3月8日説教「洗礼者ヨハネの登場」

2020年3月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章1~11節

    ルカによる福音書3章1~6節

説教題:「洗礼者ヨハネの登場」

 ルカによる福音書はこれまで洗礼者ヨハネと主イエス・キリストの記録を交互に記録してきました。洗礼者ヨハネの誕生予告が年老いたザカリアとエリサベト夫婦に告げられたこと、続けて主イエス・キリストの誕生予告がまだ結婚していなかったおとめマリアに告げられたこと。次に、神の奇跡によって母になろうとしていたエリサベトとマリアが出会ったこと、そこでは二人の胎内に宿っていたヨハネと主イエスがすでに出会っていたこと。そして、洗礼者ヨハネが誕生したこととそれに続く主イエスの誕生のことという具合に。もちろん、ルカ福音書が語ろうとしている主題は、洗礼者ヨハネのことではなく、彼の後においでになる主イエスこそがイスラエルと全世界の唯一のメシア・救い主であるということなのですが、きょうの礼拝で朗読された3章1節以下でもそのことをあらかじめ確認しておくことが重要です。つまり、1~20節まで、洗礼者ヨハネの活動について書かれている内容は、そのあとの20以下で語られる主イエス・キリストとの関連の中で、来るべきメシア・救い主のために道を備える先駆者としてのヨハネの務めが語られているのだということです。そして、ヨハネについての記録は3章1~19節までで終わりますが、本来の主題である主イエス・キリストのことについては、この福音書の終わりの24章まで続いています。洗礼者ヨハネの誕生から彼の生涯、そして彼の死に至るまでの全生涯は、彼の後においでになる主イエス・キリストとの関連の中で語られているのです。

 もう一つのルカ福音書の特徴は、2章1~2節では主イエスの誕生が当時の世界史との関連の中で語られていたように、3章1~2節ではヨハネの活動開始が当時の世界史との関連の中で語られてるということです。しかし、このこともまた、最初にお話ししたように、主イエス・キリストとの深いつながりの中で語られているのであって、3章20節から始まる主イエスの活動開始と世界史とが関連付けられていると読むべきです。つまり、主イエスが、23節に書かれているように、「およそ三十歳で宣教を始められた」その時の時代背景がここでは語られているということです。

 その時代とは、1~2節にこう書かれています。【1~2節】。ティベリウスはローマ帝国第二代の皇帝でした。2章1節で主イエス誕生の時に初代皇帝であったアウグストゥスのあと、紀元14~37年の長い間全世界を支配していました。ティベリウスはローマ帝国の支配をヨーロッパ全土から地中海周辺地域、中東諸国にまで広げ、ローマ帝国の支配が余りにも強大でだれも反乱できないことから、のちの歴史家はこの時代をローマの平和(パクス・ロマーナ)と呼びました。けれども、その平和は剣によってかろうじて保たれていた平和であって、本当の平和ではもちろんありませんでした。彼の治世の15年目に宣教活動を始められ、その3年後に、ローマの支配下にあったパレスチナの一角エルサレムで十字架につけられて死なれた主イエス・キリストこそが、人間の罪をゆるし、全人類に神との和解を与え、すべての人間にまことの救いと平和とをお与えになる救い主であられます。

 次のポンティオ・ピラトは紀元26~36年までの間、ローマ帝国ユダヤ州の総督として派遣されていました。彼の裁判で主イエスが最終的な死刑判決を受けたことを、わたしたちはこの福音書の23章で聞くことになります。ピラトはローマ帝国の全権によって、つまり全世界の名によって、神のみ子を罪ありと宣告し、そのみ子の血の責任を全世界の民を代表して負うことになったのでした。わたしたちが礼拝の中で『使徒信条』によって「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」と告白するのは、その意味なのです。

 ヘロデとあるのは、主イエス誕生の時にイスラエル全土の王であったヘロデ大王の4人の息子の一人で、ヘロデ・アンティパスが正確な名前です。父ヘロデ大王の死後、イスラエルは4つに分割されて彼の息子たちがローマの権力の傘のもとで領主となりました。ヘロデ・アンティパスは主イエスの故郷ガリラヤの領主であったために、23章6節以下によれば、主イエスの裁判に携わることになりました。ヘロデ・アンティパスもまた全イスラエルの名によって主イエス・キリストの十字架にかかわっていたのです。

また、2節ではアンナスとその義理の息子カイアファは大祭司であったと言われています。本来、大祭司は一人で、紀元15年にアンナスはその職を退いてカイアファにゆずったのですが、その後も背後にあって大祭司としての権力を握っていたために、「大祭司」という言葉は単数形なのに二人の名が挙げられているのはそのためです。

 以上のことから分かるように、当時のイスラエルは神に選ばれた聖なる民でありながらも、異教徒の王・ローマ皇帝に支配されていました。神と契約を結んだダビデ王家が途絶えて久しく、国土はいくつにも分割され、ヘロデ王家は異教徒の血を引いており、この世の享楽を求め、権力争いを繰り返すことに明け暮れ、しかも民衆を抑圧し、苦しめていました。宗教的指導者の頂点に立つべき大祭司も、その本来の務めである、神と国民に仕えることを忘れ、自分の権力や名誉を求めることに終始していました。政治も宗教も神から遠く離れ、堕落し、腐敗していたのでした。

 けれども、神はなおもこの国をお見捨てにはなりませんでした。ご自身が選ばれたこの民をなおも愛され、この民にみ言葉をお語りになるのです。2節の終わりに、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」と書かれてあるとおりです。神はこの国になおも新しい預言者をお立てになります。旧約聖書の中で預言され、待ち望まれていたメシアの到来の間近になって、最も偉大な預言者ヨハネをとおして、ご自身のみ言葉をお語りになり、ご自身の救いのみわざをなし続けられ、そして完成されるのです。神に愛され、選ばれた民イスラエルは、ほとんど死にかけてはいましたが、神のみ言葉はなおも生き続けています。この国の民の中に預言者を起こし、この国を顧みられ、死にかけていたこの民に新しい命を注ぎ込むのです。

 「神の言葉が……ヨハネに降った」という個所は直訳すると、「神の言葉がヨハネの上に現れた」となります。神のみ言葉がヨハネの上に、彼の全身を覆うように、彼の全存在、全人格を覆うように現れ、彼を支配したという意味が込められています。同じ表現は、旧約聖書の預言書に数多く表れます。エレミヤ書1章では、2節、3節、4節、11節等に、繰り返して、「主の言葉が臨んだ」と書かれています。言葉は普通耳で聞くものですが、神のみ言葉は耳だけでなく、わたしの全存在を上から覆うように語られ、強い力と命をもってわたし全体を支配し、わたしを揺り動かし、わたしを神のみ言葉によって新しく創造し、新しい道に生き、神と隣人とに喜んで仕えていく者とするのです。

 ヨハネは今、旧約聖書の預言者たちの列の最後に立ち、最も近くで、来るべきメシア・救い主なる主イエス・キリストの到来を預言するために、神のみ言葉によってとらえられたのです。その意味で、ヨハネは最も偉大なる預言者です。

 わたしたちはここで、ルカ福音書が主イエスの宣教活動を語り始めるに当たって、それに先立って、当時の世界とイスラエルの支配者である王と大祭司と預言者について語ろうとしているのはなぜかを考えておきたいと思います。王、祭司、預言者はイスラエル社会の重要な3つの務めでした。それぞれがその職務に就く際には、王、祭司、預言者は頭からオリブ油を注がれました。神による聖別と神の祝福が注がれるしるしとなりました。そのようにしてその職務に就いた人を「油注がれた者」、ヘブライ語では「マシーアハ」(日本語ではメシア)と呼ばれました。そこから推測できるように、ルカ福音書は主イエスこそがイスラエルの王、祭司、預言者の務めを完成される「油注がれた者」、メシアであるということを暗示しているように思われます。

 キリスト教の教理では、これをキリストの3職と言います。主イエス・キリストはまことの、永遠の王として、また、まことの、永遠の祭司として、そして、まことの、永遠の預言者として、イスラエルと全世界のすべての人々の救いを完成された「油注がれた者」、メシアであるという教えです。このキリストの3職という教理についてもう少しみていきましょう。

 まことの王であるとは、主イエス・キリストは地のもろもろの王たちの中の王であられ、地のすべての人たちを永遠にご支配される唯一の王であられ、しかも、この世の王たちのように、権力や武力、経済力によって民を支配するのではなく、愛と恵みによって、すべての人に僕(しもべ)のごとくお仕えになり、ご自身の命を注ぎつくされて、十字架の死と復活によって罪と死とに勝利された永遠の王であられ、来るべき神の国の王であられるという教えです。ローマ皇帝もまたこのまことの唯一の王であられる主イエス・キリストのみ前にひれ伏さなければなりません。

 まことの祭司であるとは、祭司は神と神の民イスラエルとの間に立ち、本来その両者には罪という大きな溝があるのですが、その溝を埋め、神と民とをつなぐ役割を果たすのがその務めです。そのために祭司はエルサレム神殿で日ごとにイスラエルの民の罪の贖いのために動物を神にささげます。主イエスは全人類の罪の贖いの供え物として、ご自身の罪のない清い血を父なる神にささげるために十字架で死なれました。その一度の完全な贖いの犠牲によって、全人類の罪が永遠にゆるされているのです。

 まことの預言者であるとは、主イエスは神のみ言葉をお語りになるだけではなく、ご自身が神のみ言葉として、神のみ言葉が肉となって(これを受肉と言いますが)、人となられてこの地においでくださいました。そして、神の救いのみわざをご自身の全生涯とその最後のご受難、十字架の死、三日目の復活によって完成されました。それによって、旧約聖書のすべての預言者たちが預言したメシア・キリスト・救い主のみわざを成し遂げてくださったのです。主イエスは預言の成就、預言の完成、神のみ言葉そのものであられます。

 主イエスはそのようにして、王、祭司、預言者の務めを完全に果たしてくださいました。洗礼者ヨハネはそのような来るべきメシアの到来に備えて、荒れ野に出て、人々に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。主イエス・キリストは今も天で父なる神の右に座しておられ、わたしたちのまことの王として、まことの祭司として、またまことの預言者として、わたしたちの救いの完成のために執り成していてくださいます。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、み子、主イエス・キリストによってわたしたちの救いを成就してくださいましたことを、感謝いたします。どうか、主キリストがわたしたちのまことの王として、まことの祭司として、まことの預言者として、永遠にご支配くださり、お導きくださいますように。

〇主なる神よ、いま世界が恐れと不安の中で混乱しています。どうぞ、あなたのいやしと平安をお与えください。特に、弱い立場にある人たちをお守りください。

〇全世界のすべての国民、すべての人々に主キリストにある救いの恵みと平和をお与えくださいますように、切に祈ります。  主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA