から始まって第六日目の人間に至るまで、すべてが神のみ心に適い、神のご栄光を現すものとして完成されているのです。

 以上3つの点をあらかじめ確認したうえで、第七日目の中心的な意味について学んでいきましょう。神は第七日目に、すべての創造のわざを終えて休まれました。2節でも3節でも「安息された」と翻訳されているように、この言葉は単に疲れたから休むとか、仕事を終えて息抜きをするという意味ではありません。わたしたちがあらかじめ確認してきたように、神はこの日、第七日目に安息されることによって、ご自身の創造のみわざを完成されたのです。ある意味では、神はこの第七日目にこそ、最も力強くみわざをなさるのです。そのみわざは「祝福する」と「聖別する」です。

 「祝福する」という言葉は1章22節と28節にもありました。22節では、空と地と海の生き物たちの命の繁殖に対して神の祝福が与えられていました。28節では、人間の命が増え広がることに対して、神の祝福が与えられていました。いずれも、神から与えられた命が満ち溢れることが神の祝福です。そこには神の特別な喜びがあり、愛があり、神から与えられた力があり、満ち足りた平安があります。神によって創造された命は、この第七日目の安息日に、神の祝福を与えられて最終的に完成するのです。命あるものは、この神の祝福なしにはその命を長らえることはできませんし、命を次の世代に受け継ぐこともできません。安息日はこの神の祝福が特別に満ち溢れる日です。

 のちの時代に、イスラエルの民は家の長男が家督権とともにこの神の祝福を受け継ぐと考えました。族長アブラハムの祝福がその子イサクに受け継がれ、イサクの祝福がその子ヤコブに受け継がれ、ヤコブの祝福がイスラエルの民へと受け継がれていきました。そして、イスラエルの民の中からお生まれになった主イエス・キリストによって、今日のすべての教会の民へと神の祝福は受け継がれています。わたしたちは安息日ごとの礼拝でその祝福を受け取るのです。

 安息日の神のみわざのもう一つは「聖別する」です。聖別とは、他のものから区別して、神にささげられるために、神のために取り分けることを言います。この第七日目は、神のための日であり、神に属する日であり、神にささげられる日だということです。この第七日目の聖別によって、それまでに創造されたすべての被造物が、いま改めて神に属するもの、神にささげられたものとされました。すべての被造物は神のために存在し、すべての命は神のために生きるのです。これによって、神の創造のみわざは最終的に完成しました。

 のちの時代、紀元前13世紀ころ、エジプトの奴隷の家から神によって導き出されたイスラエルの民はシナイ山で神と契約を結び、神の民とされたとき、神はこの第七日目をイスラエルの安息日と定められました。出エジプト記20章8節以下に記されている十戒の第三戒で、神はこのように命じられました。【8~11節】(126ページ)。10節には「主の安息日であるから」と言われています。安息日はイスラエルの民のために定められたのですが、本来は主なる神の安息日であるということがここでも忘れられていません。主なる神がこの日に主語となられ、主なる神がこの日に創造のみわざを完成され、主なる神がこの日を祝福され、聖別されるのです。主なる神がこの日に造られたすべての被造物をみ手に治め、ご支配され、命をお与えになるのです。契約の民イスラエルはこの神の安息へと招かれています。

 今日のわたしたちにとっての安息日も同様です。旧約の民イスラエルにとっての安息日は第七日目、土曜日でしたが、新しい契約の民、教会にとっての安息日は、主イエス・キリストが週の初めの日の日曜日に墓から復活されたことを記念して日曜日が新しい安息日となりましたが、この日が神ご自身の安息日であり、神のための日であり、神にささげられるべき日であるという意味はそのまま受け継がれています。日曜日はわたしたち人間が自由に用いてよい人間のための安息日なのではありません。週日に働いて、日曜日に疲れた体を休めるとか、自分の自由な時間として用いるということではありません。そこには造り主なる神はおられません。そこには祝福はありません。まことの命はありません。

 安息日は何よりの第一に主なる神のための安息日です。主なる神が安息日に人間をも含めたすべての被造物の主となられるのです。マタイによる福音書12章8節で、主イエスは「人の子は安息日の主である」と言われました。そして、続く9節以下では、主イエスは安息日の主として、病める人をいやされ、罪びとたちの罪をゆるされました。主イエスは安息日にこそわたしたち人間のために働かれます。人の子としてこの世においでになった神のみ子、主イエス・キリストこそが、安息日の主として、この日に礼拝に集められているわたしたち一人一人のために、救いのみわざと新しい創造のみわざをなしてくださいます。神の創造のみ心に背き、罪の中で死と滅びとに支配されていたわたしたちを、ご自身の汚れのない聖なる十字架の血によって罪から贖い、新しい復活の命を注ぎ込んでくださる主イエス・キリストが、わたしたちにとっての安息日の主です。

 初代教会は、十字架につけられた主イエスが週の初めの日、日曜日の朝に復活され、弟子たちに復活のお姿を現され、また次の日曜日にも弟子たちに現れてくださったという経験から、旧約聖書時代の安息日であった土曜日から日曜日に安息日を変更し、この日に礼拝をささげるようになりました。復活され、罪と死とに勝利された主イエスは、今もみ言葉と聖霊とによってわたしたちの安息日の礼拝で、わたしたちに出会ってくださいます。

 主の日ごとの安息日の礼拝は、さらに、終わりの日の永遠の安息日を目指しています。終わりの日には、わたしたちは何の妨げもなく、主なる神と永遠に共にいることがゆるされます。もはや、死もなく、悲しみも痛みも叫びもない新しい天と地とが創造されます。そのとき、永遠の安息がわたしたちに与えられるのです。

(祈り)

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