5月31日説教「聖霊の賜物を受ける」

2020年5月31日(日) 秋田教会主日礼拝(聖霊降臨日)説教

聖 書:イザヤ書44章1~8節

    使徒言行録2章37~42節

説教題:「聖霊の賜物を受ける」

 使徒言行録2章には、ユダヤ人の祭りである五旬祭・ペンテコステの日に、エルサレムに世界最初の教会が誕生した時のことが詳しく描かれています。主イエスが十字架につけられた過ぎ越しの祭りから50日目のペンテコステの日に、弟子たちの上に聖霊が注がれ、聖霊に満たされた弟子のペトロが立ち上がり、説教をしました。2章14節以下にその説教が記録されています。神は主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって、全人類のための救いのみわざを成し遂げてくださり、今このペンテコステの日に約束の聖霊を注いでくださった。その聖霊のみ力によって、主キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられるようになったと、ペトロは説教しました。

 きょうの礼拝で朗読された37節からは、そのペトロの説教を聞いた人々の反応とペトロの洗礼への招き、そして信じて洗礼を受けた人が三千人であったことが書かれています。これがエルサレムに誕生した世界最初の教会です。これ以来、キリスト教会は聖霊なる神のみ力とお導きによって、二千年の間、全世界で主キリストの福音を宣べ伝えてきました。今、世界の教会が、世界の人々と共に、感染症の拡大によって大きな試練の中にありますが、このような時にこそ、わたしたちは教会誕生の原点から、教会とは何か、またその教会に集められているわたしたちの信仰とは何か、聖書のみ言葉から学んでいきたいと願います。

 【37節】。ペトロの説教を聞いた人々は「大いに心を打たれた」と書かれています。「打たれた」と訳されている言葉は、「突き刺す」とか「えぐる」という意味を持っています。心や魂が深くえぐられ、突き刺され、わたしの全身が激しく揺さぶられるような経験のことです。わたしの存在全体が、わたしの生き方の根本がそこでは問われているということです。そこで「わたしはどうしたらいいのか」という切羽詰まった問いが出てきます。人が神のみ言葉の説教を聞き、主キリストの十字架の福音を聞き、そしてそこに聖霊なる神が働かれる時、わたしたちはそのような激しく心を刺し貫かれるような経験をするのです。

 では、それは具体的にどのような体験なのでしょうか。すぐ前の36節でペトロはこう説教しました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。この説教を聞いた人々は主イエスを十字架につけて殺したその責任を今、鋭く問われていると感じたのです。50日前にエルサレムで過ぎ越しの祭りが祝われていたそのさ中に、罪なき神のみ子であられた主イエス・キリストが偽りの裁判によって十字架刑に処せられ、殺された。聴衆の中には、その場面に居合わせた人もいたでしょうし、そうでない人もいたでしょうが、あるいは多くの人々は直接にその裁判には携わってはおらず、傍観者であっただけかもしれませんが、けれども、ペトロの説教を聞いた多くの人が今その責任を問われている、罪なき神のみ子を十字架に引き渡したことにあなたの責任があるのだと告発され、激しく心を刺し貫かれたのです。神から遣わされた世の救い主・メシア・キリストを受け入れず、拒絶し、あざ笑って投げ捨てた自分の罪を、今告発されていることを知らされたのです。神のみ言葉の説教を聞くとき、そしてそこに聖霊なる神が働かれる時、そのような魂を刺し貫くような、わたしの全存在を根底から揺さぶられるような体験を、わたしたちもまたするのです。そして、「それでは、わたしはどうすべきなのか」と神に問わざるを得なくされるのです。

 36節のペトロの説教が聴衆に強い衝撃を与えたもう一つのことは、「このイエスを神は主とされた」という点にあったと思われます。多くのユダヤ人が、この人は偽りの預言者、神を冒涜する者と断定して捨て去ったナザレ人イエス、「十字架につけろ、十字架につけろ」という群衆の叫びの中で、黙して十字架への道を進み行かれた主イエスを、神は三日目に墓から復活させ、罪と死と滅びからの勝利者として天のご自身の右に引き上げられました。このこともまた聴衆の魂を激しく揺さぶるものでした。そこには、人間の罪にはるかに勝った神の限りない憐れみとゆるしがあったからです。

 「あなた方が十字架につけて殺したイエスを」という言葉は聴衆の罪を告発していますが、「このイエスを神は主とし、またメシアとなさった」という言葉は、彼らの罪をゆるし、救いの希望を与えるものでした。ここには、人間の罪の行為にはるかに勝る神の救いのみわざがあります。多くの人間がその知恵を結集して、裁き、捨て、罪なき神のみ子を十字架に引き渡したという人間の罪が勝利するのではなく、そのような人間の罪をもお用いになってご自身の救いのみわざを成就される神の愛とゆるしが、最終的に勝利するのです。人間たちのどのような罪の力も神の救いのご計画を変更させることも中止させることもできません。神の救いの恵みは人間の罪の力よりもはるかに大きいのです。ここにわたしたちの希望があります。罪と死とに勝利する神からの希望を差し出された時、聴衆はその魂を刺し貫かれたのでした。

 そこで、ペトロの説教を聞いた聴衆は、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問いかけました。この問いには二つの思いが交錯しているように思われます。一つには、今までは気づかなかった自分たちの罪を指摘された人の絶望的な思い、もう一つには、今新たに自分の目の前に差し出されている救いの希望、その二つのどちらを選ぶべきかという選択を迫られた人の問いかけであるように思われます。神のみ言葉の説教を聞いた人、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聞いた人、そしてそこに聖霊なる神が働き、わたしの魂が刺し貫かれ、わたしの全存在が揺り動かされる、そのような体験をした人は、自分が今神のみ前に立たされていることを知らされ、神のみ言葉の前で新しい救いへの道へ招かれていることを知らされるのです。

 ペトロはこう答えます。【38~39節】。ペトロは聴衆を罪のゆるしへの道、救いへの道を選び取るようにと招いています。その道を選び取るために、彼はまず悔い改めを勧めています。悔い改めとは心を変えること、方向転換をすることです。聖書で心という場合、わたしたちが考える内容とは多少というか、根本的にと言うべきか、違っています。聖書で心とは、人間の感情だけでなく、考え、言葉そして行動のすべての源泉となっている、その人の中心、また全体を意味しています。悔い改める、心を変えるとは、その人全体の考え方、生き方、在り方全体が、全く方向転換することを言います。つまり、今までは神から遠ざかる罪の道を進んでいたけれども、それを180度方向転換をして、神の方に向かうということ、これが聖書の悔い改めです。何かの悪い行為とか、間違った行為とかを反省して、再び同じ過ちをしないようにするというのではなく、このわたしの全存在が、わたしの考えや行為のすべてが、神から離れ、神のみ心に背いていたことを知り、その罪を神のみ前で告白し、これからは、神の方に向きを変え、神と共に生きていくことを決断する。その時、聖霊なる神が働き、神ご自身が救いの恵みをもってわたしのところにおいでくださることを知らされる。わたしの罪のすべてをおゆるしくださり、わたしを神に愛されている神の子どもたちとして迎え入れてくださる。わたしはその救いの恵みを、感謝をもって受け入れ、神の導きに喜んで従っていく信仰の道を歩みだす。これが、悔い改めであり、罪のゆるしであり、信仰です。

そして、その罪のゆるしと救いの恵みを信じる信仰の証しとして、洗礼・バプテスマを受けるのです。洗礼によって、罪のわたしが主イエスの十字架と共に死んで、葬られ、また、主イエスの復活の命にわたしも共にあずかり、わたしが新しい罪ゆるされたわたしとして再創造されるのです。

 ペトロはさらに付け加えて、「賜物として聖霊を受けます」と約束します。「聖霊の賜物」には二つの意味が含まれます。一つは、神から賜る贈り物としての聖霊を受けるという意味、つまり、聖霊そのものが神の賜物であるということ。もう一つは、聖霊からもたらされる種々の賜物という意味です。使徒言行録ではほとんどの場合前者の意味で用いられていますので、『新共同訳聖書』ではその意味に限定して「賜物として聖霊を受けます」と翻訳しています。それに対して、使徒パウロの書簡では、聖霊なる神が与えてくださるさまざまな賜物のことが語られています。たとえば、神のみ言葉を説教する賜物、教えたり導いたりする賜物、あるいは、病気の人をいやしたり励ましたりする賜物、それらのすべては人間の力や知恵によるのではなく、聖霊なる神から賜った恵みの賜物なのです。コリントの信徒への手紙一12章にはそれらの賜物が挙げられており、続く13章では、それらの賜物の中で最大、最高の賜物は愛であると語られています。ローマの信徒への手紙12章6節以下で語られている聖霊の賜物について読んでみましょう。【6~8節】(292ページ)。ここでも、パウロは続けて9節以下で愛について詳しく語っています。パウロはこのように、主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、キリスト者となった人は、そのすべての新しい信仰生活が聖霊なる神に導かれ、聖霊なる神から与えられた霊の賜物を生かし、用いて、神と隣人を愛し、神と隣人とに仕える道を進んでいくのだと教えています。

 使徒言行録のきょうの個所でも、そのことは当然前提にされています。弟子のペトロが主イエス・キリストの救いのみわざを説教したのは、聖霊を注がれ、聖霊の力を受けて語ったのであり、聴衆がその説教を聞いて心を激しく刺し貫かれ、罪を知らされ、神の救いの恵みを喜んで受け取る決意へと導かれたこと、そのすべてにも聖霊なる神が働いておられ、聖霊の賜物によることであったのであり、そして何よりも、三千人余りの人が主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、ここに世界最初の教会が誕生したことこそが、聖霊なる神のみわざであったのです。

 そのうえで、使徒言行録が賜物としての聖霊ということを強調している点にも注意を払いたいと思います。聖霊は、いかなる意味においても、人間の感情とか、心や意志とかではなく、聖霊は神であり、人間の外から、上から、神によって与えられた聖霊なる神のお働きであり、時として人間の心や意志に反して、あるいは人間的な常識に反して、神ご自身が尊く深く、不思議なご計画のもとに働いておられる、それが聖霊なる神であるということです。使徒言行録はその聖霊なる神のお働きを記した聖書です。そこで、「聖霊行伝」とも呼ばれます。弟子たちや使徒たちに働かれた聖霊なる神の驚くべき、偉大なるお働きを記しているのが使徒言行録なのです。エルサレムから始まって、パレスチナ全域、地中海、さらにヨーロッパへと教会が発展していくのは、まさに聖霊なる神のお働きなのです。

今日においてもなお、聖霊なる神は全世界の教会を通して働いておられ、わたしたちのこの小さな教会でも、またわたしたち貧しい一人ひとりにも働いておられ、多くの賜物を与えてくださり、教会を豊かにしてくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちの教会にも聖霊を注いでください。わたしたち一

人ひとりにも、聖霊の賜物をお与えください。わたしたちがそれを心から感謝して受け取り、神のご栄光のために用いることができますように、お導きください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

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