8月22日説教「良いことばかりではないけれど」

聖書:申命記28章1~8節

 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章6~10節

説教者:日本キリスト教会神学生 田中康尋

良いことばかりではないけれど 「祝福」。この言葉を、インターネットの画像検索で検索してみる。すると、「祝福」という言葉を題名に含む、たくさんの写真やイラストが出てくる。某宗教団体の合同結婚式の写真。そこに集まる数多くの新郎新婦の、皆同じ、明るい笑顔と、その異様な光景。 地上波のテレビでは見られることのない、アニメのヒロインたちの色鮮やかな画像。タイトルは、「この素晴らしい世界に祝福を」、「いっぱいの祝福」、「祝福のカンパネラ」。 野球の日本代表、侍ジャパンのその後についてのニュース。写真のタイトルは「練習前にナインから金メダル獲得を祝福された坂本」、「侍Jの強化本部長も祝福 教え子稲葉監督は『令和の監督の采配』」。 芸能ニュースを報じる、ネットニュース。コメントを求められた、芸能人たちの写真が並ぶ。有名な俳優どうしの電撃結婚を、共演者たちが祝福したらしい。 企業広告の画像。タイトルは「結婚祝いに祝福のメッセージを電報で NTT東日本」。 祝福に関連する、無数の写真や画像が、画面を埋め尽くす。そこに見られるのは、人々の満面の笑顔、白やパステル調の明るい色の花々。世界中で、新聞の1面やテレビのトップニュースが、毎日、感染症の深刻な話題で、埋め尽くされる、その傍らで、祝福は、これまでと変わらずに、人々の間で、生まれ続けている。 さて、そのことは、私たちの身の回りに目を移してみても、同じではないでしょうか。祝福の機会は、数多くあります。お子さんや、お孫さんが、新しい命として生まれた方、入学式や卒業式を迎えられた方、ご自分やご家族が結婚をされた方、病気が良くなった方、病院から退院された方、新しい生活のステージへ迎えられた方。そうした方々が、きっと皆さんの身の回りにも、いらっしゃることでしょうし、その方々に「おめでとう」と言葉をかけたことも、記憶にあるのではないでしょうか。秋田教会では、その週にお誕生日を迎えられる方をお祝いして、その方の好きな讃美歌を皆で歌うという習慣があります。この夏、私もそれをご一緒させていただいて、とても温かい、素晴らしい祝福の場であるなあと実感いたしました。そのように、教会の中であれ、外であれ、私たちの周りに、どれほど大きな苦労や、大きな悲しみがあろうとも、それは決して、祝福される機会や、また、祝福をする機会が減ったのではないのだ、ということを、忘れないようにしたいものです。 旧約聖書も、そのことを伝えようとしています。その言葉を聞いてみましょう。「あなたは、町にいても祝福され、野にいても祝福される。」 「町にいても」、「野にいても」。私は、朝にジョギングをしていまして、この夏期伝道実習の間も、しばしば走りました。朝7時過ぎに、この教会を出て、そこの踏切を渡って、線路沿いに北へ、というか北西になりますか、その方向へ遊歩道がまっすぐ伸びています。そこをずーっと走っていって、泉外旭川の駅を超えて、さらに走って、JR貨物の駅を過ぎたあたりで遊歩道が終わります。そこからは、北へ向かって、高速道路の北インターに向かう幹線道路の歩道を走ります。今年の夏は、特に雲一つない晴れの暑い日が多かったですから、このあたりを走っているときが、一番過酷でしたね。そして、釣り具の上州屋と、グランマートの前を過ぎて、そして南部屋敷を通り越して、ガソリンスタンドのある大きな交差点に差し掛かります。その交差点では、いつも赤信号に引っかかってしまうんですが、信号が青になって走り出して、道路を渡ると、景色が一変するんですね。一面、だーっと田んぼが広がる。その中を走るのはとても気持ちがいいんです。交通量がぐんと減って、なんといっても、風が爽やか。ですから、何とか毎回、その景色、その風にたどり着けるように、頑張って走っていました。このように、市街地と田んぼの境目、町と野の境目には交差点とガソリンスタンドがあるだけですから、もし、ジョギングではなく、車で通るならば、この境目には、ほとんど気づくことなく、通り過ぎてしまうことでしょう。 「あなたは、町にいても祝福され、野にいても祝福される。」 聖書のこの言葉は、一説によれば、旧約聖書、申命記が記された時代よりも前から、人々の間で語り伝えられていた、いわば「民間伝承」のようなものではないか、と考えられています。その時代、「町」と「野」の境目は、もちろん、信号とガソリンスタンド1つを挟んで、のどかな田んぼが広がる、といったものではありませんでした。町、今でいうと小都市くらいの規模ですが、町と呼ばれるのは、城壁でぐるっと囲まれ、敵から守られた地域のことです。どうして、町の外に、そこまで警戒の目を向けるのか、と思われるかもしれません。それは、この時代にはそもそも国境の警備がされていないので、町の城壁の前まで外国の軍隊が攻め込んでくることが、普通にあったからです。旧約聖書の物語の中でも、例えば、イスラエルの軍隊がいわゆるカナン地方のある町を包囲したり、反対に、外国の軍隊がエルサレムを包囲したりする、というエピソードがあるのを、ご存じの方がいらっしゃるかと思います。そのように、町の城壁の手前までは、敵が簡単に来られてしまうのです。したがって、城壁の外側、「野」にあたる地域は、大変危険です。一歩でも町から野に出れば、身の安全は保障されません。町と、野では、城壁を隔てて、まったく別の世界が広がっているのです。城壁の中では、人々が日々、安心して、商売をしたり、買い物をしたり、あるいは、料理を作って、友人たちと語り合いながら食事をしたり、家族と楽しく過ごしたりする。一方、城壁の外では、人々が身の危険を感じつつ、荒涼とした土地で、僅かな作物が育てられる。時には、そこは、攻め込んできた敵たちに踏み荒らされる場となる。 「あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。」 聖書のこの言葉は、そのように考えてみると、なかなか信じがたいことを言っている、ということが、感じられると思います。「町」と「野」という、全く違った2つの世界、2つの状況を目の当たりにしながら、それでも、聖書のこの言葉は、その両方の中に神の祝福があるのだ、と訴えています。町の中では、人々が路地を行き交い、そこには日々、素敵な出会いや、美味しい食事や、お酒や、大きな仕事の成功や、新しい子どもの命の誕生といった、多くの喜ばしい出来事があります。そのような出来事を経験した人は、周りの人たちから「おめでとう」と祝福の言葉をかけられ、誰の目にも明らかな祝福の雰囲気と、喜びの場が、そこに生まれることでしょう。一方、城壁の外、野で「おめでとう」という言葉を聞くことは、ほとんどないでしょう。そもそも、そこには、言葉を掛け合うほどたくさんの人はいませんし、ましてや、親戚や友人に会うことは、滅多にありません。畑の作物が多めに採れたり、家畜の子が生まれたりすることは、たしかにあるかもしれません。しかし、それらの、野で起きた出来事に対して言われる「おめでとう」という言葉の数は、町の中での、人間どうしの結婚や、赤ちゃんの誕生のときに言われる「おめでとう」という言葉の数よりも、はるかに少ないに違いありません。ですから、「おめでとう」という祝福の言葉に関して言うならば、町の城壁の外側、つまり、「野」と呼ばれる地域は、祝福の少ない地域、祝福の空白地帯であると言えるでしょう。 私が先月、7月の初めに夏期伝道に来た頃、駒井牧師の車に乗せてもらって秋田市の郊外に出ますと、田んぼが一面に広がっていて、まだ膝下ぐらいの長さの稲が、青々と茂っていました。それが、最近、また郊外に行くことがあって見てみましたら、稲がもう余裕で膝の高さを超えて、高く育っていて、そしてもう穂を出していて、濃い緑ではなくて、黄色がかった、黄緑色の景色に変わっていました。今年の夏は天気が良い日が多かったので、育つのが早いのかなあと思いつつ、そしてまた、秋にはたくさんのお米が獲れるんだろうなあと期待しつつ、その風景を眺めてきました。さて、もし今年、例年よりもたくさんの上質なお米が収穫されたとしたら、そのことはきっとニュースになると思います。そのニュース、その記事のタイトルには、どんな言葉が使われると思いますか?「収穫」、「豊作」、「品質」、「期待の新品種」、「価格」など、様々考えられますよね。しかし、「祝福」という言葉が、そのニュースや新聞記事の見出しに使われることは、おそらくないと思います。芸能人の結婚や、スポーツの優勝のニュースなどで、毎日のように生み出され、毎日のように目にされる「祝福」という言葉は、町の外の出来事、田んぼで確かに起こっている、稲の生長という出来事については、使われることはありません。城壁が町の中と外を分け隔てていた聖書の時代にも、そして、交差点1つで郊外の田んぼに繋がっている現代にも、どちらも同じように、祝福の言葉が多く聞かれる場所と、そうではない場所があるのです。 「あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。」 この言葉は、そう考えてみると、町の中にも、野にも、そのどちらにも神の祝福がある、ということを超えて、さらに、自分の置かれた場所にかかわらず、同じだけの祝福がそこにはあるのだという確信と、決意を含んだ言葉であるように思われます。自分の置かれた場にあって、一体何が祝福であるのか。そのことについて、聖書は具体的には語っていません。それは、祝福になりうる出来事は、どこにいても、私たちの周りに無限にあること、そして、それを自分自身で見つけ出して、神の「祝福」として捉えることが大切だ、ということを、教えているのではないでしょうか。聖書はその際、面白い言い方をしていまして、「籠もこね鉢も祝福される」と言っています。籠や鉢の中身ではなくて、入れ物自体が、もうすでに祝福されているというのです。その祝福された籠に、何が入ってきたとしても、丸ごと全部、祝福されることが決まっている。その籠に何を入れるか、それは自分自身で決めなければならないでしょう。さあ、あなたは今日、何をその籠に入れるでしょうか?

(執り成しの祈り) すべて良きものの源である神様、あなたによって形作られ、命を与えられたすべてものと共に、祈り求めます。あなたの祝福が、すべての人に及びますように。感染症の拡大に対応するために働く、医療関係者の方々や、様々な決断をしなければならない方々に、あなたからの祝福と助けが豊かに与えられますように。不安と期待の中で新学期を迎える子どもたちに、そして、家族や親戚、友人と会うことが困難な中で暮らす、高齢の方々に、あなたからの豊かな祝福が届きますように。私たちが、キリストの愛に倣って、互いに助け合い、仕え合う者とされますように、その道を示してください。イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン。

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