12月29日 説教「神と共に生きる人間、人と共に生きる人間」

2019年12月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記2章18~25節

    ローマの信徒への手紙12章9~25節

説教題:「神と共に生きる人間、人と共に生きる人間」

 創世記には1章1節から2章4節前半までと、2章4節後半から25節までの二つの天地創造の記録があるということを、わたしたちは前回確認しました。神の創造のみわざは一つですが、それを多少違った二つの側面から描いていると言えます。第一の創造の記録と第二のそれとは、表現の仕方や強調点が違っています。神学的立場の違いもあります。しかし、そこで語られている中心的なメッセージは一致しています。神の一つの天地創造と人間創造のみわざが、このように二つの側面から語られることによって、わたしたちはより一層神のみわざとお働きの深さや広さ、偉大さを教えられます。

創世記1章26、27節の第一の人間創造のみ言葉によると、神は人間をご自身にかたどって、ご自身の姿に似せて、男と女とに創造されました。人間は他の生き物とは違って、ただ人間だけが、神に似ているものとして、神に近い存在として創造されました。人間は神のパートナーとして、神と共に生きるべきものとして、神を礼拝し、神のみ言葉を聞いて生きるものとして創造されています。

 そのことは、2章4節以下の第二の人間創造のみ言葉によって、より一層明らかにされます。神は人間アダムに命の息を吹き入れて生きる者とし、エデンの園(すなわち喜びの園)に住まわせ、生きるに必要なすべてのものをお与えになり、「園のどの木からでも自由に取って食べよ」とお命じになりました。人間はこの神のみ言葉を信じて神に聞き従うときに、最大限の自由と豊かな命を与えられ、神と共に永遠に生きることがゆるされます。

 二つの人間創造のみ言葉に共通しているテーマのもう一つは、神と共に生きるべき人間はまた同時に人間と共に生きるべき存在でもあるということです。1章27節で「男と女に創造された」と書かれているのはそのことを意味しています。神は人間を一人だけで創造されませんでした。「男と女」という対で、ペアで創造されました。しかも、男ともう一人の男とか、女ともう一人の女ではなく、男と女という、違った存在である二人が一組となって、連帯して、共に生きるべきものとして創造されました。

 きょうの礼拝で朗読されたもう一つの人間創造のみ言葉である2章18節以下には、よりはっきりと、より具体的に、共に生きるべき人間アダムのパートナーとして神が女エバを創造されたことが語られています。では、18節から読んでいきましょう。【18節】。「人が独りでいるのは良くない」と神は言われます。人は一人で生きるべきではない、生きることはできない、人は孤独であるべきではない。それは人間を創造された神の強い意志であり、み心なのです。

 「彼に合う」と訳されているヘブライ語は直訳すれば「彼の前にある者として、彼に向か合っている」という意味です。20世紀のドイツの神学者カール・バルトはこれを「差し向かいである者として」と訳しました。人間は一人だけで生きるべきではなく、他の人間と向かい合って、顔と顔とを向かい合わせ、心と心とを向かい合わせ、共に、連帯的人間として生きるべきである、それが創造者なる神のみ心であり、神は人間をそのような者として創造されたのです。

 人間は一人では生きられない、孤独であってはならないということは、わたしたち人間の共通した思い、共通した認識でもあります。だれでも、孤独であることの寂しさというものを経験します。そのつらさを知っています。今の時代は特に人間関係が破壊し、多くの人が孤立と孤独を強いられています。そのために傷つき、生きる希望や喜びを失いかけている人たちも多くいます。自殺や殺人、暴力などの背景には、だれからも愛されず、理解されない孤独な人間の姿が潜んでいるように思われます。もし、だれか一人でもその人を真剣に理解してあげ、愛していたなら、その人と顔と顔とを向かい合わせて、差し向かいである人が一人でもいたならば、それらの悲惨な事件のいくつかは防げたに違いありません。人は孤独であってはいけないということはわたしたちすべての切なる思いであるのですが、それ以上に、わたしたちの創造主なる神のみ心であり、強い意志であるということをここから教えられます。

 神はわたしたち人間が神と差し向かいで生きる者となるように望んでおられます。また、わたしたち人間が互いに差し向かいで生き、連帯的人間となるように望んでおられます。そのために、神はご自身のみ子・主イエス・キリストをわたしたちのもとにお送りくださいました。わたしたちと同じ人間のお姿で、わたしたち罪びとたちと連帯してくださり、しかも死に至るまで徹底してわたしたち罪びとたちと連帯してくださいました。「その名はインマヌエル、神我らと共にいます」というクリスマスの福音をわたしたちは先週聞きました。神はわたしたち罪びとたちと永遠に共にいてくださいます。神が我らと共にいますゆえに、我らもまた共にいることができるのです。それゆえに、だれも孤独ではありません。「人が一人でいるのは良くない」と言われた神のみ心は、天地創造の初めから、降誕節に至るまで、さらに主イエス・キリストの十字架の死に至るまで、そして終わりの日のみ国が完成されるときまで、永遠に貫かれているのです。

 「助ける者」とはここでは具体的には男アダムに対する女エバのことです。「助ける者」という翻訳は誤解される恐れがあります。だれかの補助的な存在と理解されやすいからです。しかし、ここで言う助ける者とは、忙しいときの助っ人のことではありません。男アダムが自分の仕事や何らかの目的をうまくやり遂げるために、あったら便利というような補助のことではありません。むしろ、それなしでは男が人間であることができない相手、あるいは、それなしでは女が人間であることができない相手としての、互いに相手をなくてならない存在として必要とするような、そのような関係、すぐ前の言葉で言うならば、お互いが差し向かいである者たちとして、顔と顔とを合わせて向かい合う相手のことです。それこそが、「人が独りでいるのは良くない」と言われた神のみ心に適った男アダムと女エバの関係です。英語の翻訳では多くはパートナーという言葉が用いられています。

 「助ける者」が必要だということは、男アダムの側からの要求ではなく、神のご配慮によることです。神がアダムをエデンの園に置かれたことのみ心にそってさらに深く探っていくならば、「彼に合う助ける者」とは、共にエデンの園で神のみ言葉を聞き、神から与えられている命の恵みを共に分かち合い、共に喜んで神にお仕えしていくためのパートナー、同伴者ということになるでしょう。わたしたちはここから、男と女との正しい連帯的関係について、その頂点としての結婚のあり方について、あるいは一人の人間と一人の人間が共に生きるという課題について、さらには教会生活での兄弟姉妹の交わりについても考えていく基本を見いだすことができるのではないでしょうか。

 さて、神は人間アダムにふさわしい助ける者をお与えになるために、まず野や空の生き物をお造りになったと19節から書かれています。1章に描かれていた第一の創造の記録では、これらの生き物が造られたのちに、最後に人間が創造されたという順序になっていましたが、第二の創造の記録では人間の後に他の生き物が造られます。その順序は違っていますが、そこで語られている中心的なテーマは一致しています。すなわち、人間はそれらのすべての生き物たちの頂点にあり、中心にあるということです。きょうの個所では人がそれらの生き物に名前を付けるということによってそのことが表現されています。名前を付けるということはそれらに対して主権を行使すること、それらを治め、管理し、守るということを意味しています。1章26節、28節以下で語られていたことと同じ意味です。

 けれども、それらの生き物を人が思いのままに支配し、管理できても、それが人の孤独を満たす助ける者とはなり得なかったと20節に書かれています。それらは人間と差し向かいの関係を作ることはできません。そこには、呼びかけたり支配したりすることはあっても、応答がないからです。互いの人格的関係がないからです。本当の意味で差し向かいであるためには、一個の人格と一個の人格とが共に独立した存在として出会い、対話し、応答しあうことが必要です。そのようにして、人は孤立と孤独から解放され、連体的人間となります。しかし、人間以外の生き物とはそのような関係を築くことができなかったと聖書は言います。【20節】。

 続けて、【21~24節】。神が人を深い眠りに落とされたのは、これが神の奇跡のみわざであることの強調です。人はこれには全く関与していませんし、関与することも傍観者であることもできません。ここでも、これまでの神の創造のみわざが無から有を呼び出だす創造であり、死から命を生み出す創造であることと同じ内容が語られています。神はみ言葉によってすべてのものを創造されました。神はまた、土のちりから人を創造され、これに命の息を吹き入れて生きる者とされました。男アダムのあばら骨から女エバを創造されたのも同じような無からの創造、死から命の創造です。

 ただ、ここで強調されているもう一つのことは、男アダムと女エバは同じ骨、同じ肉によって造られているのであり、両者は一体となるべきであり、連体的人間である、それが神のみ心だということです。そのことが、「主なる神が彼女を人のところへ連れて来られた」という言葉によって強調されています。男アダムと女エバとが真実の出会いをし、共にふさわしい助け手となり、連体的人間となって、一体となるのは、神のお導きなのです。神が二人を出会わせるのです。

 23節には、7節と同じようなヘブライ語の語呂合わせがあります。女を意味するイシャーと男を意味するイシュとは語源は違っていますが発音が似ていることから、イスラエルの人々は男イシュと発音する時はいつでも女イシャーを思い起こし、イシュなしにはイシャーはなく、イシャーなしにはイシュがないということを意識しました。そのようにして、すべての人は隣人と共にあることによって真実の差し向かいの関係となり、連体的人間となることを意識しました。

 【24節】。エフェソの信徒への手紙5章31、32節ではこの創世記のみ言葉は主キリストと教会との一体を語っていると理解しています。わたしたちが主キリストの体なる教会の中に植えこまれることによって、主キリストと一体にされ、またわたしたちも一体とされるのです。

(祈り)

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