10月6日説教 「マリアとエリサベトの出会い」

2019年10月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章1~11節

    ルカによる福音書1章39~45節

説教題:「マリアとエリサベトの出会い」

 ルカによる福音書1章39節以下には、マリアとエリサベトの出会いの場面が描かれています。36節によれば、二人は親類関係にありました。それ以上に二人を結びつけ、接近させているものがあります。それは、二人とも、神の奇跡によって母になろうとしていることです。神からの特別の恵みによって、やがて母になろうとしている二人の婦人、年老いたエリサベトと若いおとめマリアが、ここで出会っているのです。いや、それだけではありません。一人の人間と一人の人間とが出会っているというだけではなく、ここではもっと別の何かが、目には見えないけれど、何か特別なものが、特別なことが出会っているのです。

 キリスト教美術の中で、何人かの画家によって、この二人の出会いの場面が非常に感動的に描かれているのを、わたしたちは見ることができます。世界史の中では、歴史を大きく変えた偉大な出会いというものもありました。それらと比較すれば、マリアとエリサベトの出会いは、世界史を直接に動かす力など全くない、ごく小さな、目立たない出会いであるように思われます。そうであるのに、それらの画家たちはこの二人の婦人たちの出会いを、輝かしい光の中で、非常に感動的に描いています。この二人の婦人たちの出会いの中に、何が隠されているのでしょうか。わたしたちはそれをきょうの聖書のみ言葉から聞き取っていきたいと思います。

 【39~40節】。「このころ」とは、26節の「六か月目に」と関連しています。つまり、洗礼者ヨハネの父となる年老いた祭司ザカリアが、「あなたは男の子を生む。その名をヨハネと名づけなさい」という神の約束のみ言葉を聞き、妻エリサベトが身ごもってから6か月目に、今度はガリラヤ地方のナザレの町に住むおとめマリアが、「あなたは男の子を生む。その名をイエスと名づけなさい」という神の約束のみ言葉を聞いて、その胎内に新しい命を宿し始めた、そのころにということです。

 「マリアは出かけて、急いで」とは、マリアの堅い決断と即座に行動したことを言い表しています。彼女はなぜにこれほどまでに急いでいるのでしょうか。それは、神がお示しくださるしるしを見るためです。【36~37節】。マリアは神の約束のみ言葉を直ちに信じることができませんでした。34節でマリアはこのように言います。【34節】。神の奇跡はだれにとっても信じることが困難です。けれども、信じることができなかったマリアに、神はしるしをお与えくださいます。マリアの信仰を助けてくださいます。それゆえに、マリアはしるしを見るために急ぐのです。自分に語られた神の約束のみ言葉を信じることができるために、「お言葉どおり、この身に成るように」(38節参照)、この信仰への道を彼女は急いでいるのです。

 祭司ザカリアの住まいはエルサレム郊外の山里にありました。エルサレム神殿での務めがあるときには、そこから出かけていきます。マリアが住むガリラヤのナザレからエルサレムまでは、直線距離で100キロメートル余り、ヨルダン川の東側を迂回して通る通常の道のりだとどんなに急いでも4、5日はかかるでしょう。マリアにとっては大変な道のりです。けれども、マリアは少しもためらわずに、すぐに決断して立ち上がり、大急ぎで目的地へと向かいます。神が彼女をそこへとお招きになるからです。そこに、彼女が見るべきもう一つの神の奇跡があるからです。そしてそのしるしを見て、彼女に語られた神の約束のみ言葉が確かであることを信じるために、彼女の身に今起こっている奇跡が確かであることを確認するために、彼女は急ぐのです。

 マリアはザカリアの家に入ってエリサベトにあいさつします。彼女たちの出会いとあいさつは、単に親類同士が久しぶりに顔を合わせたというのではなく、神によって導かれている出会い、神によって固く結びつけられている二人の出会いであり、あいさつです。そのとき、全く不思議なことが起こりました。41節以下を読んでみましょう。【41~45節】。ここで起こっている不思議なこと、母になろうとしている二人の婦人の感動的な出会い、いや、それだけではありません。二人の胎内に宿っている二つの新しい命の不思議な、感動的な、驚くべき出会い。ここでは何が起こっているのでしょうか。その意味を更に探っていきましょう。

 この二人の婦人の出会いの意味を、ルカによる福音書がこれまでに記してきた物語全体の中で考えてみましょう。わたしたちはこれまで二人の子どもの誕生予告について聞いてきました。5~25節では、洗礼者ヨハネの誕生予告が、そして26~38節では、主イエスの誕生予告が語られていました。この二つの誕生予告が、きょうの39節以下に記されているマリアとエリサベトの、二人の母となるべき婦人の出会いによって、ここで一つに結び合わされているということに、わたしたちは気づかされるのです。

 この二つの誕生予告は、一つは、エルサレム郊外に住む、長い間子どもが与えられなかった年老いた夫婦、ザカリアとエリサベトに与えられた約束であり、もう一つは、ガリラヤのナザレに住む、まだ一緒になっていない婚約者、ヨセフとマリアに与えられた約束であって、エリサベトとマリアが親戚関係にあったということのほかには、何一つ結びつきがない、二つの別々の誕生予告と思われていたのですが、その二つの誕生予告が今ここでマリアとエリサベトが出会うということによって、いやそれのみか、二人の胎内に宿っている新しい二つの命の感動的な、不思議な出会いをすることによって、一つに結合されているのです。二つの誕生予告が一つの神の救いのみわざであるということが、二人の母となろうとしている婦人の出会いによって、目に見える形で明らかにされたているのです。すなわち、神がわたしたち全人類を罪と死と滅びから救い出すためにこの世にお遣わしになるメシア・キリスト・救い主のために道を備える先駆者となる洗礼者ヨハネの誕生予告と、その先駆者によって整えられた道を通ってこの世においでになり、神の永遠の救いのみわざを成就されるメシア・キリスト・救い主なる主イエスの誕生予告とが、今ここで一つに結ばれ、神の一つの救いのみわざがこのようにして開始されたということを告げ知らせているのです。二人の母となるべく選ばれたマリアとエリサベトは、共にこの神の救いのみわざのために用いられ、仕えているのです。そのことこそが、この二人の婦人を固く結びつけているのであり、ここでの美しく、感動的な出会いを経験させているのです。

 この特別な出会いの意味を更に探ってみましょう。ここで出会っている二人の婦人、マリアとエリサベトは共に神の奇跡によって母になろうとしているということに注目しましょう。ここでは、神の特別な恵みをいただいて、神の奇跡によって、胎内に子どもを宿している二人の婦人が出会っています。あるいは、こう言ってもよいでしょう。ここでは、神の恵みと神の恵みとが出会っている、神の奇跡と神の奇跡とが出会っているのだと。

 人間と人間との出会い、美しく、感動的な出会いは、このようにして起こるのです。共に神の恵みと祝福とを受けている者同士の出会い、共に神の奇跡を体験している者同士の出会い、共に神の救いのみわざのために仕えている者同士の出会い、そして、共に神の約束のみ言葉の成就を信じ、待ち望んでいる者同士の出会い、ここにこそ、人間として最も感動的で、真実な出会いがあるのです。

 そのような出会いは、わたしたちの礼拝においてこそ実現しているのだということを、まず覚えたいと思います。わたしたちは主の日ごとにこの世から選び出され、礼拝に集められ、礼拝の民の中に加えられます。共に神の選びと招きとを受け、神の恵みを与えられ、神の憐れみによって罪ゆるされた者としてここに集まっています。共に神のみ言葉を聞き、讃美歌を歌い、祈りをささげています。共に一つの主の食卓を囲み、聖霊なる神の交わりの中に一つとされています。礼拝でのこのような交わり、出会いこそが、わたしたちの真実な出会いの原点なのです。この礼拝で神と出会うこと、わたしたちの唯一の救い主であられる主イエス・キリストと出会うこと、そして共に神の救いの恵みに招き入れられている兄弟姉妹として交わり、出会うこと、これがわたしたちの真実の出会いの原点であり、中心なのです。

 マリアとエリサベトの出会いの更に大きな、最も重要な意味は、ここでは、神の奇跡によって母になろうとしている二人の婦人が出会っているだけでなく、二人の胎内に宿っている主イエスと洗礼者ヨハネとが出会っているということです。その不思議な出会いについて41節でこのように語られています。【41節a】。これは何という不思議な、驚くべき出会いでしょうか。

 このときにはエリサベトの胎内の子どもは6カ月になっていますから、胎動が感じられる、おなかの中の赤ちゃんが動くということは、わたしたちもよく知っています。けれども、今ここで起こっておることは、一般的な胎動ではもちろんありません。マリアのあいさつの声をエリサベトが聞いたときに、エリサベトの胎内の子どもにまでその声が届いたということのようです。いやもっと的確に言うとすれば、ここではマリアの胎内の子どもとエリサベトの胎内の子どもが出会っているのです。メシア・キリスト・救い主であられる主イエスと、メシアのために道を整える先駆者である洗礼者ヨハネとが出会っているのだと言うべきです。これが、マリアとエリサベトの出会いの中心的な意味です。

 洗礼者ヨハネは、神が旧約聖書の民イスラエルに約束された全世界のメシア・キリスト・救い主の到来を、最も近くで預言し、その救い主のために道を備える先駆者です。主イエスは旧約聖書の約束の成就そのものであられ、長く待ち望まれていたメシア・キリスト・救い主であられます。そのヨハネと主イエスとがここでは出会っているのです。あるいはこう言ってもよいでしょう。ここでは、預言と成就とが出会っているのだと。旧約聖書と新約聖書とが出会っているのだと。そして、待降節・アドヴェントと降誕日・クリスマスが出会っているのだと。エリサベトの胎内でその子が喜び踊ったのは、このような偉大な神の救いのみわざが起こっているからなのです。

 エリサベトは聖霊に満たされてマリアを祝福する言葉を語ります。エリサベトはマリアよりもずっと年上ですが、彼女は最大級の言葉でマリアをほめたたえています。けれども、ここからローマ・カトリック教会がマリアを特別視して、聖母マリアとして崇拝したり、マリアに関するさまざまな根拠のない教理を創り出していったことについては、宗教改革以来、わたしたちプロテスタント教会は異議を唱えざるを得ません。マリアがどんな理由からほめたたえられているのかを正しく読み取らなければなりません。

 それは42節にはっきりと書かれているように、マリアが女性の中で祝福された方であるのは、マリア自身の何らかの特質や能力によるのでは全くなく、それはひとえにマリアの胎の実が、すなわち主イエスが祝福されたお方であるからにほかなりません。また。45節に書かれているように、マリアが幸いな人であるのは、マリア自身に何らかの優れた点があったからでは全くなく、それはひとえに、マリアが神のみ言葉を信じ、従順に従ったからにほかなりません。重要なことは、神が約束のみ言葉をマリアに語ってくださり、神がそのみ言葉を確かに成就されたということにあるのです。

 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。このみ言葉は、きょうの礼拝に招かれているわたしたち一人ひとりにも語られています。わたしたちが本当に幸いな人となり、幸いな人生を歩むことができるのは、主なる神のみ言葉を聞き、その成就を信じつつ、主イエスが再び来たりたもう日を待ち望むことによってです。

(祈り)

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