3月22日説教「エデンの園を追い出された人間」

2020年3月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記3章20~24節

    ローマの信徒への手紙5章12~21節

説教題:「エデンの園を追い出された人間」

 創世記1章から3章まで、神の天地創造と人間創造、そして人間の罪、原罪について語るみ言葉を読んできましたが、きょうはその最後の個所を学びます。これまで学んできたように、聖書はここで、神が人間をどのように創造されたか、その人間がどのようにして罪に落ちたのか、そして神は罪の人間をどのように扱われたのかということを、深い信仰の洞察をもって語っています。わたしたちはここから、人間の原型、人間とは本来どのような生き物なのかについて、また人間の罪の原型、罪とは何かについて、そして神の救いの原型について、神は罪の人間をどのようにして救おうとされたのかを、聞き取ることができます。

 きょうの最後の個所では、神の戒めに背いて罪を犯した人間がエデンの園を追い出されることが描かれています。いわゆる楽園追放とか失楽園について語られています。この個所でも、今確認した3つのこと、人間とはそもそも何者なのか、人間の原型について、また人間の罪の原型について、そして神の救いの恵みの原型について、非常に意味深いみ言葉が語られています。

 では、20節から読んでいきましょう。【20節】。ここで初めて女の名前がエバと名づけられます。ちなみに、アダム(ヘブライ語ではアーダーム)は人間を総称する場合と男を意味する場合と両方の用い方があります。エバはヘブライ語の発音では「ハッヴァー」で「生きる者」とか「命」という意味を持っています。前に2章23節には、アダムが自分のあばら骨の一部から造られた女をイシャーと名づけたと書かれていました。【2章23節】。

 女に今また新しい名前が付けられました。「エバ」、「すべて命あるものの母」とは、何とも名誉ある名前であることでしょうか。神の戒めを破って罪を犯し、神の裁きを受なければならない女に対して、このような名前が付けられるとは! 神は2章17節でこうお命じになりました。「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と。その神の命令に背いた女に対しては、命ではなく、死こそがふさわしいのではないのか。

 しかし、ここではなおも生きることをゆるされています。しかも、「すべて命あるものの母」という名誉ある名前を与えられています。神は直ちに最終的な裁きを執行されませんでした。3章16節では、神は女に罰をお与えになりました。【16節】。ここでは、生みの苦しみは罪を犯した女に対する神の罰と考えられています。けれども、この神の罰は最終的な裁きではなく、いやそれどころか、この神の裁きは今や新しい命を生み出すという命の誕生と喜びに変えられていくのです。エバは自ら生きることをゆるされているだけでなく、母として新しい命を生み出すという光栄ある務めを与えられることになったのです。

 そのようにして、罪という暗い影に脅かされながらも、なおも人間はその命を保たれ、母たちによって次の世代へと命を受け継いでいくことをゆるされているのです。これはなんという大きな神の憐れみであり、恵みであることでしょうか。わたしたちが今生きているということ、今生きることをゆるされているということ、そしてわたしたちの家に、あるいはわたしの隣の家に、新しい命が誕生するということには、実にこのような大きな神の憐れみと恵みがあり、神から与えられている豊かな命の祝福と喜びがあるのだということを、わたしたちは改めて深く思い起こしたいのです。

 次の21節にも罪を犯した人間に対する神の大きな恵みが示されています。【21節】。先に3章7節には、アダムとエバは自分たちの罪と恥を隠すためにいちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いたと書かれていましたが、今や神ご自身が彼らに皮の衣をお与えになります。人間は自分では罪をも罪から生じた恥をも覆い隠すことはできません。けれども、今や神はご自身が皮の衣で人間の罪の体を覆ってくださいます。

 ある人はこれを、楽園追放のための旅支度を神がしてくださったのだと言っています。これからアダムとエバはエデンの園を追い出され、この罪の世界で罪と恥とをさらしながら、労苦の多い旅路を続けていかなければなりません。その人間に対して神はあたたかい配慮をしてくださるのです。神は人間の造り主であられるだけでなく、罪に落ちた人間をなおも守り、その歩みを支えられる神でもあられます。神はわたしたち人間のこの地での困難で労苦の多い旅路に伴ってくださり、必要なものを備えてくださるのです。

 わたしたちはここで主イエスがルカ福音書15章で話された放蕩息子のたとえを思い起こします。放蕩に身を持ち崩して、何もかも失い、絶望して「雇い人の一人にでもしてください」と言って帰ってきた息子を憐れんで家に迎え入れた父親は、「さあ、いちばん良い衣服を持ってきて、この子に着せなさい。この息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」(22~24節参照)と言った場面を思い起こします。エデンの園を追放されようとしている最初の人間アダムとエバのために、この世での困難な旅路に備えて旅支度をしてくださった神は、主イエス・キリストによってわたしたちを神の国での祝宴へと招き入れるために最上の晴れ着を用意してくださるのです。

 22節をどう理解するか、いくつかの難しい問題があります。まず、「我々の一人のように」とはどう意味なのかですが、この「我々」とは、聖書の唯一の神を指していると理解してよいと思われます。1章26節でも神はご自身のことを「我々」と表現しておられます。これは一般に尊厳の複数形と言われる表現で、神がご自身の尊厳、威厳を強調するために、「わたしは」と言うべきところを「我々は」と言われる個所は、聖書の中で他にもいくつかあります。ここもその一つと理解できます。

 そうするとこの個所は、善悪の知識の木から取って食べた人間が神と同じように、神と肩を並べる者となったという意味になります。それは、罪を犯した人間の傲慢を語っているように思われます。神によって創造された人間アダムは、エデンの園で神のみ言葉を聞き、神から与えられた自由と恵みの中で喜びのうちに生きていくことをゆるされていました。けれども、蛇の誘惑に負け、自ら神のようになろうとして、禁じられていた善悪の知識の木から取って食べ、今や自らの意志によって神から独立して立ち、それだけでなく、自ら神のようにすべてのことを自らの知恵で判断し、決定して生きる者となり、もはや神を必要としない者となり、それだけでもなく、神を自分の世界から追い出して生きる者となったのです。そのような人間の罪の現実の姿を、神はここで語っておられます。

 神はそのような罪の人間をそのままにしておかれるのでしょうか。22節の後半で神はこのように言われます。「今は、手を伸ばして命の木から取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」。ここには神のどのようなみ心が言い表されているのでしょうか。

 罪を犯したために神の裁きを受けて死すべき者となった人間が命の木から取って食べることによって、永遠に生き続けることを神は恐れているように思われます。神は2章17節で、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ」とお命じになりました。しかし、その戒めに背いて罪を犯した男アダムに、神は3章17~19節で裁きをお語りになりました。「お前は顔に汗してパンを食べ、ついには土にかえるのだ」と。その神の裁きがここではもう一度確認されているように思われます。ひとたび死の判決を受けた人間が、それでもなおも不死への強い願望を持ち、永遠に生きようとして命の木に手を伸ばし、神の領域にまで侵入しようとする不遜な人間となることを神は恐れておられるのではないか、その可能性を人間に残しておく道を完全にふさぐ必要があると神はお考えになられた、それが次に記されている楽園追放の意図であり意味であると理解できます。

 【23~24節】。神は罪を犯した人間が今後決して命の木に手を伸ばすことができないように、人間をエデンの園から追放されました。この楽園追放の意味をもう一度まとめてみましょう。一つには、先に見たように、罪を犯した人間に対する神の裁きが、ここで最終的に確定したということです。使徒パウロがローマの信徒への手紙6章23節で言っているように、「罪の支払う報酬は死である」ということが動かしがたい神の裁きとして実行されたのです。人間はだれもその神が定められた死の判決から逃れることはできません。人間はみな神の定めに従って死すべき者であることを知らなければなりません。

 楽園追放の意味を別の側面から考えてみましょう。罪の人間に対して死の定めをお与えになった神のもう一つの意図、神の隠された、深い憐れみとも言うべきものを、わたしたちは知らされます。それは、人間が罪びとのままで、自分では負いきれない罪の重荷を背負ったままで、永遠に神なき世界で生き続けることを神は良しとはされなかったということです。死はある意味では人間を罪の重荷から解放することでもあると言えるのではないでしょうか。そして、その最終的な答えとして、神はみ子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪の道を完全に終わらせ、死に最終的に勝利されたのだということを、わたしたちは新約聖書から知らされるのです。

 その新約聖書の福音を24節からも確認できるように思います。人間はエデンの園を追い出され、エデンの東のやせた地を耕しながら生きていく者とされましたが、エデンの園そのものと命の木に至る道はまだ残されています。そこはだれによっても略奪されないように神の使いたちによって厳重に管理されています。神はなおも罪びとたちをこの楽園に連れ戻そうとしておられます。命の木に至る道を再び開こうとしておられます。その可能性がまだ残されているということを、わたしたちは知らされます。

 主イエスは十字架の上で、一緒に十字架につけられた犯罪人の一人にこう言われました。「はっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と(ルカ福音書23章43節)。また、ヨハネの黙示録2章7節にはこのように書かれています。「耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」使徒パウロはローマの信徒への手紙5章21節でこのように書いています。「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰者には、命の木に至る道が開かれ、来るべき神の国での永遠の命が約束されているのです。

(執り成しの祈り)

○天の神よ、わたしたちを罪と死の法則から解放し、罪のゆるしと永遠の命に至

る道へとお導きください。わたしたちがその道を信仰をもって進み行くことができますように。

〇主なる神よ、いま世界が恐れと不安の中で混乱しています。どうぞ、あなたのいやしと平安をお与えください。特に、弱い立場にある人たちをお守りください。

〇全世界のすべての国民、すべての人々に主キリストにある救いの恵みと平和をお与えくださいますように、切に祈ります。

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