10月18日説教「主イエスのもてなし」

2020年10月18日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編33編1~7節

ヨハネによる福音書21章1~14節 

説教題:「主イエスのもてなし」

説教者:長老 小泉典彦

先ほど読んでいただいた、ヨハネによる福音書21章1節~14節は、復活の主イエスが弟子たちに姿を現された三度目の記録です。このことを確認するため、聖書を2カ所読みたいと思います。ヨハネによる福音書21章1節「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちにご自身をあらわされた」、同じく21章14節「イエスが、死者の中から復活したのち、弟子たち現れたのは、これでもう三度目である」という書き出しと結びによって明記されています。

 ヨハネによる福音書21章は、復活のイエスが弟子たちにその姿を現わされた三度目です。「三度目である」とありますので、一度目・二度目を振り返りたいと思います。一度目は、復活された日の夕方です。ヨハネによる福音書20章19節・20節(新約p210)ユダヤ人を恐れて鍵をかけて家の中にこもっていた弟子たちの間にすっと現れました。20章20節の後半「弟子たちは主を見て喜んだ」とありますが、残念ながら弟子の一人のトマスがいませんでした。トマスは、「自分の目で十字架の傷跡を見て、触ってみなければ決して信じない」と言い張りました。そして、二度目はその翌週、イエスはトマスのために現れてくださいました。20章27節のイエスの言葉を注意深く読みますと、一週間前のトマスの言葉を、イエスはちゃんと聞いておられたことが分かります。27節・それからトマスに言われた「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい。」トマスは、自分の疑い深さをくいたことでしょう。弟子たちは20章29節「見ないのに信じる人は、幸いである」との偉大な真理のみ言葉を聞くことになります。私たち信仰者にとって、主イエスについて情報や知識として知ること、体験として知ること、いずれも大切ですが、「見ないのに信じる」大切さは強調してもしすぎることはありません。

 主イエスの復活に出会った後も、弟子たちの信仰の歩みは、いつも高められ、満たされていたわけではありませんでした。高められた時があり、またダウンして意気消沈した時もあり、それらが交錯してくり返されていったと考えられます。復活の信仰が本当に弟子たちの現実となるためには、相当の時間を要したのです。いやむしろ、神の国の実現の時に至るまで、地上を生きる弟子たちの歩みは、常に一進一退を繰り返しながら、目当てをさして進んでいくのが現実ではないかと思うのです。イエスが繰りかえして弟子たちに現れて、彼らを力ずけ、励ましているのもそのためではないでしょうか。迷い、疑い、時には後戻りしながら、しかしそれらを乗り越えていくのが信仰の歩みであります。

 私たちは物事に失敗し、耐えがたい悲しみに陥ると、たいてい自分の故郷に帰ることがあります。そこは、傷ついた者を温かく迎えてくれるところだからです。主イエスの数人の弟子たちも、自分たちの主が、十字架につけられて死なれたのち、復活されて二度までも彼らの前に現れてくださったにもかかわらず、不安や恐れに負けてしまって、いろいろな出来事があったエルサレムから離れて、静かな生まれが故郷ガリラヤへと戻ってきました。このような失意の弟子たちに主がなさったのは、一度体験したことをもう一度体験させること、すなわち追体験を通して記憶をよみがえらせることでした。そうです、3年半前やはりガリラヤ湖畔(ティベリアス湖畔)での体験です。~ ルカ5章4節以下(新約p.109の下の段中ほど)を読む。この箇所は、先週・駒井牧師が「人間をとる漁師になる」という説教で取り上げたところです。 ~

 3節「わたしは、漁に行く」というぺトロ。漁にでるペトロ。一度は捨てたはずの網をもう一度取り上げるペトロ。「昔とった杵ずか」ということわざもあります。何といっても直接にたよりになるのは、長年経験し、鍛えてきた、それによって生計を立ててきた、人間の熟練と経験の力でしょう。過去はなかなか捨てきれないのが、ペトロだけでなく、私たちの偽らない生の現実であります。

 3節後半「しかしその夜は何もとれなかった」、ペトロはここでも空しい失敗を繰り返します。しかし、このことは、大切なことを私たちに聖書は告げています。主の復活に出会って、キリストに従う者としての歩みを始めた後にも、やはり失敗と挫折はあるのだということです。ヨハネ15章5節・有名な「イエスはまことのぶどうの木」の箇所から、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」ペトロは、イエスから聞いて学びとった、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」というみ言葉の深い意味を味わい、思い返したのではないでしょうか。失敗を通しての想起ということです。

 福音書は、イエス・キリストに対する弟子たちのつまずきと失敗の記録でもありますが、しかし単なる失敗談、暴露する記事ではありません。それらを通してもう一度、主とそのみ言葉に帰って行った人たちの記録として、大きな意味と価値を持つ書物です。

今日の箇所21章4節~6節「すでに夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか。」と言われると、彼らは「ありません」と答えた。イエスは言われた、「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」そこで網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」

一人ガリラヤの湖畔に静かに立たれたイエス。しかし弟子たちには、それがイエスであるとは分かりません。「食べる物がありますか」と話しかけられれば、「ありません」と素直に答えることしかない弟子たち。それは、うつろで、疲労した人間の絶望の、率直でうそのない告白です。「ありません」・すなわち「ない」ものは「ない」とはっきり言うところに人間の真実があります。とかく私たちは、ないものをあるかのように見せかけて、外面をとりつくろうことはないでしょうか。しかし、ないものはないとはっきり言うことが大切です。

 使徒言行録3章では、エルサレム神殿の「美しの門」の前で、生まれながらの足の不自由な人に対して、ペトロは次のようにはっきりと言いました、使徒3:6(p217):ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」と率直に語りました。無いものは無い、知らないものは知らないと言うべきです。復活の主の前で、弟子たちは、何をも持たず、何も出来ない人間であったということが、ここでもう一度はっきりとえがきだされます。そのことをはっきりと認めるところに、弟子たちの真実があるのではないでしょうか。すると主イエスは弟子たちに言われました。21章6節「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」「そうすれば。とれます」この明確な言葉。自分の願望も将来の方向性も見失っている弟子たちに、はっきりと結果をお示しになるイエス。この断定はいつもの主イエスの語り口でした。「お言葉どおり、そうしてみましょう」これが弟子たちの常でした。主が語られたとおりにするならば、必ずそうなる。これが神の言葉でした。「そうすればとれるはずだ」「こうすれば、こうなります」との主イエスの言葉は、私たちの今の混沌とした社会情勢の中で、いかに力強いことでしょうか。主イエスのみ言葉は、弟子たち・私たちが、新しい一歩を踏み出すようにかえてくださいます。

 ヨハネ15章5節「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」キリストから離れた弟子たちは無力です。しかしキリストにあって、その御言葉に従ってなすときに、私たちの思いを超えて、できない者ができる者とされるのです。

 さて、復活の主イエスが三度目にその姿を弟子たちの前に現された時、ただ単に、弟子たちの記憶をよみがえらせたばかりでなく、食事の用意をされたというのは注目すべきことです。大漁の魚を引き揚げたあとで、弟子たちは体も大分濡れていたでしょう。ペトロに至っては、水に飛び込むのに普通はきているものを脱ぐのに、「主だ」との弟子ヨハネの声に、上着をまとって飛び込んだというのですから、特別な思いでこの瞬間を迎えたことでしょう。早朝の湖畔ですから、からだが濡れれば寒くもなります。9節「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」主イエスは、陸地で炭をおこし、魚とパンを用意してくださっていました。からだが暖まれば、心も温まるものです。弟子たちはだれ言うとなく火の周りに集まってきました。

 しかし、ある場面に胸が痛むこともあります。9節の「炭火がおこしてあった」という言葉で、イエスが連れて行かれた大祭司の中庭で、ペトロが役人たちと一緒になって暖をとった「炭火」を思い出します。あの中庭には、この福音書の著者であるヨハネもいましたので、この炭火にあの場面を思い出したかもしれません。ペトロにとっては痛みを思い出す「炭火」でした。イエスの言葉に感動した時には「あなたのためには命も捨てます」と豪語したけれど、苦境に立たされ、「あなたもあの男の弟子だ」と言われれば、三度も「知らない」と答えてしまう。否みながらも、炭火に手をかざして暖まっていた自分。心の冷たさと手のぬくもり。 もしも、私たち人間が悔いるとしたらこうした傷ではないでしょうか。自分だけが、難を逃れた、そのかたわらに、愛する者が苦しんでいた。知りながら自分は何もできなかった。どんなに社会的に認められても、この傷だけは癒されない。その傷が癒えないかぎり、ちょっとしたことで心は乱れる。それが人間ではないでしょうか。

 そうした中で、主イエスは弟子たちを朝食に招かれます。かつてガリラヤ湖畔で、5千人を養われたあの場面と同じように、パンをとり、魚をとって彼らにお渡しになりました。あのときのイエスのしぐさが、思い起こされたのではないでしょうか。

 こうして三度目にご自身を現されたイエスは、この記事を読むかぎりごく普通の人として描かれています。ルカによる福音書の記事もそうですが、弟子たちは復活の主イエスが共に歩まれても、初めはそれがイエスであるとは分からなかったとあります。福音書の著者は、外見ではなく、もっと肌で触れるような主イエスとの交わりを伝えたいのです。そこに生身の主イエスがいてくださる。12節後半、「弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」とあります。主イエスのごく自然な振る舞いに、弟子たちは主との交わりを楽しんだのです。ペトロは、使徒言行録のなかで、「わたしたちは、主イエスが死者の中から復活したあと、一緒に食事をしました」と語っています。

 私たちは、主の招きがまずなければ、主を知ることはできませんし、主に従うこともできません。信仰とは、まず私たちが努力して、主を喜ばせ、主のために食卓を用意することではありません。それに先だって主イエスが私たちのためにパンと魚を用意して招いてくださる。もてなしてくださる。その招き・もてなしに応じることからはじまります。

 食卓 それは主イエスが私たちのために備えてくださった、生きるために必要な糧が与えられる場です。

聖書が、私たちに語っているイエスは、仲間はずれにされている人、独りぼっちの人、悲しんでいる人、病人、嫌われている人、問題を抱えている人をほっておかれない方として描かれています。

復活されてからも、疑い深いトマスに対して「トマス、私はあなたをほっておかないよ」と言っておられます。これは大きな恵みです。

 私たちが生きていけるのは、誰かから愛されているからです。主イエスが、私たち一人一人を覚えていてくださるから生かされているのであります。信仰者として私たちは、主イエスのこのまなざしによって生きているのであります。

 説教前に、共に賛美した讃美歌413番「キリストの腕は」の歌詞を読みたいと思います。特に5節「キリストにならい、私たちも 違いを喜び 受け入れ合おう」

 私たちも小さな群れですが、日曜日ごとに教会に集められ主を讃美し、聖書の御言葉に日々養われているこの喜びを、自分たちで味わうにとどまらず、伝える群れ、伝えたい群れへと、主のみ言葉によって変えられるよう願いたいと思います。

 主のもてなしによって、私たちは 心に愛を、豊かに満たされて、この一週間の歩みに遣わされたいと思います。

○執り成しの祈り

 主イエス・キリストの父なる神様。あなたの御名を心よりほめ讃えます。どうか私たちを、キリストにならい、誰をもへだてず、たがいに励まし、たがいに仕える者へと変えてください。

 今日、福島伝道所で礼拝奉仕をされている駒井牧師を祝福してください。どうか秋田への帰りの道のりをお守りください。

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